「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2005/09/05

第84回配信
サソリと二千の墓〔後編〕


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サソリ部隊の映像公表とタディッチ・セルビア共和国大統領の「スレブレニッツァに謝罪に行く」発言が戦争責任論を喚起した
   前回配信の後半で紹介した「サソリ」部隊によるスレブレニッツァの男子数名の殺害映像(6月2日旧ユーゴ国際戦犯法廷=在オランダ・ハーグ=で公表、直後に旧ユーゴ圏各テレビでも放送)は、セルビア本国に大きな戦慄と衝撃をもたらしました。並行してタディッチ共和国大統領は「スレブレニッツァ10年追悼式典に『謝罪』に行く」と予告。6月上旬から7月11日のスレブレニッツァ式典に至る時期、政治トーク番組や各誌紙で様々な意見が飛び交い、この数年なかったほど世論が真っ二つに割れた感がありました。今回配信では、セルビア国内の戦争責任に関する議論と、これを取り巻く現在の政治的要素との関連などを中心テーマとして報告します。

   サソリとともに突然噴出した感のある戦犯問題、戦争責任論に関し、セルビア本国の論調は主に3つに分かれました。
(1)ボスニアなどへの謝罪、対国際法廷(旧ユーゴ国際戦犯法廷)協力を積極的に遂行せよ、という積極論(人権ファンドのN・カンディッチ代表など)。
(2)盲目的賛同ではないが対国際法廷協力は推進。民族和解に向けてタディッチ「謝罪」は一定評価の論。タディッチ大統領(民主党)、コシュトゥニッツァ首相(セルビア民主党)などの現政権に近い筋の大半意見。
(3)罪があったことは否定しないが、セルビア人の被害を強調し責任の相対化を主張する論。ニコリッチ党首代行のセ急進党など守旧民族派。

   6月にほぼ毎日のようにベオグラードのテレビを賑わせた討論では、テレビというメディアの性格もあるのでしょうけれども(1)と(3)の組み合わせが多く、議論が最初から噛み合わないケースがほとんどでした。
   (1)の和解積極論は、一見言っていることは結構なのですが盲目的先進国追従論者が多く、底の浅さが見えることはしばしばでした。しかしドキュメンタリー作家としてカラジッチ(ボスニア戦争時のセルビア人勢力「大統領」)やムラディッチ(同、軍参謀総長、ともに国際戦犯法廷より訴追済、潜伏中)
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ベオグラード大学法学部はアヴラモフ元教授のような守旧派論客の拠点。民族派シンパの学生によって「スレブレニッツァ『解放』10年記念」などというシンポジウムが5月に開催されている
らが遂行したボスニア戦争の非人間性を暴露し続けるL・ストヤノヴィッチは、これら大物戦犯が自発的にハーグに出頭すべきか、の問いに対し「他の将官の名誉のためにもぜひ出頭し自分たちの筋を通すべきだ」(テレビB92、7月3日放送)と言い、強い印象を残しました。
   民主党シンパであることを隠さない歴史研究者・評論家B・プルパは(2)の範疇に属すると思われます。彼女はプロパーの歴史家としてよりも、ユーゴ空爆中に暗殺された反ミロシェヴィッチ論客S・チュルヴィヤ氏の未亡人として発言の機会を増やしている人で、そうした履歴にはやはり底の浅さを感じさせてしまうところはあります。しかし彼女の「ブラトゥナッツなどでセルビア人の被害があった事実は忘れてはならないが、スレブレニッツァはスレブレニッツァ、ブラトゥナッツはブラトゥナッツのこととして議論を一緒にするべきではない」という意見は正論であるように思えました。同じ場でのZ・チェピッチ・ベオグラード大学政治学部教授の「謝罪とは単に『赦して下さい』と頭を垂れることではない。セルビアにはこうした真っ当な政治家があり支持者がいる、と世界に示すことだ」という発言とともに、筆者にはもっとも「真っ当」に聞こえました(TVスタジオB、7月12日放送)。
   また(3)の右派は国際戦犯法廷には否定的、ミロシェヴィッチ賛美などの聞くに値しない論が大半でした。しかしその中にもそれなりに傾聴に値する意見もありました。S・アヴラモフ元ベオグラード大学法学部教授はミロシェヴィッチ政権のブレインだった人ですが、大統領あるいは国家がボスニア、さらにはクロアチアに謝罪する動きを手放しで賞賛していいのか、と大半の感情論とは違う地点から警告します(BKテレビ、6月29日放送)。
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クロアチアへの「牛の弁償」を決めたヴヤノヴィッチ・モンテネグロ共和国大統領。国際裁判の結果によっては大型国家賠償を負う可能性のあるセルビアに小さな「当てつけ」「嫌がらせ」との声も
「国家あるいは大統領が謝罪するならば、国家の責任を認めることを意味する。次に来るのは国家賠償の話だ。豊かならざるセルビアが国家賠償でどん底に陥るプラスは何もない。むしろ集団の罪はない、虐殺・人道に対する罪などの意思が国家としては存在しなかったことを主張する方向でなければならない」。
   国家賠償に関しては、ドイツの高名な哲学者ヤスパースの「責罪論」が有名です。ドイツ人全員がナチであったわけではないのだからドイツ人全体の罪は問えない。しかし国家が負うべき賠償責任はあり得る、という彼の論旨は(ドイツ人を救うための詭弁だという説もありますが)、戦後西ドイツの戦争責任観を支えてきたところがあります。
   ヤスパースの言う政治的責任、つまり国家が負うべき賠償責任については、同じオランダ・ハーグでも戦犯法廷とは別の法廷、国際司法裁判所で係争が進行中です。既にボスニアは93年3月に(直後にはクロアチアも)当時のユーゴ連邦を相手に訴訟を起こしています。ユーゴ連邦(03年からはその継承主体であるセルビア=モンテネグロ)側も逆訴訟をしていましたが、昨年これを取り下げたいきさつがあります。もし虐殺(ここで言う虐殺は日本語の一般的な意味ではなく、『ある集団がある集団を抹殺する意思をもってこれを行う』という国際法の定義上の虐殺です)が行われたことが戦犯法廷ないし国際司法裁判所で認められるならば、当然セルビアはボスニア(やクロアチア)に対して賠償金を払わなければならないでしょう。
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スレブレニッツァ大量殺害事件の遺族たち(7月11日、10年追悼式典にて)。民族和解を進めたい気持ちを持つセルビア良識派は少なくないと信じたい。しかしどのような形で、という問いに結論はなかなか出ない 
上記のアヴラモフ発言は「和解はいいが、政治家がわざわざ国を不利に導く第一歩を踏み出すな、慎重にコトを進めろ」と言っているように聞こえました。

   7月27日、モンテネグロ・ヴヤノヴィッチ共和国大統領とクロアチア・メシッチ大統領の同席の下、「戦争でユーゴ人民軍が接収したドゥブロヴニク乳業所有の牛650頭分の賠償として」37・5万ユーロ(約5100万円)をモンテネグロ共和国が支払うことで合意が成立、クロアチアのツァフタットで調印されました。これは同月6日メシッチがセルビア=モンテネグロをクロアチア元首として初めて公式訪問した際、モンテネグロ共和国首脳が「同共和国からも参加の多かった91年ドゥブロヴニク戦線での被害地域に賠償金を出す」と予告していたものです。当初は華々しく国家賠償と打ち上げられた話が「牛の弁償で5000万」になり、ベオグラードにはまたモンテネグロネタの笑い話を一つ提供する結果になりましたが、一部からはクロアチア・ボスニアの起こしている上記国際訴訟をセルビア不利にするための、モンテネグロ独立推進政権の嫌がらせと受け止められていました。訴訟の相手国はセルビアではなくセルビア=モンテネグロのはずですが、もうモンテネグロは来年以降独立するのでセルビアの賠償責任は無視する、というモ共和国政権の姿勢とも解釈出来ます。国際法の専門家たちは「モンテネグロの自発的な賠償であって、ハーグ国際司法裁判所の行方には影響し得ない」(週刊ニン誌7月14日号)としています。

   ともあれ、国際戦犯法廷への協力が進展しない批判を受け続け、これが政治さらには経済の停滞につながっていたセルビアの状況は、今年に入り少しずつ良化しつつあります。
   ユーゴ連邦大統領時代「緩速改革論者」だったコシュトゥニッツァが「何もしない」共和国首相になって一年。パフコヴィッチ前参謀総長、ルキッチ警視監兼内務次官らハーグから訴追されている大物戦犯は、潜伏するまでもなく堂々とベオグラードに在住を続けていました。今年初め国際戦犯法廷、欧州連合(EU)、米は新たな経済制裁の可能性を示唆しながら共和国政府当局にこうした大物戦犯の法廷への引渡しを要求しました。セルビアの対先進国関係がこの数年なかったほど冷え込んだ冬でした。この動きを受けて連立少数内閣のラブス副首相らG17PLUS(以下、G17)も、戦犯引渡しに動かなければ連立政府を離脱するとし、首相に圧力を掛けました。ただでも少数の現政権からG17が離脱すれば、あとは守旧民族派勢力との連立しかなくなります。

突然の投降呼びかけ

   ボスニア戦争時のセルビア人指導者(「大統領」)カラジッチ容疑者は国際戦犯法廷に訴追され、
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少なくともこの8年間潜伏ないし逃亡を続けています(右写真は94年に筆者撮影)。7月28日、その妻リリヤナ・ゼレン=カラジッチ女史が夫に対し、AP−TVなどを経由して「不安と周囲の圧力を強く感じている家族みなのため」戦犯法廷への投降を呼びかけました。また7月7日に多国籍軍EUFORに逮捕され、10日後に釈放された容疑者の息子サーシャ・カラジッチ氏も、「疑いを晴らすためにも、自分の父も含め戦争当時の指導部は法廷に出頭すべきだ」と自分の弁護士を通して発言(AP8月5日)しています。しかしこれまで法廷に対し強硬な態度を保っていたカラジッチ家の突然の態度変更にはやはり様々な憶測(「女史の演技」「APが高いカネを払ったのではないか」「いよいよ逮捕秒読みか」等)が飛び交いました。実際に女史の呼びかけを撮影したAPのラドヴァノヴィッチ記者は「ゼレン=カラジッチ女史は本当に疲れているようだったし、このようなことを言い出すには勇気が要っただろう」と証言しています(日刊ダナス紙8月2日付)。共同国家で戦犯問題を担当するリャイッチ少数民族・人権問題担当相は「戦犯法廷はカラジッチ、ムラディッチともデートン和平10年(11月末)の時期か、遅くとも年末までに逮捕する意欲を見せている。カラジッチが出頭すればムラディッチの潜伏も長くは続かないだろう」としています。タディッチ共和国大統領は「大物戦犯のハーグ出頭が地域の発展と安定に直結する」と従来の態度を繰り返し強調しました。

ミロシェヴィッチ夫人現わる

   国際戦犯法廷で裁判の続くミロシェヴィッチ被告
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の妻ミリヤナ・マルコヴィッチ元容疑者(左写真、提供:吉田正則氏=一昨年2月失踪直前に撮影)がオランダ・ハーグに家を借りて拘留中の夫の近くに滞在することになった、と8月4日付日刊ダナス紙が伝えました。同元容疑者は背任の容疑でセルビア国内で裁判が進行中でしたが、一昨(03)年2月に行方をくらまし、国際指名手配を受けていました。長男のマルコ・ミロシェヴィッチ元容疑者(セルビア国内で脅迫の容疑で起訴され国際指名手配、8月5日付で不起訴)とともにロシアに潜伏しているのではないかとの噂はこの間絶えませんでしたが、今年4月中旬、マルコヴィッチ元容疑者の国際指名手配が国内司法当局の取り下げ要請により解除になっていたことが明るみに出ていました。またマルコ・ミロシェヴィッチ元容疑者に関しては、8月5日に当局が国際指名手配だけでなく起訴そのものを取り下げていたことが発覚。これらはコシュトゥニッツァ少数政権が、暗黙の閣外協力を続けるセ社会党(現在も形式上の党首はミロシェヴィッチ被告)の要求に応じたウラ取引だったのではないかと推測されています。サソリ部隊の映像公表、嵐作戦10周年式典(本文後述)に前後する時期だけに、戦争責任論が盛り上がったタイミングで国民の目を欺くドサクサ狙いだったのではないかとの声もあり、政府批判など今後事態が紛糾する可能性が出ています。


   政府が水面下での工作を始めたのは1月末だったと思われます。2月3日、まずセルビア正教会の仲介的な役割もあって、ラザレヴィッチ退役大将が自発的投降を宣言しハーグへ出頭。3〜4月に掛けてパフコヴィッチ、ルキッチ両容疑者も同様に自発的出頭、これに数名の将軍、警視長級容疑者も続きました。
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「何もしない」と言われたコシュトゥニッツァ共和国首相がようやく春に動き、国際戦犯法廷へ将軍級容疑者の出頭が続いた
守旧民族派野党は「強制措置には反対、あくまで自発的出頭のみが行われるべきだ」としていましたが、コシュトゥニッツァ政権はその要求も満たし(ルキッチ容疑者の場合は療養先の病院からガウン姿でハーグ行き、とかなり強引な「自発」だったようですが)、国内的にはしばらく安泰。国際的には将来のEU加盟への遠い一歩であるフィジビリティ・スタディ(FS、第81回配信参照)を4月12日付でクリア、次段階の安定化連合協定締結交渉への青信号も出されました(今までSAA=Stabilization and Association Agreementは[EUとの]安定化協力協定と訳してきましたが、他訳例の大半に倣い今後は安定化連合協定とします)。また銀行口座等について残っていた米の最後の対セルビア制裁項目も6月30日ブッシュ大統領令により解除されました。
   こんなに政治、経済がすっきり動くのならどうしてもっと早く大物戦犯を移送しなかったのか、ということになりますが、前回議会選直後の第76回配信で詳報したように、現在のコシュトゥニッツァ政権は、議会過半数を抑えていない少数政権です。それだけに、最大政党たるセ急進党、暗黙の閣外協力を続けるセ社会党など守旧民族派との関係を緊張させたくないという計算があることは確かです。昨夏の共和国大統領選で第二回(決選)投票に残ったタディッチ(民主党、当選)、ニコリッチ(セ急進党、次点)はともに政府に参加していない政党のトップです(第81回配信参照)が、現政権の左と右で現在も人気を堅持しています。

   残り数年以内に大物戦犯を処理したいという国際社会の金食い虫・国際戦犯法廷の思惑通り、いよいよセルビア人で残るターゲットはカラジッチ、ムラディッチの二人に絞られてきた感があります。6月中旬ミハイロヴィッチ前内相が「01年のミロシェヴィッチ逮捕・移送劇の頃までセルビア本国内のムラディッチの居場所を確認していた」と暴露、7月にはダヴィニッチ現国防相も「最近までムラディッチに投降を呼びかけていた」と発言。ムラディッチはボスニアではなくセルビアにいる確度が高い、という文脈で国際戦犯法廷検察側はさらにセルビア当局の具体的行動を促し続けています。またボスニアのセルビア人共和国内に潜伏すると見られているカラジッチ容疑者に関しては、多国籍軍(SFOR改め)EUFORの立ち入りなどが現在も不定期に行われている一方、セルビア本国北部で軍、秘密警察関係者が潜伏場所を変えながら身柄を守っているという日刊ダナス紙8月6日付の憶測報道なども出ています(上記囲みに参考記事)。


   守旧民族派の動きについて言及しておきます。シェシェリ党首をハーグ法廷に送り出した後、退潮著しいミロシェヴィッチのセ社会党票も吸収しながらソフト化戦略を続けるセ急進党は、
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スレブレニッツァ追悼式典の翌日、セルビア人側の被害者慰霊集会が行われた隣町ブラトゥナッツ市の墓地
ニコリッチ党首代行が「サソリ部隊の映像のような犯罪があったことは認める。しかしセルビア人にも被害があったからこそ、スレブレニッツァはその逆襲と言うべき側面があるわけで、セルビア人だけが悪事を行ってきたなどという『セルビア人悪魔化』は許すべきではない」とし、追悼式典直前の7月9日には「セルビア人被害の真実」と称する映画をベオグラードで公開しました。
   これとは別に追悼式典の翌12日、ブラトゥナッツ、スレブレニッツァなどボスニア中東部各地でセルビア人戦没者の慰霊集会が行われ、外国メディアなどの注目は少なかったもののブケイロヴィッチ・セルビア人共和国首相をはじめ数千の人々が参加しました。セルビア人共和国の公式発表によればスレブレニッツァ地域では43村で非戦闘員960人が死亡、東部・中東部全域で3000人の死者を出しています。
   セルビア=モンテネグロ外務省筋のある女性は「民族派の肩を持つつもりはないが、英BBC、米CNNなどが11日のスレブレニッツァだけを報じ、セルビア人にも被害があったことはほとんど言及されないことにはいら立ちを覚える」と言います。
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ノヴィサド市で行われた第5回エグジットはスレブレニッツァ追悼の黙祷を巡って極右民族派が抑える市当局と主催者で対立(画像提供:アレクサンドラ・ニコリッチ氏)
「しかし少数の良質な言論を除くと、セルビア国内でこれを声高に叫んでいるのは極右だけですね」と筆者が返した言葉にはこの外務省筋も賛同していますが。
   ノヴィサド市では7月7日から野外コンサートフェスティヴァル第5回「エグジット」が行われました。このフェスティヴァルはヒップホップ、レイヴなどを中心としながらも回を重ねるごとに他ジャンルに規模を拡大。多くの外国ミュージシャンが参加するようになり、国際的音楽専門放送MTVなどでも取り上げられるようになっています。今年は最終日がちょうど11日のスレブレニッツァ追悼式典の当日未明に当たったため、主催者が最後に一分間の黙祷を行うことを提案しました。しかし昨年のノヴィサド市長選でゴイコヴィッチ候補を当選させたセ急進党は「政治化するなら来年以降同市でのエグジット開催禁止を検討する」と発表。結局主催者側が「爆弾の予告があったため」との理由で、しかし事実上は自粛の形で黙祷は取り止めとなりました。
   また式典当日はセルビア本国の共和国議会でも「ロンドン同時多発テロとスレブレニッツァの犠牲者を追悼する」一分の黙祷が行われましたが、やはりセ急進党はこれに抗議して黙祷を前に全員議場から退席しています。

   6月27日、ベオグラードでイグマン・イニシアティヴ本会議が行われました。
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6月末のイグマン・イニシアティヴはマロヴィッチ・セルビア=モンテネグロ大統領らボスニア戦争当事国三元首が戦争責任を直視する意義深い会談となった
これはボスニア(デートン)和平当事者三カ国の非政府団体(NGO)の連絡協議会として2000年に成立したものです。第10回に当たる今回は、前述の公式訪問を数日後に控えたメシッチ(クロアチア)、マロヴィッチ(セルビア=モンテネグロ)両大統領とパラヴァツ幹部会議長(ボスニア)の三カ国元首が勢揃いし注目を集めました。
   「スレブレニッツァの犯罪は個人の罪として裁かれるべきである。間違っても彼らはわがセルビア=モンテネグロ国民を代表するものではない」(マロヴィッチ)、「過去の真実を率直に若い世代に示そう。途切れた絆をまたつなぎ、より良い関係を築くことがわれわれ世代の責任だ」(パラヴァツ)、「憲法問題などでEUは揺れているが、EU加盟がわれわれ共通の国家目標であることに変わりはない。国際、国内いずれかの法廷で戦犯容疑者が全て裁かれることで我々はEUに向けて前進できるだろう」(メシッチ)。
   この「便り」も断続的に三カ国の緊張緩和の側面を取り上げてきました。デートン(米オハイオ州)で和平会議開始に先立ち、ミロシェヴィッチ、トゥジュマン、イゼトベゴヴィッチの三元首が周囲からの要求に渋々握手をさせられてから10年。地域協力と善隣関係の醸成がEU加盟へのポイント稼ぎになるという原動力があるものの、思えば遠いところまで来たものだと思います。

   しかし8月5日にクロアチアで行われた「嵐(オルーヤ)作戦」10周年記念式典は、こうした和解トレンドに冷や水を注してしまいました。これは95年、当時クロアチア国内にあったセルビア人勢力実効支配地域(国家内国家「セルビア人クライナ共和国」)を殲滅することになった一大軍事掃討作戦です。セルビア本国発表によれば死者約2600、難民約20万の被害が発生しています。作戦の総指揮に当たったクロアチア軍A・ゴトヴィナ大将は国際戦犯法廷から01年に訴追されていますが、4年後の現在も行方をくらましたままになっています。
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メシッチ・クロアチア大統領は 軍事侵攻10周年に際しタディッチの「お節介」こそ斥けたものの、一部の戦争責任を示唆した途端ブーイングの「嵐」を右翼シンパから浴びせられた
今年4月以降クロアチアは最大の国家目標であるEU加盟の正式交渉を無期限凍結されていますが、その主たる理由の「戦犯法廷との協力不十分」が何よりもゴトヴィナ問題を意味しているのは周知の事実です。
   式典の前日の4日には、元クライナ住民らがベオグラードのクロアチア大使館前などで抗議デモ、また正教会での追悼ミサにはタディッチ、コシュトゥニッツァらセルビア政界要人も出席しました。タディッチ大統領は「軍事・政治的な理由の如何に関わらず大量の犠牲者が出たことではスレブレニッツァと同じ」とし、メシッチ大統領らクロアチア首脳にも「犯罪行為との距離を置くよう」呼びかけました。しかしメシッチは「スレブレニッツァと『嵐』を同じだとするタディッチ発言こそ和解トレンドに逆行するもの」と斥けました。現在のクロアチアではメシッチ大統領は良識派。タディッチにわざわざ指摘されなくともハーグ戦犯と「距離を置く」スタンスで中道以左からは評価され、右派からは不評を買っています。緊張緩和に向かっているはずの二国間関係がタディッチの「お節介」でギクシャクした数日間でした。
   式典は5日、侵攻の中心目標だったクニン市で予定通り行われ、サナデル首相は「真のクロアチア独立開放を勝ち取った偉大な出来事だった」と述べ喝采を博しました。しかしメシッチ大統領が「『嵐』作戦の中で人道上の罪を犯したものは法的責任を負うべきだ」と、まさに「距離を置いた」発言をすると、周囲の参加者からは ブーイングと「アンテ(ゴトヴィナ容疑者の名前)、アンテ」コールを浴びせられました。

   前回配信で、政治エリートの進めるデタント(緊張緩和)と一般市民の感情には距離があるのではないかと筆者はツブヤキましたが、右翼民族派が根強く残るセルビアでもクロアチアでも事情は似たようなものだということを改めて認識せざるを得ませんでした。また政治家たちの和解に向かう動きは大いに結構ながら、それが国家賠償という重荷を意味するのか、もっと別の形での真のデタントが何か可能なのか、実は誰にも具体的には見えていないのではないかというツブヤキも今回は付け加えざるを得ません。第一次大戦後、多額の賠償問題を背負いながら生まれた民主ドイツ・ワイマール体制がどれくらい続いたか、後に何が到来したのか、このページの読者の皆さんはご存知だと思います。
   ボスニアの、そして旧ユーゴの「戦後」は新しい段階に入りつつあるのか。まだ筆者には結論が見えないままです。この原稿を書いているのは、敗戦を「終戦」と婉曲語法で語る筆者の生まれ育った国でその60周年記念行事が行われている時期です。60年経ってかえって日韓・日中関係が冷えていることを思うと、一人のバルカンウォッチャーの気持ちも複雑です。

次回配信は9月下旬発表の予定です。

(2005年9月上旬)


本稿の執筆に当たっては数多くの紙誌、インターネット資料を参考としました。煩雑さを避けるため、本文中での日付等の出典詳細は一部のみの表示にとどめました。以下に参考紙誌及びサイト名を列挙します:[ボスニア]日刊オスロボジェーニェ、日刊ドゥネヴニ・アヴァズ [セルビア]日刊ポリティカ、日刊ダナス、週刊ヴレーメ、週刊ニン、RTV−B92、TVスタジオB、BKテレビ(TV BK) [クロアチア]クロアチア共和国政府、日刊ヴィエスニク、日刊ヴェチェルニー・リスト、日刊スロボドナ・ダルマツィア、クロアチアテレビ(HRT) [旧ユーゴ圏以外]旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)、国際戦争&平和報告研(IWPR)、南東欧研究センター(CSEES)
カール・ヤスパースの「責罪論」は原題:Karl Jaspers, Die Schuldfrage, 1946. 邦訳:「責罪論」、橋本文夫訳、理想社 1965, /「戦争の罪を問う」、同、平凡社ライブラリー 1998。筆者はセルビア語訳:Pitanje krivice, prev. Vanja Savic, SamizdatFREEB92, 1999 を参照しました。 
画像を提供して頂いた吉田正則氏、アレクサンドラ・ニコリッチ氏に謝意を表します。写真の一部は2005年6〜7月に筆者が日本の複数のテレビ局に同行した際撮影したものです。また本文内容にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たっては各取材関係者の許諾を得ています。写真、本文とも無断転載をかたくお断りいたします。
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