「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/02/17 17:50

第52回配信
頑張れ、ボスニア


サライェヴォ旧市街(2001年10月)
   今回の配信ではボスニアの概況を振り返ってみようと思います。この国の経済・政治事情をトータルに取り上げるのは第9回配信「ゆっくり前進するボスニア」以来ですから、実に3年数ヵ月ぶりになりますね。デートン包括和平による終戦から6年が経ったサライェヴォから話を始めましょう。
   日本のメディアでボスニア事情が伝えられることは少なくなったと思いますが、劣化ウラン関連のニュースやTVドキュメンタリーの仕事などで、昨年も私はボスニアに5回行っています。9月のサライェヴォ滞在時には、取材とは直接関係はないのですが、通訳上のクライアントがオリンピック施設に興味があるとのことでしたので、ゼトラ体育館に行く機会がありました。
   フィギュアスケート界で今でも伝説になっているトーヴィル・ディーン組(英、アイスダンス)やK・ヴィット(東独、女子シングル)が華麗な氷上の舞を84年冬季五輪で披露したその体育館を私が初めて訪れたのは、97年暮れに長野五輪事前番組の取材の仕事をした頃でした。砲撃の痕も生々しく、暗い館内は雨漏りがしていました。99年3月、「復興なった」というニュースは聞いてはいましたが、今度は私の住んでいるベオグラードへの空爆で再落成式典の取材どころではない状態。いつかは五輪の頃の輝きを取り戻したゼトラを見てみたいと思いながら2年半が経ってようやく実現しました。
(上)復旧なったゼトラ体育館で行われたボクシング選手権(昨年9月)(下)モスタルの象徴、古い石橋も復旧工事が始まった(昨年8月撮影)
   この日はボクシング(アマチュア)の欧州ユース選手権が行われていました。入ってまず私が驚いたのは明るさでした。これが真っ暗だったゼトラだろうか、と思ってしまいました。リングで躍動する選手たちは、まぶしいくらいの光に包まれています。そして歓声。「右だっ、右!もっと手数を出せ!ワン・ツー!」。大学時代、まだユーゴ(ボスニア)に行くとは夢にも思っていなかった頃にブラウン管で見た華やかなオリンピックのゼトラが戻っていました。雨漏りのする暗い体育館の廃墟しか知らない私の方がおかしいんだぞ、と誰かに言われているような気がしてしまいます。
   「雪不足が不安でねえ。そしたら開会式の前夜にドカ雪が降ってくれてさあ」。古くからのサライェヴォっ子なら誰でも懐かしく語ってくれるエピソードです。84冬季五輪の頃はこの町が一番誇らしく、輝かしかった時代なのです。3年半続いた戦争で町は荒廃しましたが、デートン和平成立直後の「どこへ行っても廃墟」の時期から考えると、6年で着実に復興が進んだことは間違いありません。

   サライェヴォ空港を出てすぐ、という所にある「空港団地(Aerodromsko naselje、約2500世帯)」は、戦争中最前線になったこともあって、市内でも最も激しく破壊された住宅地でした。和平直後、ゴーストタウンのようなこの地域に入った国内避難民(主に東部の現セルビア人共和国からの避難民)が自分で少しずつ家を建て直したところへ、外国などに逃げていた元の住人が帰って来て所有権を巡る対立が起こる、というケースは現在も完全に解決されてはいません。しかし荒廃した住宅地のおよそ半分はノルウェー、フィンランドなどスカンジナヴィア諸国のテコ入れで修復し、残り半分の住宅でもトンテン、カンテンと住民が屋根や部屋を修理する槌音が響いています。

   南部のモスタル市と町の象徴だった古い石橋(スターリ・モスト、93年に砲撃で破壊された)についてはこの「便り」でも何度か書く機会がありました。
空港団地はサライェヴォで一番激しい破壊を被った住宅地。現在も半分はご覧の通りだが、住民が屋根の修復などの作業を盛んにしている
私が取材に同行した昨夏は、傷んでいる橋脚(土台)部分の補強工事がトルコの企業によって行われていましたが、橋のアーチ部分の入札が終わり(本稿執筆現在)、今春からいよいよ本格的な再建工事が始まります。文化遺産保護局のデミロヴィッチ局長は「橋とその周辺部の再建に国連や各国から計4億5000万円が出資される。大きな事業なので、入札に透明性を持たせるため世銀などの組織を通して事務的な時間は掛かったが、2003年秋までに橋の主な部分は完成する予定だ」と言います。「古い石橋はモスタルだけでなく、ボスニアの多民族共存と平和の象徴なのだから、私たちボスニアの住民が平和を望んでいることを示すためにもこの事業をきちんと成功させることが大事だ」。この橋は戦争直前、国連科学教育文化機関(ユネスコ)の世界遺産への申請手続きを終わっていました。かつてのものと同じデザインの橋は、完成すると同時に世界遺産に指定されることが内定しています。

   復興はゆっくりと進んでいます。民生部門のトップとして国際社会を代表するペトリッチ和平履行会議上級代表は、昨年11月の和平6周年に際し「ボスニア連邦・セルビア人共和国間の対話も促進され、ボスニアは少しずつノーマルな国になりつつある。この努力を続けることで欧州の仲間入りも出来るだろう」と楽観的な評価をしています。しかし中立系日刊紙オスロボジェーニェの同じ6周年のコメントは「戦争の悲劇は確かに終わった。だが6年で出来たものはボスニア連邦・セルビア人共和国共通の通貨、旅券、自動車ナンバーだけというのは足りなさ過ぎないか。難民問題、民族対立など本質的には何も解決できていないが、欧米先進国はそれを直視しようとしていない」と手厳しいものでした。
   的確な評価を下すのは、確かに難しいことです。しかし戦争中、デートン直後、そして最近のボスニアを見てきたウォッチャーのはしくれとして、私の見解もやはり「辛口」に近い立場です。経済問題に眼を転じてみたいと思います。

   96年和平直後から第9回配信を書いた98年頃までは、サライェヴォに行くたびにエネルギーが感じられました。毎回新しいホテル、レストラン、喫茶店、スーパーマーケット・・・が出来ていて、3ヶ月前の旅行情報がアテになりません。
和平後ボスニアの国内総生産実質成長率(2000年以降は推定値。OHR発表のデータを基に筆者が加工)
ミロシェヴィッチ政権末期の冴えないセルビアから来た私は、スロヴェニア、クロアチア、西欧製品で満たされた店々に羨望さえ覚えました。確かに壊れた建物は多かったけれど、それを直す工事の様子は市内の至る所で見られました。元々のサライェヴォっ子も、首都に住みついた国内避難民も、「とにかく戦争が終わったんだ。家を直して片付けよう。今は職はないけれど、自分の出来ることをやって行こう。英語を勉強して将来に備えなくっちゃ」というような熱意と活気を感じさせていました。ところがユーゴ空爆を経てコソヴォに人道援助の主流がシフトした99年頃からは、居住状況は大方落ち着き、水、電気もほぼ安定したのに「気分はどうも右肩下がり」という状態になってしまいました。
   上に示した国内総生産(GDP)の実質成長率がちょうどこの気分の変化と並行しているように思われます。限りなくゼロに近い状態だった戦争が終わった最初の2年は「復興バブル」と言ってもいいほどの急経済成長を記録しますが、99年頃からは、マイナス成長でこそないものの(いや5%だって本来は立派な数字のはずですが、やはり96、7年頃に較べれば)「去年や一昨年と大して変わらん」という市民の実感が数字でも裏付けられます。人道援助は縮小・撤退し、まだ就職口となる雇用機会は最小限です。和平後、国連や和平履行会議上級代表事務所(OHR)、多国籍軍平和安定化部隊(SFOR)、非政府機関(NGO)や報道機関など外国人のプレゼンスが増えたことを受けて物価は高値安定。このような外国機関・企業に就職している人々だけがちょっといい暮らしを出来る、という状態は現在も改善されたとは言い難いままです。郊外に定着した国外避難民は、もともとの都市部住民に較べ敬虔なイスラム教徒が多い傾向にありますが、彼らの中にも「クウェートやサウジアラビアがモスクを建ててくれるのも有り難いが、もっと工場や会社を作ってくれてもいい頃だ」という声が聞かれます。一方で96年以降流入した多額の援助マネーの一部は残念ながら汚職を増長し、官僚だけでなく一般市民にまで「援助慣れ」体質を作ってしまった、という指摘もあります。
   昨年1月に日本のTVドキュメンタリー取材でサライェヴォ中心部のある一般家庭を4日ほど集中的に撮影させて頂く機会がありました。数十分か数時間のニュース取材とは異なり、ドキュメンタリーの場合は取材に時間も掛かりますし、取材対象の方の「疲れさせ方」も大きいので、額はケースバイケースですが「謝礼」を置くことが多くあります。
ボスニア政府の滞納から昨年9月、ロシアの天然ガス供給が止まってしまいサライェヴォはガス不足に(現在は供給が再開されている)。中心部にある第2次大戦記念「永遠の火」もご覧の通り
この時も4日間の撮影を終わって、TV局の規定額を払ってお互い満足、円満に取材を終わろうとしたのですが、前日までカネのカの字も口にしなかった家の主のL氏が「年金は安く、電気代や電話代はこんなに高く生活に困っているのだから」と、こちらの規定とはゼロが一つ違う 、法外とも言える額を要求して来ました。「これはドキュメンタリーの協力謝礼で、こちら側の好きなことを言ってもらう俳優のギャラではないんです」と言っても収まらないL氏、「金持ち国日本のテレビが聞いてあきれるな」と強気。結局L氏の娘の仲介で、規定額通りを受け取ってもらいましたが、取材の最後でケチが付いたようで、どうも気分はスッキリしません。円滑に物事が運ばなかったのはコーディネーターの私の責任でもありますが、「外国人と見ればぶったくれると思ってるのかねえ」とディレクター氏も浮かぬ顔でした。
   援助マネーが政治家や官僚の汚職の温床に転じ得る危険性は、米高級政治誌フォーリン・アフェアーズなども99年には警告しています(I.H.Daalder & M.B.G.Froman, "Dayton's Incomplete Peace" in Foreign Affairs, 11-12,1999)。経済の伸び悩みと頻出する汚職スキャンダルのニュースは、2000年秋の選挙で、ボスニア社民党を中心とする野党連合が進出する契機となりました。隣国ユーゴの政変ニュースの蔭になり、日本で注目されることはあまりありませんでしたが、90年以来戦争中・後を通じて政権の座にあったA・イゼトベゴヴィッチ元幹部会議長と彼の民族主義政党、民主行動党が政権から退くことになったのです。国際社会の圧力でこの選挙直前にはE・ビチャクチッチ・ボスニア連邦首相(当時)をトップとする汚職対策委員会が設けられていますが、社民党党首Z・ラグムジヤ閣僚評議会議長(ボスニア中央首相に相当)兼外相の新政権が発足してからは、前首相周辺の汚職ニュースがもっぱら報道を賑わせているありさまです。
   ビチャクチッチ氏が首相を務めていた99年に発足した連邦雇用促進委員会は「戦争遺族・傷い軍人連合」に82万マルク(約4200万円)を融資、ところがこのカネが銀行を通して首相が副党首を務める民主行動党に流れた疑いが発覚しました。この他にも首相時代の使途不明金や横領疑惑があまりにも多く、野に下ってからはボスニア電気公団の総裁に収まっていたビチャクチッチ前首相は昨年2月、OHRによって総裁の座を解任されました。
95年デートン和平会議中、イゼトベゴヴィッチ(イラスト前列左)政権の外相として要人と接触を重ねたシャチルベゴヴィッチ容疑者(前列右)(画像提供:FAMA 出典は下記)
   今年1月6日にはM・シャチルベゴヴィッチ(アメリカ名シャチルベイ)ボスニア元外相が国連大使、外相時代に少なくとも60万ドルの公金を横領した疑いで、ボスニア政府はインターポールを通じて国際手配の手続きを申請しました。シャチルベイ容疑者はデートン和平会談当時の外相としてイゼトベゴヴィッチ議長とクリントン米大統領(当時)の橋渡し役を務めていたので、当時のボスニアニュースを追っていた方は記憶されているかも知れませんね。現在も合衆国内に潜伏していると見られますが、米・ボスニアの二重国籍を保持しており、合衆国では自国人の外国法廷引渡しを認める法規がないことから、今後も捜査、裁判は難航するのではないかとの見通しです。
   ボスニア独立宣言後の初代内務大臣、A・デリムスタフィッチはボスニア国内で2600万マルク(約14億円)を横領した疑いで手配されていました。1月17日、隣国ユーゴでセルビア人の名前をかたり商談に来ていたところを旅券偽造・行使などの疑いで逮捕されました。92年当時の内相と言えば開戦当時、ボスニア軍が成立する前の唯一の武力だった警察の親玉ということになります。それが事もあろうに「敵国」とみなしていたセルビア本国にセルビア人の偽名でビジネスをしに来ていたというのだから困ったものです。

   この一件は、ユーゴで亀裂を深めるコシュトゥニッツァ連邦大統領派とジンジッチ・セルビア共和国首相派の政争の道具に化した感があります。ジ首相が「コシュトゥニッツァ大統領の側近がデリムスタフィッチと会っていたらしい」と言えば、同大統領は「(ジンジッチ派の押さえている)共和国警察はデリムスタフィッチと承知で入国を認めた」と応酬する具合です。しかしそれだけではなく、92年の戦争開始当初、ユーゴ連邦軍兵士がサライェヴォ市内で虐殺された事件(ドゥブロヴニク通り事件)やその後戦争中の武器密売などにデリムスタフィッチ容疑者が深く関与していた疑いも持たれており、イゼトベゴヴィッチ(民主行動党党首を退き療養中)やミロシェヴィッチ(現在戦犯裁判が進行中)の経済犯罪、戦争犯罪の追及とも絡んで、オランダ・ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷も捜査の展開に注目していると言います。

分断の町モスタル、旧停戦ライン。同じボスニア連邦だが手前はクロアチア人、向こうはボスニア人支配地域に分かれる。統合問題は多くの困難を抱えている(99年撮影)
   ここまで主にボスニア連邦側を取り上げましたが、ボスニア全体がきちんと機能するためには、セルビア人共和国、ボスニア連邦の2つの部分(エンティティ)、または3勢力支配地域(ボ連邦はボスニア人、クロアチア人旧支配地域に事実上分割されています)のバラバラ状態が解消されなければならないはずです。しかし統合への歩みは、なかなか進んでいません。
   セルビア人共和国ではユーゴまたはバニャルーカ独自の教科書が、クロアチア人支配地域ではクロアチア本国の教育指導要領によりザグレブの教科書が使われるなど、各民族支配地域の学校で使われている教科書はバラバラです。OHRは99年暮れ、それぞれの教科書の中の民族共存の精神に反する表現などを指摘、日本の第2次大戦直後のような「スミ塗り」が各地で現行教科書に対して行われました。もちろん理科や図工にケチが付くわけではありません。しかし小学校7、8年生(日本の中1・2)の歴史にもなると近代史から92年の戦争に至る記述が出てきます。「今までこの戦争は『侵略』だと教えてきたのが、今度はこの言葉を使ってはいけないと言う。当のOHRだって『侵略』と言っているのに」とはサライェヴォの一教員の言。セルビア人共和国の地理教科書では、隣のユーゴ(セルビア本国)に「くっ付きたい」政治的傾向を背景に「ボスニア」の言及は最小限ですが、これは国際社会の考え方とは相容れないものです。西モスタルの国語教科書(もちろん「ボスニア語」ではなく「クロアチア語」)ではクロアチアとカトリックを称える愛国文学の一部が「スミ塗り」対象になりました。しかし検定にはやはり抜け穴があり、結局3つの教科書を使い続けている現在では無理があることから、OHRは来学年からザグレブ、ベオグラード製の教科書の使用は禁止、地域差を配慮しながら段階的に統一教科書を導入する方向を打ち出しました(この段落は週刊BHダーニ誌昨年11月9日号による)。
   国境税関は統一され、ボ連邦出身の税関吏がセルビア人共和国とクロアチア・ユーゴ国境に展開しています。しかしまだ関税には両部分(エンティテイ)間で差があり、例えばバナナ1キロの輸入関税はセルビア人共和国で0・39マルク、ボ連邦で0・51マルクとなっています。このためボ連邦側の業者がセルビア人共和国内にトンネル会社を登記し、同連邦側に商品を流しているようです(両エンティティ間には税関はありません)。分かりやすく言えば、同じクロアチア製の輸入品が安い関税で北の国境を通って、南の国境経由のものより安くサライェヴォで売られることになるわけです。これでは国の経済・税制がうまく機能しているとはとても言えませんね(この段落は日刊ドゥネヴニ・アヴァズ紙昨年8月21日付による)。
サッカー・ボスニア連邦統一リーグ公式戦、白のブロトニョ・チトルク(クロアチア人支配地域)が緑のルダル・カカニ(ボスニア人支配地域)を迎えた試合(2000年9月撮影)
   サッカーは2000年春まで国内に3つのリーグが存在していましたが、このうちクロアチア人・ボスニア人支配地域のリーグが同年秋から統一されました。西ヘルツェゴヴィナの「強豪(?)」ズリンスキやブロトニョといったチームがサライェヴォで試合をするようになり、今後はボスニアの国家代表にクロアチア人ボスニア出身者の参加が期待されています。しかし依然としてセルビア人共和国リーグとの統一は果たせず、バニャルーカなどのクラブが国際的な舞台に登場出来ない中、セルビア人有力選手は隣国ユーゴに国籍を移してプレーをするしか出世街道を登るすべがありません。
   テレビも3つの公共放送がありましたが、昨秋にボスニア連邦のテレビが連邦テレビ(FTV)として統一されました。OHRは今後、セルビア人共和国の公共放送(RTRS)とFTVを統合し、ボスニア全土をカバーする「公共放送システム(PBS)」を発足させたいとしています。しかしテレビの世界は様々な利権が絡むため、旧放送関係者や地元政治家の反発を招き、OHRと国連関係者の孤軍奮闘が続いています。

   冴えない話が続きましたが、これもボスニアの現実(の一側面)です。和平から6年、読者の皆さんは現状を「よく進んだ」と評価されるでしょうか、それとも「遅々として・・・」でしょうか。

   和平直後は、私の住むベオグラードからセルビア人の運転手とBGナンバーでボスニア連邦に行くなど考えられないことでした。
昨夏日本のTVでモスタルを取材した際はベオグラードから気心の知れたスタッフと一緒に行った。もうセルビア人でもほぼ心配ない(昨年8月撮影)
しかし国内どちらのエンティティに登録している車か分からない統一ナンバーの発足(第9回配信参照)からも3年少しが経ち、一般市民のレベルでセルビア人共和国、ボ連邦の行き来が次第に活発化していることは承知しています。そこで私も去年からは、気心の知れたベオグラードの悪友にして仲人のバーネ運転手と、サライェヴォなど連邦側の仕事も一緒に行くようになりました。
   従来はセルビア人共和国を出来るだけ長く通るようにしていたのですが、公共事業でボスニア連邦に劣る同共和国では冬場の除雪作業が始まるのが遅く、またバーネのベンツは前輪駆動なので冬の山道は不利です。それで最近はボスニア連邦を通る距離が長い代わりに比較的平坦なトゥズラ・サライェヴォ線を使うようになりました。8月にはカメラマンのボグダンも連れて、ベオグラードから見れば「連邦側の奥地」に当たるモスタルへ。以前はBGナンバーを見るとびっくりしていたガソリンスタンドの人々からも「おー、最近ベオは変わったことあったかい?」とか「BGだったら洗車代、勉強しといてやるよ」などと好意的な反応が多くなりました。

   戦争は遠くなった、しかし問題は山積。和平後6年のボスニア、普通の国になるまでには、まだまだ長い道のりのようです。

(2002年2月中旬)


イゼトベゴヴィッチとシャチルベゴヴィッチの画像は、FAMA(代表S・カピッチ)の出版によるThe Dayton Peace Accords - mapping negotiations, FAMA, 2000(イラスト:J・ヴラニッチ)から筆者が接写し転載しました。この方法による転載を許諾して頂いたカピッチ氏に謝意を表します。他の画像は1999〜2001年に筆者が日本の複数のテレビ取材に同行した際撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれていますが、これらの本ページへの掲載に当たっては各取材関係者から許諾を得ています。無断転載はかたくお断り致します。
Slika Izetbegovica i Sacirbegovica je skinuta iz knjige "The Dayton Peace Accords - mapping negotiations",FAMA, 2000 (ilustracija: J.Vranic). Zahvaljujem se gospodji Suadi Kapic na saradnji. Zabranjena je svaka upotreba slike bez ovlastenja.

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