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第72回配信
ともあれ春の反戦運動が低調に終わったセルビアでは、イラク情勢が3月の軍事介入前よりもむしろ現在注目されています(去る8月17日にはバスラでデンマーク兵が銃撃され、今春以降のイラクで米英以外の兵士として初めて死亡した事件は、19日のバグダッド国連爆弾テロとともに大きく報じられました)。 高木さんは中央大学文学部で西欧史を専攻する22才。昨年8月から1年間の予定でベオグラード大学政治学部に留学しています。フォトジャーナリスト志望の高木さんは、高校から大学に進学する頃コソヴォ情勢悪化のニュースに触れ旧ユーゴ圏にも興味を持ち始めた、と言います。当地に来てからはコソヴォの他、トルコのクルド人地域などを撮影。この7月はカメラ一式を持ってパレスティナ、イラクを旅しました。
ヨルダンの首都アンマン。目的地バグダッドへ車で14時間の所までは来ていました。
同乗者は独国籍と英国籍を持つイラク人でした。ドイツ籍の人は会社の休みを取ってバグダッドへ、ここから北のキルクーク、さらにタクシーで郊外の村の妹を訪ねに行くのだと言います。マンチェスターとリバプールの間にある村に住みトラックの運転手をしているイギリス籍のイラク人がいろいろな冗談を飛ばしてくれたおかげで、車内の雰囲気はとても明るいものになりました。 ヨルダン・イラク国境に着いたのは深夜でしたが、ものすごい人と車の数です。人だかりの方は商人です。国連の経済制裁が続くフセイン政権時代、ヨルダンに対して格安の値段で原油を売り渡し、この国境を開放してヨルダン側から物資を呼び込んでいたようです。「クルマの方はイラクで売るんだよ。ほらナンバーがないだろう?」 英国籍イラク人に言われてみると確かにナンバープレートがありませんでした。
噂通り、イラク入国は米軍が管理していました。若い兵士たちで、米軍に拘束された邦人カメラマンの名前などを私が尋ねられている間に、英国籍イラク人は別の兵士とウイスキーの話をしています。イギリスのスコッチとアメリカのバーボンではどっちが美味か、という話題だったと思いますが、 米兵:「あんたらイスラム教徒は酒を飲んじゃいけないんじゃないのか?」 英籍イラク人:「いやいやこの腹を見てくれ、イスラム教徒も酒で太るんだよ。あんたらはイラクで酒を飲んでるかね?」 米兵:「そりゃ飲んでるさ、オレたちがこの国を取った(take)からな、アッハッハ」 明るいイギリス籍イラク人氏もこれには相当カチンと来たようでした。再発進した車の中で、冗談ばかり言っていた彼が真顔になって「今じゃあオレだってイギリスの旅券を持っているが、この国でオレは生まれたんだ。アメリカの奴らは自由を持ってきた(bring freedom)んじゃなくて乗っ取った(take)んだ!」と怒ります。そしてつぶやきました。「・・・オレの国はどうなっちゃったんだ?」 やがてイラク西部の荒野に朝が来ますが、風がヨルダンのように涼しくはなく、ドライヤーに吹き付けられるかのような暑さを感じます。バグダッドに着いて車を降りると汗が噴き出してきました。 4月9日のバグダッド陥落から3ヶ月。やはり「半端ではない」数の建物が半壊、全壊していました。フセイン像も顔から肩にかけて吹き飛ばされています。
しかし1時間おきに停電があり、ホテルも商店もこれに備えて自家発電機を持っています。信号がまったく機能しておらず、交差点などは右左どこからでも車が入ってきます。500万を越える人口のバグダッドですが地下鉄や市内鉄道がないので、バス、タクシーを含め自動車の通行量がすさまじく、クラクションの音が絶え間なく聞こえてきました。
パレスティナ難民のキャンプを訪ねてみました。フセイン政権は反イスラエルの立場を明確に打ち出していたため、パレスティナ情勢の混乱で流出した難民を積極的に受け入れていました。住む場所だけでなく、定期的な援助金も出ていたと言います。ところが状況は今春以降180度変わってしまったのです。家主からは「家賃を払え」と言われ家を出なければならなくなった難民もたくさんおり、テントを国連に支給されて首都南東郊外のキャンプに集中しています。 確かに国連のテントは丈夫ですが、40度を越える炎天下では生地が厚いだけに中の暑さは相当辛いものになります。水はたくさんあるから心配ないとは言うのですが、写真を撮っていると「この状況を解決してほしい、日本にも伝えてくれ!」と難民から言われました。 このキャンプで会った英語・アラビア語の通訳をしている女性は「大学で英語を長く勉強してきたけれど、戦争前はまったく使うことがなかった。今は英語を勉強しておいて良かったと思う」、と新しい状況には好意的です。しかしパレスティナ難民は、せっかく落ち着きかけたのに軍事介入のせいでまた家を追われテント暮らしになってしまいましたから、対米感情については言わずもがな。米CNNや英BBCが伝えているような「現在のイラク住民はサダムがいなくなって喜んでいる」というのは、好収入がある一部の人々の間だけの感情のように思えます。道で偶然出会った求職中の大学生は「オレはアメリカが憎い。犬みたいな奴らだ(高木注:犬はこの国では『不潔な動物』の意味だったと思います)。何が自由だ?あいつらはイラクに混乱を持ってきただけで、治安も悪くなった。仕事もチャンスも未来もない!」と言っていました。 サダム教育病院はイラン・イラク戦争末期、状況も落ち着きつつあった86年に開設されました。しかしその後の湾岸戦争、国連経済制裁、そして今年の軍事介入と時代の荒波を経験し続けた病院です。インターン生の研修にも使われており、一種の大学病院として機能しています。私は劣化ウラン弾の被害者、特に強く症状が現れるという子どもに興味がありましたので、小児科の白血病病棟を見学させてもらいました。。
ある病室を訪ねてみます。「この子は白血病。この子も、この子も・・・」。歩きながら局長が次々と指さして行きます。子どもたちの母親たちの視線が、私には「痛い」と感じられました。「うちの子の写真を撮って」と言ってくれるお母さんもいますが、当然のことながら拒む人もいます。 「この子はあと2、3日しかもたないだろうね」。 局長がぽつりと言って指す先には、眼が飛び出さんばかりの子どもがいて泣いていました。母親も一生懸命この子の面倒を見ています。母親は「あと2、3日」ということを知っているのでしょうか。 私は小学校の頃扁桃腺が大きく、高熱を出したり長期入院をしたこともありました。仕事と家庭があるにも関わらず母が病院と家をよく往復してくれたことを思い出しました。母親が病気の子どもを見る時の思いは世界じゅうどこでもきっと同じはずです。 「何とか治ってくれますように・・・」。思いを言葉にするならそれしかありませんでしたが、重苦しい空気にとても口には出来ませんでした。 局長は「日本の医学から学びたいことがたくさんある。広島、長崎の経験もきっと活かされていると思うしね。そういう勉強をするチャンスが欲しい」と言います。白血病が助かる割合は20%だとのこと。「残りの80%はどうなんでしょうか?」という私の最後の問いに局長は「死ぬか、生涯ハンディキャップが残るか、だね」と答えました。 大塚:国連経済制裁と密輸、空爆と劣化ウラン。多国籍軍の展開。旧ユーゴで見たり聞いたりしている話とあまりにも共通項が多いことに、改めて驚きを感じています。
大塚:私もテレビの仕事でボスニアの劣化ウラン問題は取材に同行しています(第41回配信参照)が、放射能は目に見えないだけに、取材する方も怖いですよね。 高木:バグダッドでは半壊、全壊のガレキで遊ぶ子どもたち、というのがカメラマンの定番のようになっていて、私も挑戦してみたかったんですが、実際には鉄条網が張られている廃墟が多く、その中には黄色いパウダーを撒いてあるところもあるんですね。こちらがガンにかかってもイヤですから二の足を踏んでしまいました。今の大塚さんのトシ(39)くらいまでは生きていたいですから(笑)。 大塚:病院の環境はどうでしたか? 高木:欧米のNGOの援助が入っていることは入っていますが、ニーズリサーチが不足していて量はあっても質が伴っていない、という感じです。ついこの間までインターネット実質禁止という国でしたから、イラク側からの情報発信が足りないこともあるでしょう。それからNGOが医師を派遣して医者は足りているのに地元看護士が不足していることが言われていました。女性の労働の習慣が従来なかった国なので、女性看護士が少ないようです。病院の中も暑さはかなりのもので、医療スタッフも患者さんも大変です。 大塚:パレスティナ難民については、結局行き先がないままテント暮らしを続けるしかないのでしょうか? 高木:そうだと思います。イラクは総人口2200万、バグダッドが500万ですから必ずしも巨大な国ではありませんが、やはり相対的には小さい隣国ヨルダンにとって難民(再)流入はかなりの警戒事項で、
大塚:イラクの状況、これからもまだしばらく「無法地帯」が続くのでしょうか? 高木:22時以降は外出禁止令が続いていますが、強盗団やイラク人同士の撃ち合いの話も聞きます。米兵を狙ったゲリラ戦も小規模には続くでしょうし、米軍はしばらく撤退できないでしょう。多国籍軍KFORがいないと機能できないコソヴォと状況は似ていますね。 大塚:お話もとても面白かったですが、高木さんの写真の、特に人物の表情に魅かれます。 高木:少数民族とか、何かの被害者に興味を惹かれるんですね。ベオグラード大学政治学部でも、モノの見方の基本として「中立になれ」とは言われるんですが、現場に行けば行くほど中立であることの困難を感じます。もちろん現場に行く前に出来るだけ中立の立場で情報は収集しますが、写真撮影の実際はミクロの現場を切り取ることであって、そこで中立を表現することはたぶん不可能だと思います。被害者や被抑圧者に心を寄せるのは当然、で心を寄せるものがあるから写真を撮りに行くわけです。 大塚:それは22才の若者としてはかなり鋭い問題意識を持っていると思いますよ。私にもいい刺激になります。これから日本に帰られて、再来年の春には就職ですが、いい写真を撮り続けてくれると私も嬉しいです。今回はどうも有難うございました。 (2003年8月中旬) 高木勝悟氏に謝意を表します。このページに関する権利は本文・画像とも高木氏及び大塚真彦に存します。無断転載をかたくお断りいたします。 |
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