「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2000/12/15 14:50

第39回配信
どこへ行っても


かなり「垢抜けた」町になったプリシュティナ中心部
   去る10月28日にコソヴォで空爆後初の選挙が行われ、私も日本のテレビ局取材班に同行する機会がありました。私もこのページでコソヴォのことは今までいろいろ書いていますが、実際に現地に行くのは「便り」の執筆を始める前の98年春以来でした。読者の皆さんもご存知の通り、昨年の北大西洋条約機構(NATO)による空爆後のクマノヴォ協定によって、多国籍軍コソヴォ展開部隊(KFOR)と国連コソヴォ暫定統治機構(UNMIK)が入り、セルビア警察・ユーゴ軍などの勢力が撤退しました。現在のコソヴォでは北部ミトロヴィッツァなど一部地区を除いてセルビア権力の及ばない自治が実現しつつあります。そこで今回は、空爆後ユーゴ=セルビアから独立したも同然、の状態になって初めて見るコソヴォのレポートです。

   鋭い読者の方はお気付きだと思いますが、セルビア語通訳が本業の私はアルバニア語が出来ません(英語も相当苦手ですが)。テレビ局の記者には、地方選へのボイコットを表明しているセルビア人地区の取材なら同行する、と言っていたのですが、ここには書きにくい面倒な事情と成り行きで結局私もプリシュティナ空港で合流し取材の全日程をアテンドすることになりました。通訳の方は英語の堪能な現地の私の知人にやってもらって、野次馬同然の三脚・マイク持ちです。その分後ろで「(旧)ユーゴ便り」用の取材を抜け目なくやってきました(!?)。
やや乱立気味の新しいガソリンスタンド
   コソヴォに入るにはマケドニアのスコピエから陸路で20分の国境ジェネラル・ヤンコヴィッチ(アルバニア語名ハン・イ・エリェジット)を越えて、というのが飛行機を除けば物理的には一番楽なルートです。しかしセルビア本国と接しておらず、セルビア警察・税関のいない国境を越えることは10月5日のユーゴ政変以降もユーゴへの不法入国とみなされています。セルビア本国には行かないでコソヴォに行くだけという方ならともかく、ベオグラードに滞在している私のような者や、セルビアにも足を運びたいという方には絶対お勧めできませんので、読者の方もご注意下さい。と言うわけで、私もベオグラードから陸路セルビア本国・コソヴォの州境越えルートです。
   朝のベオグラードを発ち、仲人バーネのかっ飛びベンツで3時間半、セルビア本国とコソヴォの州境地域に昼前には着いていました。州境メルダレの手前15キロでまず簡単なセルビア警察のチェック。この後クマノヴォ協定で警察・軍の展開が制限されている地域を通り、州境まで100メートルの所でセルビア側最後の検問。そして100メートル進むとKFORのチェックポイントです。今回日本のテレビ局の取材の通訳を頼んだアギムと運転手のドリトンが待っていてくれました。ここでベオグラードから私を送ってくれたバーネとはお別れです。
   2年半前のコソヴォ滞在もテレビ局の仕事で、やはりアギムと仕事をしていますので彼がセルビア語が堪能なことはよく私も知っています。ところが彼はKFORのチェックポイントから英語で私に話しかけて来ます。「おいおい、車の中でくらいセルビア語でいいんだろうね」。するとアギムはやっとセルビア語で「あ、ごめんごめん、お前そんなに英語下手だったっけ?」。チェックポイントから感じていた緊張がようやくすこし解けましたが、運転手のドリトンが「オレもセルビア語は問題ないけどな、でも外では気を付けようぜ」とクギを刺します。まだ昨秋の「無法状態」だった頃、スラヴ系の言語を話していたというだけでブルガリア人の国際警察官が殺されたりポーランド人が暴力を受けている所です。サライェヴォで国連の運転手を務める知人からはコソヴォで子どもの物売りからタバコを買おうとしてうっかりボスニア語で話しかけてしまったら、「お前はセルビア人だろう」という敵意の眼差しで圧倒された話も聞いています。日本人の皮を被っていても「敵性語」は「敵性語」。気を引き締めました。

プリシュティナ中心部のミニマーケット。中の品揃え(左上)も中進国並みになったが、物価は高値安定
   久しぶりに私の目に入ってきたコソヴォ。かつては州境がないのに、メルダレを越える辺りから畑や路地のゴミやら空き缶やらが散乱していて、ああ、州境を越えたな、と分かったものです。公共事業が全く機能していなかったからです。ところが2年半前のそういう風景はありませんでした。アスファルトも新しく舗装された箇所がよく分かりました。目立つのは壊れた家を再建している様子と、雨後の筍のようにたくさん出来たガソリンスタンドです。アギムは「公共事業はまあまあ機能し始めたね。ベオグラードじゃ聞いていないだろうけど、空爆中セルビア勢力がひどいことをしているのはこの家の壊れ方を見れば分かるだろう。今は建築ブームなんだ」。ドリトンも「一応平和にはなって物流もまともになったけど、これからみんな生活をどうやって行くかが大変なんだよ。モノは西ヨーロッパや旧ユーゴ諸国から入ってきている。でも物価は高値安定でね、まだ経済がまともに機能しているとはとても言えない状態だ。それでミニマーケットとかガソリンスタンドとか手っ取り早い商売を始める人が出てきてるわけさ」。
   かつては冴えない町、という印象だったプリシュティナ中心部は新しい店もたくさんできてかなり垢抜けていました。テレビの仕事の合い間を見てミニマーケットに入ってみます。野菜、果物などの一次産品、コーラや菓子などの製品とも、10月5日以前のセルビア本国より出回りが少しいい感じですが、値段はちょっと割高。セルビア製のお菓子や調味料もありますが、もちろん値段はマルク表示でユーゴディナールは受け付けません。
   ドリトンの妻は医師で月収450マルクです。「他の人と比べれば悪くはないけど、とても足りてるという実感はないなあ」。今回の選挙を仕切るUNMIKや全欧安保協力機構(OSCE)の現地職員で1000から1500マルク、これなら普通に暮らせる、という水準のようです。KFOR、UNMIK、OSCE、そして報道。外国人が出入りするホテルのコーヒー1杯1・5マルク。タバコはマルボロが2・5マルク。アギムは「プリシュティナでは2DKの家賃が500マルクだぜ、タクシーでちょっと近場に行くとすぐ5マルク、夜だと10マルクだよ」。平均月収が100マルク前後というベオグラードより一回り、他のセルビアの田舎よりはかなり割高、というところです。物価水準といい、外国機関の現地職員だけがまともに生活をエンジョイできる点といい、デイトン包括和平直後のサライェヴォによく似ていました。
かつてプリシュティナを象徴する建築だった巨大な屋根の「ボーロ&ラミズ」体育館は昨年撤退するセルビア人によって半焼したまま
   ホテルの近くにはインターネットカフェを建築中、第33回配信にも書いたモナコの国番号の携帯電話の販売も盛ん、店の看板のデザインも妙に洒落ていてヨーロッパ風です。しかし空爆のツメ跡ははっきりと残っていました。プリシュティナ中心部の警察、郵便局、郊外のユーゴ軍兵舎などはボロボロのままです。中心部にはボーロ&ラミズという大きな体育館があり、かつてはプリシュティナを象徴する建物でしたが、セルビア人がクマノヴォ協定で軍・警察とともに撤退する際に「アルバニア人に使わせないように」と火を点けて行きました。それが半焼したあとは今でも見ることが出来ます。実は「ボーロ&ラミズ」というのは第2次大戦中に殺され、ティトーの時代に「社会主義英雄」に死後指定されたコソヴォゆかりの社会主義者ボーロ・ヴクミロヴィッチ(セルビア人)とラミズ・サディク(アルバニア人)の名を関したものです。体育館が「半焼」したことを受けたアルバニア人の間でのジョークは「ボーロは出て行ったが、ラミズは残った」。今やコソヴォにアルバニア人、セルビア人の共存はないという現実をこの冗談が物語っていると感じました。

政治集会には必ず登場する赤と黒のアルバニア国旗(コソヴォ民主同盟の選挙集会にて)
   地方選は事実上、穏健派I・ルゴヴァのコソヴォ民主同盟とタカ派で元コソヴォ解放軍総司令官、H・サチ率いるコソヴォ民主党の一騎討ちでした。しかし穏健派とは言ってもルゴヴァもコソヴォ独立を主張している点ではサチらタカ派と変わらず、コシュトゥニツァのセルビア=ユーゴ新当局と対話を進めるか、これを無視して西側の政治パワーをバックに独立に突っ走るかという程度の違いです。双方の選挙集会を取材しましたが、赤地に黒鷲のアルバニア本国の旗が乱れ舞う様子は同じでした。いや黒鷲はもうコソヴォの旗になってしまったと思えるくらい、コソヴォ中のどこにも現前しています。建て直している壊れた家に旗。町を歩けばキーホルダー、ペナントなど赤黒のコソヴォグッズ。結果は穏健派の民主同盟が27市のうち21市(総得票率58・1%)でタカ派の民主党(同27・0%)に勝ちましたが、来年以降コソヴォ州議会や大統領など上のレベルの選挙が実施され自治の体裁が整ってきた時に、ユーゴからの独立要求が強くなることは避けられそうにありません。(10月5日以降の)国際政治状況を見てみるとヨーロッパはコソヴォ独立に消極的で、アメリカとの相違は明らかです(心なしかEUの旗よりも星条旗の方が一般市民からはウケがいいように思えました)。しかしアメリカも大統領の交代(いったい誰が新大統領になるのか未だに分かりませんが)によって外交政策に変化があった場合、コソヴォ独立支持の可能性は小さくなることも考えられます。
身分証明書の照合、次に顔写真の照合、二重投票を防ぐため爪に塗料を塗って・・・。「初の民主選挙」は一人一人の投票にやたら時間がかかり、投票所はどこも東京ディズニーランド並みの大行列になってしまいました。取材班のドリトン運転手にも午前中の取材後投票に行ってもらいましたが、夜疲れた顔をしてホテルに帰ってきました。「今住んでいる所の投票所だと思って大行列に並んだのに自分の名前がない。身分証明書に登録されている昔の住所の投票所まで改めて行くハメになったよ」。UNMIKと共に今回選挙の実施に当たったOSCEのエヴァート代表は「大変な行列をしてまで投票しようという市民の熱意が感じられた」と声明を発表しましたが、ちょっと自我自賛ではないかと思います。実際には有権者名簿作成の際の混乱(これは同情できますが)、国際機関の官僚主義的な選挙実施方法と現地スタッフの教育の不徹底などによる非能率が目立った選挙でした。
   翌29日付の新聞には「誇り(krenar)」という言葉が踊りました。UNMIKクシュネ−ル代表「私はコソヴォの皆さんを誇りに思う」等々。しかしクシュネ−ルは、セルビア人がボイコットせざるを得ない状況に関しては「来年にもセルビア人特別枠を設定し、今回実施出来なかった地区での再選挙を準備したい」とおざなりに言うにとどまり、さらに国際機関の「自画自賛」の印象が強まりました。
ベオグラードのコシュトゥニツァ政権は「対話は促進、独立は論外」。また独立した上でアルバニアと併合というシナリオも存在しますが、地閥対立の強いアルバニア本国の政治状況の中で現政権はトスク(コソヴォからは遠い南部)閥です。アルバニアも依然不安定な状況が続いており、今後もこうした様々な要素をウォッチングして行かなければならないと思います。
   ホテルの部屋でコソヴォの地図をじっと眺めていて、一つ発見したことがありました。南部のマケドニア国境近くにあるイェゼルスカ山地からは、直径15キロくらいの範囲から3つの川が流れています。その一つは西へ、アルバニアのドリン川に合流してアドリア海に流れます。もう一つは南東のマケドニア領でヴァルダル(ギリシア名アヒオス)川に合流しエーゲ海へ。3つめの川の水は北東でモラヴァ川となり、セルビアでドナウに注ぎ、ルーマニアから黒海へ流れて行くのです。ひとつの山から3つの海へ。その「発見」をアギムに話したら嬉しそうな顔をして、「その通り。そしてコソヴォも同じだよ。形の上で『自治』か『独立』か『併合』か、っていうのはどうでもいいように思う。小さくても香港みたいな地域があるだろう。コソヴォもどこにも開かれたバルカンの香港になれたらいいんじゃないかな」。そんな話になりました。

   昨年の空爆中、コソヴォで何が起こっていたのか。ベオグラード近辺の出来事を書くので精一杯だったこの「便り」にコソヴォのことを少しでも触れることのもどかしさと怖さをお分かり頂けていたかどうかは分かりません。しかしインターネットどころではなかったプリシュティナからの情報は乏しく、ベオグラード発の大本営発表はもちろん、ブリュッセルのニュースも信用できない中で何が書き得たでしょう。
多くの家が空爆中に壊されていたことは現地に行くまで実感がなかったことを反省(しかし周囲にセルビア人もいないのにアルバニアの旗を立てて建て直すことはないと思うが・・・。プリシュティナ空港近くにて)
   今回の滞在では現在プリシュティナでOSCEの職員をしているエルカンドさん(仮名)から話を聞くことが出来ました。彼は南西部ジャコヴィッツァ(アルバニア語名ジャコヴァ)の名家の出身で、妻はアルバニア人とセルビア人のハーフで、やはりセルビア人の名家の血筋をひいているそうです。そんなこともあって共産主義時代には、エルカンドさんは党員でこそなかったもののセルビア人、アルバニア人両方から「地元の顔」として尊敬されていました。英語も出来るので、空爆直前にはOSCEコソヴォ監視ミッションの現地スタッフになっていました。結果的に言うと彼はこうした立場を利用してセルビア人、アルバニア人の双方の間を「うまく泳いで」切り抜けたのですが、それでも大変なことに変わりはありませんでした。
   「空爆が始まり、アルバニア人は食料危機に陥った。食料がまともにあるのはユーゴ軍、セルビア警察とセルビア民兵だけだった。私の住んでいる都市部では空爆対象の建物もあったし、セルビア人のスナイパー(狙撃手)がいて外にもそう簡単には出られない。結局他の団地の住人と同じように地下のシェルターで3ヶ月暮らした。ただ自分の家の前にはセルビア人の民族主義の象徴の『4つのS』マークをわざと書いておいた。そのためか後で帰ったら荒らされないで済んでいた。セルビア人勢力の中にはもちろん地元の知人もいたから、そのコネを潰さないで、本来はアルバニア人には来ないはずの食料を流してもらっていた。もちろん同じ団地の『地下住まい』の住人にも分けていた。
1 メルダレ 2 ジェネラルヤンコヴィッチ 3 イェゼルスカ山地 4 ジャコヴィッツァ 5 グラチャニッツァ 6 グニラネ 7 ブヤノヴァッツ 8 プレシェヴォ
一方息子がコソヴォ解放軍に取られる危険もあったので、OSCE職員として知り得たセルビア人勢力の兵舎などの情報を解放軍側には横流しすることで息子を兵隊に取られずに済んだ。アルバニア人が安全にアルバニア(本国)に難民として脱出できるように、セルビア人、解放軍双方の連絡を秘密にやっていた。」
   ジャコヴィッツァではエルカンドさんの親戚も二人、セルビア民兵によって殺されています。そのうちの一人は女性で、ご主人からエルカンドさんが聞いた話ではいきなり家に入り込まれて「5分やるから出て行け」と言われたそうです。そして一回は夫婦と赤ちゃんで外に出たのですが、赤ちゃんの哺乳びんを忘れたことに気付き妻だけが家に戻ったところ「帰って来なかった」とのこと。またもう一人の親戚は殺されはしなかったものの、やはりセルビア人民兵に押しかけられ10万マルクを要求されました。「自分は6万しか持っていない」「それでいい、全額寄越せ」で身一つ命からがら脱出したとのことです。
   第31回配信で安田弓さん(当時UNMIK職員)は「多くのアルバニア人住民は「セルビア(人)」と聞くだけで、殺したいとも思っているようです。だいたい家族に一人は収容所送り、虐殺被害者、行方不明者などが出ており、それだけに彼らは紛争が終り平和を愛するというよりはまだ、セルビア人に対する恨みや憎しみの方が強いようです」と語っています。エルカンドさんたちの経験はまだ1年半前のものです。こうした話を聞くと共存を唱えること自体が、正直に言って、無意味にさえ思えてしまいました。それを無意味であると認めてしまうかどうかは別問題ですけれども・・・。

セルビア正教の精神的拠点の一つ、グラチャニッツァ修道院
   州都プリシュティナから南東へ7キロ、グラチャニッツァは14世紀建立のセルビア修道院があることで知られた村です。セルビア正教ゆかりの地ということもあり、空爆前からこの村(戦前の人口約4500)にはセルビア人が多く住んでいました。クマノヴォ協定によるKFOR展開、ユーゴ軍撤退後、この村から脱出したセルビア人も少なくありませんが、一方でプリシュティナなど都市部から「州内難民」が流入し、この地域ではここだけが周囲から孤立した島状のセルビア人地域になっています。しかし州都に近く、またグニラネなど東部方面への幹線道路上にあることから、アルバニア人の車もこの村をたくさん通っていました。村の入り口と中心部にKFORのポイントがあり、修道院前もKFORスウェーデン隊の兵士が護衛に当たっています。
   ここの技術・交通科高校はもともとプリシュティナにありましたが、空爆後の状況の変化により同校は「アルバニア化」。セルビア人の教職員や生徒は学校ごとグラチャニッツァに移転しましたが、現在は小学校の校舎を借りる形で授業を続けています。同校のネデリコヴィッチ校長は昨年までテレビ局の職員としてプリシュティナに通っていましたが、職場から追放も同然の形で住んでいるグラチャニッツァの高校校長に任命されました。
   「結局は数で勝てない。ということは行政にセルビア人の意思が反映されないのだから、地方選に参加する意味はない。確かに昨秋のような無法状態ではなくなって、治安はよくなっている。しかし我々はゲットーの中で包囲されているようなものだ」とネデリコヴィッチ校長は言います。
技術・交通科高校のネデリコヴィッチ校長
   マルクもディナールも受け付けるよ、という物売りの市民は「東部の道を通ってセルビア本国に仕入れに行くにしても、KFORの護衛付きコンヴォイを利用しなければならない。政治には興味がないし、静かな暮らしが出来ればアルバニア人とだってうまくやっていけるつもりだ。でも今はとてもまだそんな状況じゃない」と言っています。プリシュティナの南郊外の家を追い出された、という女性はもう少し激越でした。「そりゃ住んでいた家に帰りたいわ。でも近くの親戚宅は焼かれ、今はアルバニア人ばかりになった村にどうやって帰れって言うの?」。
   グラチャニッツァではコシュトゥニツァ新政権の評判は悪くありません。一方今後コソヴォが「アルバニア人の国」として独立することになったらどうするか、一般市民は展望のないまま政治レベルの決定を待つしかない、という様子でした。

   「コソヴォはセルビア人のもの」なのかどうか、またそういう議論に意味があるのかどうか今回筆者は判断を差し控えますが、少なくともコソヴォのセルビア人にとって一番落ち着く場所はコソヴォなのは当然です。州内難民でさえも「家に帰りたい」思いが強いのですから、クマノヴォ協定後遠いセルビア本国などに脱出した15万を越える人々にはなおさらです。
希望よ

もはや
この名でしか
幸福を名づけることはできない

どんなに美しい言葉にも
意味はない
詩になる前に
口にのぼることがないなら

だとしたらなぜ希望が
ないのに
希望の詩を?

   古い話で恐縮ですが、昨年の12月には今秋と同じテレビ局の取材でベオグラードの東50キロのスメデレヴォの難民施設を訪れています。「KFORとUNMIKはコソヴォの『アルバニア化』に貢献している。ユーゴ軍とセルビア警察が再展開されない限り、セルビア人の安全はない。だから帰れない」という了解が難民の中では一般化していました。
   この夏には別の文学関連番組の取材で、やはりスメデレヴォ在住のコソヴォ難民という詩人のP・ペシッチ氏と知り合いました。スメデレヴォに移ってから出版した彼の詩集「石の上の蝶」の中には、「希望よ」という哀切で、一人の難民の故郷への思いを考えさせる短詩がありましたので紹介します(右囲み)。

スメデレヴォ市のコソヴォ難民収容施設での昼食配給(昨年12月)
   11月22日、セルビア本国のコソヴォ、マケドニア州国境に近いプレシェヴォ、ブヤノヴァッツ両市近郊地域でセルビア警察とコソヴォ解放軍の流れを汲む「プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァッツ解放軍(セルビア語略称OVPMB、アルバニア語略称UCPMB)」との間で衝突が発生、警官3人死亡、5人負傷、また一時主要国道スコピエ・ベオグラード線が封鎖されるなどしました。その後両サイドの停戦が守られ小康状態が保たれていましたが、本稿執筆中の12月3日に再び解放軍から警察に対し迫撃砲による攻撃が加えられた模様です。
   同地域は本稿の初めの方に書いたメルダレ同様、クマノヴォ協定によってユーゴ軍、セルビア警察の展開と火器所有に制限が加えられている地域で、KFORの州境警護網を破ってコソヴォから解放軍側に重火器が流れ、武力では解放軍の方が優位に立っているとみられています。プレシェヴォ市などはアルバニア人住民が圧倒的多数を占めているため、コソヴォの一部アルバニア人過激派がその領有を既成事実化しようとし昨年来何度かセルビア=ユーゴ勢力との衝突や緊張が続いていました。しかし10月5日のユーゴ政変以降では初めての衝突です。

   かつての旧ユーゴは「コソヴォだけがアキレス腱だが・・・」などと言われたものです。結局最初の火種が最後まで残ってしまった、そんな印象を強く持たざるを得ない近況です。

(2000年12月上旬)


本稿には観光その他の目的で読者の皆さんのコソヴォ渡航を推奨する意図はありません。日本国外務省(海外渡航危険情報)はコソヴォ地域に対し現在も高い危険度を設定していますのでご注意下さい。
写真は1999年12月、2000年10月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこれら及び他の取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントである取材関係者から許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。

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