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第84回配信
サソリとともに突然噴出した感のある戦犯問題、戦争責任論に関し、セルビア本国の論調は主に3つに分かれました。
6月にほぼ毎日のようにベオグラードのテレビを賑わせた討論では、テレビというメディアの性格もあるのでしょうけれども(1)と(3)の組み合わせが多く、議論が最初から噛み合わないケースがほとんどでした。
7月27日、モンテネグロ・ヴヤノヴィッチ共和国大統領とクロアチア・メシッチ大統領の同席の下、「戦争でユーゴ人民軍が接収したドゥブロヴニク乳業所有の牛650頭分の賠償として」37・5万ユーロ(約5100万円)をモンテネグロ共和国が支払うことで合意が成立、クロアチアのツァフタットで調印されました。これは同月6日メシッチがセルビア=モンテネグロをクロアチア元首として初めて公式訪問した際、モンテネグロ共和国首脳が「同共和国からも参加の多かった91年ドゥブロヴニク戦線での被害地域に賠償金を出す」と予告していたものです。当初は華々しく国家賠償と打ち上げられた話が「牛の弁償で5000万」になり、ベオグラードにはまたモンテネグロネタの笑い話を一つ提供する結果になりましたが、一部からはクロアチア・ボスニアの起こしている上記国際訴訟をセルビア不利にするための、モンテネグロ独立推進政権の嫌がらせと受け止められていました。訴訟の相手国はセルビアではなくセルビア=モンテネグロのはずですが、もうモンテネグロは来年以降独立するのでセルビアの賠償責任は無視する、というモ共和国政権の姿勢とも解釈出来ます。国際法の専門家たちは「モンテネグロの自発的な賠償であって、ハーグ国際司法裁判所の行方には影響し得ない」(週刊ニン誌7月14日号)としています。
ともあれ、国際戦犯法廷への協力が進展しない批判を受け続け、これが政治さらには経済の停滞につながっていたセルビアの状況は、今年に入り少しずつ良化しつつあります。
政府が水面下での工作を始めたのは1月末だったと思われます。2月3日、まずセルビア正教会の仲介的な役割もあって、ラザレヴィッチ退役大将が自発的投降を宣言しハーグへ出頭。3〜4月に掛けてパフコヴィッチ、ルキッチ両容疑者も同様に自発的出頭、これに数名の将軍、警視長級容疑者も続きました。
こんなに政治、経済がすっきり動くのならどうしてもっと早く大物戦犯を移送しなかったのか、ということになりますが、前回議会選直後の第76回配信で詳報したように、現在のコシュトゥニッツァ政権は、議会過半数を抑えていない少数政権です。それだけに、最大政党たるセ急進党、暗黙の閣外協力を続けるセ社会党など守旧民族派との関係を緊張させたくないという計算があることは確かです。昨夏の共和国大統領選で第二回(決選)投票に残ったタディッチ(民主党、当選)、ニコリッチ(セ急進党、次点)はともに政府に参加していない政党のトップです(第81回配信参照)が、現政権の左と右で現在も人気を堅持しています。 残り数年以内に大物戦犯を処理したいという国際社会の金食い虫・国際戦犯法廷の思惑通り、いよいよセルビア人で残るターゲットはカラジッチ、ムラディッチの二人に絞られてきた感があります。6月中旬ミハイロヴィッチ前内相が「01年のミロシェヴィッチ逮捕・移送劇の頃までセルビア本国内のムラディッチの居場所を確認していた」と暴露、7月にはダヴィニッチ現国防相も「最近までムラディッチに投降を呼びかけていた」と発言。ムラディッチはボスニアではなくセルビアにいる確度が高い、という文脈で国際戦犯法廷検察側はさらにセルビア当局の具体的行動を促し続けています。またボスニアのセルビア人共和国内に潜伏すると見られているカラジッチ容疑者に関しては、多国籍軍(SFOR改め)EUFORの立ち入りなどが現在も不定期に行われている一方、セルビア本国北部で軍、秘密警察関係者が潜伏場所を変えながら身柄を守っているという日刊ダナス紙8月6日付の憶測報道なども出ています(上記囲みに参考記事)。 守旧民族派の動きについて言及しておきます。シェシェリ党首をハーグ法廷に送り出した後、退潮著しいミロシェヴィッチのセ社会党票も吸収しながらソフト化戦略を続けるセ急進党は、
これとは別に追悼式典の翌12日、ブラトゥナッツ、スレブレニッツァなどボスニア中東部各地でセルビア人戦没者の慰霊集会が行われ、外国メディアなどの注目は少なかったもののブケイロヴィッチ・セルビア人共和国首相をはじめ数千の人々が参加しました。セルビア人共和国の公式発表によればスレブレニッツァ地域では43村で非戦闘員960人が死亡、東部・中東部全域で3000人の死者を出しています。 セルビア=モンテネグロ外務省筋のある女性は「民族派の肩を持つつもりはないが、英BBC、米CNNなどが11日のスレブレニッツァだけを報じ、セルビア人にも被害があったことはほとんど言及されないことにはいら立ちを覚える」と言います。
ノヴィサド市では7月7日から野外コンサートフェスティヴァル第5回「エグジット」が行われました。このフェスティヴァルはヒップホップ、レイヴなどを中心としながらも回を重ねるごとに他ジャンルに規模を拡大。多くの外国ミュージシャンが参加するようになり、国際的音楽専門放送MTVなどでも取り上げられるようになっています。今年は最終日がちょうど11日のスレブレニッツァ追悼式典の当日未明に当たったため、主催者が最後に一分間の黙祷を行うことを提案しました。しかし昨年のノヴィサド市長選でゴイコヴィッチ候補を当選させたセ急進党は「政治化するなら来年以降同市でのエグジット開催禁止を検討する」と発表。結局主催者側が「爆弾の予告があったため」との理由で、しかし事実上は自粛の形で黙祷は取り止めとなりました。 また式典当日はセルビア本国の共和国議会でも「ロンドン同時多発テロとスレブレニッツァの犠牲者を追悼する」一分の黙祷が行われましたが、やはりセ急進党はこれに抗議して黙祷を前に全員議場から退席しています。 6月27日、ベオグラードでイグマン・イニシアティヴ本会議が行われました。
「スレブレニッツァの犯罪は個人の罪として裁かれるべきである。間違っても彼らはわがセルビア=モンテネグロ国民を代表するものではない」(マロヴィッチ)、「過去の真実を率直に若い世代に示そう。途切れた絆をまたつなぎ、より良い関係を築くことがわれわれ世代の責任だ」(パラヴァツ)、「憲法問題などでEUは揺れているが、EU加盟がわれわれ共通の国家目標であることに変わりはない。国際、国内いずれかの法廷で戦犯容疑者が全て裁かれることで我々はEUに向けて前進できるだろう」(メシッチ)。 この「便り」も断続的に三カ国の緊張緩和の側面を取り上げてきました。デートン(米オハイオ州)で和平会議開始に先立ち、ミロシェヴィッチ、トゥジュマン、イゼトベゴヴィッチの三元首が周囲からの要求に渋々握手をさせられてから10年。地域協力と善隣関係の醸成がEU加盟へのポイント稼ぎになるという原動力があるものの、思えば遠いところまで来たものだと思います。 しかし8月5日にクロアチアで行われた「嵐(オルーヤ)作戦」10周年記念式典は、こうした和解トレンドに冷や水を注してしまいました。これは95年、当時クロアチア国内にあったセルビア人勢力実効支配地域(国家内国家「セルビア人クライナ共和国」)を殲滅することになった一大軍事掃討作戦です。セルビア本国発表によれば死者約2600、難民約20万の被害が発生しています。作戦の総指揮に当たったクロアチア軍A・ゴトヴィナ大将は国際戦犯法廷から01年に訴追されていますが、4年後の現在も行方をくらましたままになっています。
式典の前日の4日には、元クライナ住民らがベオグラードのクロアチア大使館前などで抗議デモ、また正教会での追悼ミサにはタディッチ、コシュトゥニッツァらセルビア政界要人も出席しました。タディッチ大統領は「軍事・政治的な理由の如何に関わらず大量の犠牲者が出たことではスレブレニッツァと同じ」とし、メシッチ大統領らクロアチア首脳にも「犯罪行為との距離を置くよう」呼びかけました。しかしメシッチは「スレブレニッツァと『嵐』を同じだとするタディッチ発言こそ和解トレンドに逆行するもの」と斥けました。現在のクロアチアではメシッチ大統領は良識派。タディッチにわざわざ指摘されなくともハーグ戦犯と「距離を置く」スタンスで中道以左からは評価され、右派からは不評を買っています。緊張緩和に向かっているはずの二国間関係がタディッチの「お節介」でギクシャクした数日間でした。 式典は5日、侵攻の中心目標だったクニン市で予定通り行われ、サナデル首相は「真のクロアチア独立開放を勝ち取った偉大な出来事だった」と述べ喝采を博しました。しかしメシッチ大統領が「『嵐』作戦の中で人道上の罪を犯したものは法的責任を負うべきだ」と、まさに「距離を置いた」発言をすると、周囲の参加者からは ブーイングと「アンテ(ゴトヴィナ容疑者の名前)、アンテ」コールを浴びせられました。 前回配信で、政治エリートの進めるデタント(緊張緩和)と一般市民の感情には距離があるのではないかと筆者はツブヤキましたが、右翼民族派が根強く残るセルビアでもクロアチアでも事情は似たようなものだということを改めて認識せざるを得ませんでした。また政治家たちの和解に向かう動きは大いに結構ながら、それが国家賠償という重荷を意味するのか、もっと別の形での真のデタントが何か可能なのか、実は誰にも具体的には見えていないのではないかというツブヤキも今回は付け加えざるを得ません。第一次大戦後、多額の賠償問題を背負いながら生まれた民主ドイツ・ワイマール体制がどれくらい続いたか、後に何が到来したのか、このページの読者の皆さんはご存知だと思います。
次回配信は9月下旬発表の予定です。 (2005年9月上旬) 本稿の執筆に当たっては数多くの紙誌、インターネット資料を参考としました。煩雑さを避けるため、本文中での日付等の出典詳細は一部のみの表示にとどめました。以下に参考紙誌及びサイト名を列挙します:[ボスニア]日刊オスロボジェーニェ、日刊ドゥネヴニ・アヴァズ [セルビア]日刊ポリティカ、日刊ダナス、週刊ヴレーメ、週刊ニン、RTV−B92、TVスタジオB、BKテレビ(TV BK) [クロアチア]クロアチア共和国政府、日刊ヴィエスニク、日刊ヴェチェルニー・リスト、日刊スロボドナ・ダルマツィア、クロアチアテレビ(HRT) [旧ユーゴ圏以外]旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)、国際戦争&平和報告研(IWPR)、南東欧研究センター(CSEES) カール・ヤスパースの「責罪論」は原題:Karl Jaspers, Die Schuldfrage, 1946. 邦訳:「責罪論」、橋本文夫訳、理想社 1965, /「戦争の罪を問う」、同、平凡社ライブラリー 1998。筆者はセルビア語訳:Pitanje krivice, prev. Vanja Savic, SamizdatFREEB92, 1999 を参照しました。 画像を提供して頂いた吉田正則氏、アレクサンドラ・ニコリッチ氏に謝意を表します。写真の一部は2005年6〜7月に筆者が日本の複数のテレビ局に同行した際撮影したものです。また本文内容にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たっては各取材関係者の許諾を得ています。写真、本文とも無断転載をかたくお断りいたします。 Zahvaljujem se na saradnji: g.Masanori Yoshida, gdjica. Aleksandra Nikolic. Zabranjena je svaka upotreba teksta i slika bez odobrenja. |
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