「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/08/20

第72回配信
自由ではなく、混乱が


 

イラク・バグダッド郊外
(パレスティナ難民キャンプ 以下本ページの写真は特記のあるものを除き全て高木勝悟氏撮影)
   昨秋以降の国際政治情勢は、好むと好まざるとに関わらず米・イラクを中心に動いているのは皆さんもご承知の通りです。東欧圏では、欧州連合(EU)東方拡大に対抗するかのように、新たな「親米ブロック」形成への動きも活発化。2〜3月のイラク危機を巡る対応で各国が米英の対イラク軍事介入に対する態度の明示を迫られるなどの動向を、このHPでも第66回第68回両配信で報告しました。    
   ルーマニアほど明瞭な色は打ち出していないものの、ジンジッチ・セルビア共和国首相暗殺後のセルビア=モンテネグロはじりじりと親米ブロック入りの足固めを進めています。8月上旬、故ジンジッチの後任ジフコヴィッチ・セルビア共和国首相は訪米後の記者会見で、最近取り沙汰されていたセルビア=モンテネグロ軍の国連平和維持活動(PKO)参加を公の場で初めて発表。同月11日に共同国家閣僚評議会(セルビア=モンテネグロ政府)はこれを閣議承認しました。  
   ジフコヴィッチ首相はパウエル国務長官ら米高官とこのテーマについて話し合ったことを認め、
空爆からまだ4年、世論には慎重な対応だが、NATO加盟はタディッチ国防相らPKO参加に青信号を出した現政権の最終目標だ(写真:大塚真彦)
「戦犯を出したこの地域の汚名挽回が最大の目標だ。国連軍なら拠出は国連持ちでわが国の財政を圧迫しないし、この十数年遅れていた軍需・特殊産業の発展にも寄与するだろう」と言います。また共同国家のタディッチ国防相もこれを受け、「平和維持のための軍事・警察協力は国連加盟国の義務であり、長年戦争当事者となっていた地域の軍が平和維持に参加することには大きな意義がある。徴兵制による新兵の派遣はせず、プロの軍人を、自発性を尊重する形で1000人規模で送りたい」と述べ、これが北大西洋条約機構(NATO)加盟の準備段階である「平和のためのパートナーシップ(PFP)」、さらにはNATOそのものへの加盟への最初の布石と考えていることを認めています。あのユーゴ空爆からまだ4年。世論の反NATO感情に配慮してか、同国防相はNATOとは言わず「欧州大西洋統合プロセス」という婉曲語法を使っていますが、現政権の目標が対米関係のさらなる良化、そして最終的にはNATO加盟であることは既にウォッチャーの間ではほぼ「定説」になりつつあります。旧ユーゴ紛争後半で米の軍事力に「世話になった」はずのクロアチアが今春の中東欧では反米一番手になったことと対照的、いや皮肉と言えば皮肉な流れですね。
   むろん実際に派遣が認められるかどうか、必要なトレーニング期間はどのくらいか、など国連安保理ほか内外の様々な決定が必要で、明日にもセルビア=モンテネグロ軍の兵士が赴任するというわけではありませんが、国内各紙誌では大きな話題を呼んでいます。気の早いマスコミはリベリア、アフガニスタンよりアップトゥデートな(?)イラク派遣がまるで決まったかのような論調。
   一方、軍事評論家M・ラザンスキ氏は「1000人派兵で6〜12ヶ月間の任期を維持するには、イラクなどの気候の厳しさから考えると3〜4000人の人材確保が必要だが、外国人士官の統制下に入るとすれば外国語の知識も必要だし、セルビア=モンテネグロ軍の職業軍人で一定レベルを満たす希望者をそれだけ集めるのは困難」とし、「かつてユーゴ軍がシナイ半島、イラン・イラク国境やアンゴラのPKOに参加した『誇り』は理解できるが、その時代とは諸々の状況が変わっていることを自覚すべきだ」(8月12日付日刊ポリティカ紙)と警告しています。

   ともあれ春の反戦運動が低調に終わったセルビアでは、イラク情勢が3月の軍事介入前よりもむしろ現在注目されています(去る8月17日にはバスラでデンマーク兵が銃撃され、今春以降のイラクで米英以外の兵士として初めて死亡した事件は、19日のバグダッド国連爆弾テロとともに大きく報じられました)。
高木勝悟さん(ベオグラード中央駅前にて、写真:大塚真彦)
そんな中、この7月にイラクの現実を自分の目で見てきた在留邦人がいました。今回配信は夏休み特集ということで、旧ユーゴのテーマからは少々逸脱しますが、ベオグラード大学に留学中の高木勝悟(たかぎ・しょうご)さんのイラクレポートをお届けしたいと思います。

   高木さんは中央大学文学部で西欧史を専攻する22才。昨年8月から1年間の予定でベオグラード大学政治学部に留学しています。フォトジャーナリスト志望の高木さんは、高校から大学に進学する頃コソヴォ情勢悪化のニュースに触れ旧ユーゴ圏にも興味を持ち始めた、と言います。当地に来てからはコソヴォの他、トルコのクルド人地域などを撮影。この7月はカメラ一式を持ってパレスティナ、イラクを旅しました。
   「日本よりはベオグラードの方が興味のある地域に断然近いですから。その代わり大学の出席率は『必要十分』程度ですが(笑)」と言う高木さんのフットワークには、私(大塚)はもちろん、宮崎泰徳さんや吉田正則さん(第60回配信参照)など在留邦人の先輩も一目置いています。ベ大政治学部の学生雑誌にはコソヴォ北部のセルビア人学生の生活を撮影した作品が掲載され、また帰国直前の現在はベオグラード市郊外のロマ人居住地区を追ってみたい、と意欲満々です。では次段からは高木さんのイラク取材レポートです。

自由を持って来る、はずだったが

   ヨルダンの首都アンマン。目的地バグダッドへ車で14時間の所までは来ていました。
空爆されたバグダッド中心部のテレコム・センター 
しかしここでは7月上旬時点で邦人イラク入りのヴィザについて確たる情報がありませんでした。要らない、という話をする人もいましたが、一方で「もうすぐ新政権が出来るから、ヴィザなし入国が発覚すると逮捕される」という噂も耳にしました。ヨルダン側ではプレスカードと出国許可証は入手できましたが、この許可証というのは「ヨルダン出国は認めるが、その後は何が起こっても当国は関知しない」という趣旨の内容です。アンマンのイラク大使館は閉鎖されており、同大使館の守衛役と思しき兵士は「入国に関しては国境で聞いてくれ」とのこと。どうも米軍が国境管理は行っているらしいのですが、はっきりしたことは全く分からないまま乗り合いジープに飛び乗ることにしました。  
   同乗者は独国籍と英国籍を持つイラク人でした。ドイツ籍の人は会社の休みを取ってバグダッドへ、ここから北のキルクーク、さらにタクシーで郊外の村の妹を訪ねに行くのだと言います。マンチェスターとリバプールの間にある村に住みトラックの運転手をしているイギリス籍のイラク人がいろいろな冗談を飛ばしてくれたおかげで、車内の雰囲気はとても明るいものになりました。  
   ヨルダン・イラク国境に着いたのは深夜でしたが、ものすごい人と車の数です。人だかりの方は商人です。国連の経済制裁が続くフセイン政権時代、ヨルダンに対して格安の値段で原油を売り渡し、この国境を開放してヨルダン側から物資を呼び込んでいたようです。「クルマの方はイラクで売るんだよ。ほらナンバーがないだろう?」  英国籍イラク人に言われてみると確かにナンバープレートがありませんでした。
フセイン前大統領像は首から肩にかけて吹き飛ばされていた
ハングル文字が書かれた自動車もありましたが、どこかの会社のお下がりか、それとも盗車か。「制裁破りのヤミ商売」という雰囲気は今も変わりません。  
   噂通り、イラク入国は米軍が管理していました。若い兵士たちで、米軍に拘束された邦人カメラマンの名前などを私が尋ねられている間に、英国籍イラク人は別の兵士とウイスキーの話をしています。イギリスのスコッチとアメリカのバーボンではどっちが美味か、という話題だったと思いますが、
  米兵:「あんたらイスラム教徒は酒を飲んじゃいけないんじゃないのか?」
  英籍イラク人:「いやいやこの腹を見てくれ、イスラム教徒も酒で太るんだよ。あんたらはイラクで酒を飲んでるかね?」
  米兵:「そりゃ飲んでるさ、オレたちがこの国を取った(take)からな、アッハッハ」  
   明るいイギリス籍イラク人氏もこれには相当カチンと来たようでした。再発進した車の中で、冗談ばかり言っていた彼が真顔になって「今じゃあオレだってイギリスの旅券を持っているが、この国でオレは生まれたんだ。アメリカの奴らは自由を持ってきた(bring freedom)んじゃなくて乗っ取った(take)んだ!」と怒ります。そしてつぶやきました。「・・・オレの国はどうなっちゃったんだ?」  
   やがてイラク西部の荒野に朝が来ますが、風がヨルダンのように涼しくはなく、ドライヤーに吹き付けられるかのような暑さを感じます。バグダッドに着いて車を降りると汗が噴き出してきました。

親パレスティナ政権が崩壊して

   4月9日のバグダッド陥落から3ヶ月。やはり「半端ではない」数の建物が半壊、全壊していました。フセイン像も顔から肩にかけて吹き飛ばされています。
サダム・ディナール健在
250ディナール札(部分、写真:大塚真彦)

   全紙幣が色違いでデザインは同じフセイン前大統領の肖像という、好事家の間では有名なイラク・ディナールは7月上旬現在も現行です。しかし1米ドルが1450ディナールもするのに最高額紙幣は250ディナール(約20円)ですから、10ドル両替するとこのお札の束を58枚も手にしなければなりません。実際、アラビア語の出来ない私が「ハウマッチ?」と聞くと、逆に英語の話せない売り子は指を折って「3」を示す、するとそれが750ディナール、つまり250ディナール札3枚の意味であるというようなコミュニケーションを何度も経験しました。本文にも触れているようにヨーロッパ銘柄のビールが「4枚」、マールボロが「8枚」、レストランのケバブが「12枚」、という調子です。では「1枚」で買えるものは? 「IRAQ」タバコ以外では瓶のペプシコーラかお茶1杯がせいぜいというところでした。
しかし営業している商店は多く、人々が歩き回り、むしろ物があふれているという感です。ホテルは10米ドルの安宿級ですが、クーラー、ミニバー(冷蔵庫)、テレビ完備、セルビアにはないほど立派なエレベーターです。ミニバーに入っていたのはペプシコーラ、セブンアップなどで、ヨルダンから入っているようです。商店に出てみるとチョコレートはトルコ製、菓子はヨルダン製。トイレットペーパーさえもヨルダン製です。「イラク製品はないんですか?」と聞くと、「ある」と言って店のオヤジが出したのはタバコ。青のパッケージにIRAQと書かれたもので、250ディナール(0・17米ドル、約20円)ですからマールボロの8分の1、ゴロワーズの6分の1の値段です。酒屋もあって、アラク(蒸留酒)、バーボンのほかにトルコ、デンマーク、ドイツなどのビールを売っていました。ホテルの近くのレストランではケバブ(2種類のスパイス付き)、サラダ(トマト、キュウリのピクルスと玉ねぎのスライス)、半径25センチはあろうかという巨大な焼きたて薄パンが付いて3000ディナール(約2米ドル、240円)。他に路上で鶏肉の丸焼き機が回転しているなど、一部マスコミが伝えるような食糧不足は実感できませんでした。
   しかし1時間おきに停電があり、ホテルも商店もこれに備えて自家発電機を持っています。信号がまったく機能しておらず、交差点などは右左どこからでも車が入ってきます。500万を越える人口のバグダッドですが地下鉄や市内鉄道がないので、バス、タクシーを含め自動車の通行量がすさまじく、クラクションの音が絶え間なく聞こえてきました。
パレスティナ難民キャンプの生活。テントは丈夫だが中は暑い
米軍の装甲車や戦車が至る所で目につき、一方イラク警察のプレゼンスはほとんどありません。交通を仕切っているのは警察官ではなく普通の市民といういで立ちの青年でした。英タイム誌によると、フセイン政権時代とは勝手が違う現在、警察官が戸惑いを感じているようです。米兵にご機嫌を尋ねたり、どうすればいいのか指示を得てから出ないと動けなくなってしまっているとか。その一方で相変わらずパトカーの私用などがひどく、米軍もあきれているという話でした。コソヴォでも国連や多国籍軍の蔭で地元警察が目立たないのと似た状況です。  
   パレスティナ難民のキャンプを訪ねてみました。フセイン政権は反イスラエルの立場を明確に打ち出していたため、パレスティナ情勢の混乱で流出した難民を積極的に受け入れていました。住む場所だけでなく、定期的な援助金も出ていたと言います。ところが状況は今春以降180度変わってしまったのです。家主からは「家賃を払え」と言われ家を出なければならなくなった難民もたくさんおり、テントを国連に支給されて首都南東郊外のキャンプに集中しています。  
   確かに国連のテントは丈夫ですが、40度を越える炎天下では生地が厚いだけに中の暑さは相当辛いものになります。水はたくさんあるから心配ないとは言うのですが、写真を撮っていると「この状況を解決してほしい、日本にも伝えてくれ!」と難民から言われました。  
   このキャンプで会った英語・アラビア語の通訳をしている女性は「大学で英語を長く勉強してきたけれど、戦争前はまったく使うことがなかった。今は英語を勉強しておいて良かったと思う」、と新しい状況には好意的です。しかしパレスティナ難民は、せっかく落ち着きかけたのに軍事介入のせいでまた家を追われテント暮らしになってしまいましたから、対米感情については言わずもがな。米CNNや英BBCが伝えているような「現在のイラク住民はサダムがいなくなって喜んでいる」というのは、好収入がある一部の人々の間だけの感情のように思えます。道で偶然出会った求職中の大学生は「オレはアメリカが憎い。犬みたいな奴らだ(高木注:犬はこの国では『不潔な動物』の意味だったと思います)。何が自由だ?あいつらはイラクに混乱を持ってきただけで、治安も悪くなった。仕事もチャンスも未来もない!」と言っていました。

母親の視線が痛い

   サダム教育病院はイラン・イラク戦争末期、状況も落ち着きつつあった86年に開設されました。しかしその後の湾岸戦争、国連経済制裁、そして今年の軍事介入と時代の荒波を経験し続けた病院です。インターン生の研修にも使われており、一種の大学病院として機能しています。私は劣化ウラン弾の被害者、特に強く症状が現れるという子どもに興味がありましたので、小児科の白血病病棟を見学させてもらいました。。  
   外国の非政府系団体(NGO)から寄付も届き、国連制裁の悪影響こそ薄くなりつつありますが、肝心の政府が存在しないので国の援助はまったくありません。
白血病の末期には眼が飛び出すような症状になるという。「もってもあと2、3日」という子どもと母親
アフメド・アブドゥファタフ・モハメッド小児外科局長に劣化ウラン弾の影響について聞いてみました。「まだ今のところ因果関係は断言できるほどではないが、3、4年経つともっとはっきりするだろう」。劣化ウランの影響は3〜10年経って現れるものなのです。実際91年から子どもの患者数は3〜4倍に増加しているそうで、50のベッドは満員でした。「もう少しベッドも増やしたいが今は無理だろうね。入院できず、自宅から週何回か通院をお願いしているケースもある」と局長。  
   ある病室を訪ねてみます。「この子は白血病。この子も、この子も・・・」。歩きながら局長が次々と指さして行きます。子どもたちの母親たちの視線が、私には「痛い」と感じられました。「うちの子の写真を撮って」と言ってくれるお母さんもいますが、当然のことながら拒む人もいます。  
   「この子はあと2、3日しかもたないだろうね」。  局長がぽつりと言って指す先には、眼が飛び出さんばかりの子どもがいて泣いていました。母親も一生懸命この子の面倒を見ています。母親は「あと2、3日」ということを知っているのでしょうか。  
   私は小学校の頃扁桃腺が大きく、高熱を出したり長期入院をしたこともありました。仕事と家庭があるにも関わらず母が病院と家をよく往復してくれたことを思い出しました。母親が病気の子どもを見る時の思いは世界じゅうどこでもきっと同じはずです。  
   「何とか治ってくれますように・・・」。思いを言葉にするならそれしかありませんでしたが、重苦しい空気にとても口には出来ませんでした。  
   局長は「日本の医学から学びたいことがたくさんある。広島、長崎の経験もきっと活かされていると思うしね。そういう勉強をするチャンスが欲しい」と言います。白血病が助かる割合は20%だとのこと。「残りの80%はどうなんでしょうか?」という私の最後の問いに局長は「死ぬか、生涯ハンディキャップが残るか、だね」と答えました。

大塚:国連経済制裁と密輸、空爆と劣化ウラン。多国籍軍の展開。旧ユーゴで見たり聞いたりしている話とあまりにも共通項が多いことに、改めて驚きを感じています。
医師、医薬品の状況はまずまず。しかし外が40度の日は病室内部の暑さも相当耐え難いものだった
高木:劣化ウランはコソヴォでも問題になりそうですし、これからもテーマにして行きたいと思っています。これから数年経って影響が現れる可能性があるわけですから。旧ユーゴにしても私は心配です。
大塚:私もテレビの仕事でボスニアの劣化ウラン問題は取材に同行しています(第41回配信参照)が、放射能は目に見えないだけに、取材する方も怖いですよね。
高木:バグダッドでは半壊、全壊のガレキで遊ぶ子どもたち、というのがカメラマンの定番のようになっていて、私も挑戦してみたかったんですが、実際には鉄条網が張られている廃墟が多く、その中には黄色いパウダーを撒いてあるところもあるんですね。こちらがガンにかかってもイヤですから二の足を踏んでしまいました。今の大塚さんのトシ(39)くらいまでは生きていたいですから(笑)。
大塚:病院の環境はどうでしたか?
高木:欧米のNGOの援助が入っていることは入っていますが、ニーズリサーチが不足していて量はあっても質が伴っていない、という感じです。ついこの間までインターネット実質禁止という国でしたから、イラク側からの情報発信が足りないこともあるでしょう。それからNGOが医師を派遣して医者は足りているのに地元看護士が不足していることが言われていました。女性の労働の習慣が従来なかった国なので、女性看護士が少ないようです。病院の中も暑さはかなりのもので、医療スタッフも患者さんも大変です。
大塚:パレスティナ難民については、結局行き先がないままテント暮らしを続けるしかないのでしょうか?
高木:そうだと思います。イラクは総人口2200万、バグダッドが500万ですから必ずしも巨大な国ではありませんが、やはり相対的には小さい隣国ヨルダンにとって難民(再)流入はかなりの警戒事項で、
「ミクロの現場」には人間の様々な表情がある。高木さんには大学を卒業し就職しても、それを撮り続けてほしいと思う
アメリカの軍事介入後ヨルダン側は入国拒否を続けているようです。イスラエル・パレスティナ問題という大変複雑な背景があるのですが。もちろんトルコもクルド人問題がある以上、似たような厳しい対応を取らざるを得ないでしょう。
大塚:イラクの状況、これからもまだしばらく「無法地帯」が続くのでしょうか?
高木:22時以降は外出禁止令が続いていますが、強盗団やイラク人同士の撃ち合いの話も聞きます。米兵を狙ったゲリラ戦も小規模には続くでしょうし、米軍はしばらく撤退できないでしょう。多国籍軍KFORがいないと機能できないコソヴォと状況は似ていますね。
大塚:お話もとても面白かったですが、高木さんの写真の、特に人物の表情に魅かれます。
高木:少数民族とか、何かの被害者に興味を惹かれるんですね。ベオグラード大学政治学部でも、モノの見方の基本として「中立になれ」とは言われるんですが、現場に行けば行くほど中立であることの困難を感じます。もちろん現場に行く前に出来るだけ中立の立場で情報は収集しますが、写真撮影の実際はミクロの現場を切り取ることであって、そこで中立を表現することはたぶん不可能だと思います。被害者や被抑圧者に心を寄せるのは当然、で心を寄せるものがあるから写真を撮りに行くわけです。
大塚:それは22才の若者としてはかなり鋭い問題意識を持っていると思いますよ。私にもいい刺激になります。これから日本に帰られて、再来年の春には就職ですが、いい写真を撮り続けてくれると私も嬉しいです。今回はどうも有難うございました。

(2003年8月中旬)


高木勝悟氏に謝意を表します。このページに関する権利は本文・画像とも高木氏及び大塚真彦に存します。無断転載をかたくお断りいたします。

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