「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2001/03/17 21:50

第43回配信
南部戦線異状あり


ベオグラード・春(共和国広場)
   第36回配信から第38回配信まで、「ユーゴ政変特集」と題して10月5日前後のユーゴ・セルビアの状況をレポートしましたが、その後劣化ウラン問題を挟んでしばらくセルビアを遠ざかっていましたので、今回と次回は久し振りにユーゴの政治・経済の状況を取り上げようと思っています。ただし情勢がきわめて流動的ですので、次回経済関連の報告が出来なかった場合はご容赦下さい。
   率直に言って、自分の住んでいるセルビアがもう少し豊かになってくれれば、というのが筆者の思いであるわけです。ミロシェヴィッチ政権時代に凍結されていた国際機関でのステータスが復帰され、経済援助は確かに10月以降急速に活発化しています。しかし真の経済発展がスムーズに進むには、やはり政治的に安定することが不可欠です。残念ながらまだ現在のユーゴ・セルビアには(1)モンテネグロ問題(2)南部セルビア・コソヴォ問題(3)過去の清算とハーグ戦犯法廷との協力問題、と不安定要因として挙げなければならない要素が残っています。まず今回はこの辺を整理してみようと思います。

DOSのリーダー、ジンジッチ民主党党首を首班とするセルビア共和国政府が1月上旬にスタート(写真=FoNet)
   10月5日政変でユーゴ連邦総選挙(9月24日実施)の結果が公に認められ、18党からなるセルビア民主野党連合(DOS)とモンテネグロの親ミロシェヴィッチ派社会主義民族党(SNP)の連立による「ねじれ政権」が誕生。勢いに乗ったDOSはセルビア議会選も強硬実施に踏み切り、12月22日に行われた選挙では議席定数250の3分の2を越える176議席を占める大勝を果たしました。この結果を受け、1月上旬にDOSの事実上のリーダーであるジンジッチ民主党党首を首相とする共和国政府も成立しました。従来100万票は必ず取っていたミロシェヴィッチのセルビア社会党はこの選挙で50万票(得票の14%弱)、37議席を辛うじて確保するにとどまる記録的大敗を喫しました。
   10月政変から150日が経ち、一般市民の当初の高揚と楽観論はさすがに少し下火になっていますが、それでも3月5日、日刊紙ブリッツに発表された世論調査によればユーゴ政府への支持率(「大きく評価する」と「部分的に評価する」の合計)は60%、セルビア共和国政府への支持率は58%をキープしています。DOSは名前こそ依然として「野党連合」ですが、連邦レベルでもセルビア共和国レベルでも堂々とした政権党となったのです。

ユーゴ連邦に背を向けて

   「モンテネグロには明確な目標がある。それはヨーロッパだ!」
   3月5日、モンテネグロのツェティーニェで開かれた知識人会議の開会演説でジュカノヴィッチ・モンテネグロ大統領は改めて独立へ向かう政府方針を明確に宣言しました。
   モンテネグロで97年以降ミロシェヴィッチ離れを進めてきたジュカノヴィッチの与党連合は、9月の連邦選をボイコットしました。当初は、DOS政権の成立による民主化で再びセルビアとの関係が良化するのではないかという見通しがありました。ところがこの予想を裏切って、与党連合は12月28日に独立色を強く打ち出した与党綱領を発表。今年6月までに独立を問う住民投票を実施する、としました。

モンテネグロとセルビアの関係見直しに関する新綱領要旨

  • モンテネグロとセルビアは2つの独立国家の連合とする。
  • モンテネグロとセルビアは独自の軍と警察を持つ。連合の省庁はその統括を担当する。
  • モンテネグロとセルビアは独自の外交を行う。連合の省庁はそのコーディネートを担当する。
  • モンテネグロとセルビアは共通の通貨政策を行う。

    独立反対派SNPの集会ではユーゴ連邦の三色旗が出てくるが、与党連合の集会では皆無(昨年6月ポドゴリッツァの地方選集会で)
       今までは与党連合内の独立強硬派、社民党に突き上げられそうになることはあっても、独立明言を避ける「玉虫色」の立場だったジュカノヴィッチ大統領と社会主義者民主党がここに来て独立姿勢を明確にし、与党連合を離脱していた独立強硬派の自由連合との関係が改善されました。一方、独立に消極的な民族党が与党連合を離脱、独立に反対するSNPとの提携の可能性も噂されるなど、モンテネグロの対立軸は「反ミロシェヴィッチ対親ミロシェヴィッチ」から「独立派対反独立派」にはっきりと変化しました。こうした新しい政治状況を受け、「国民の信を問い直す」ため4月22日に共和国議会選が実施されることになりました。この選挙は事実上住民投票の前哨戦と見られ、ジュカノヴィッチ政権はここで勝って勢いに乗り住民投票でも過半数を取ろうという考えです。一方独立反対派の筆頭のSNPはミロシェヴィッチの右腕だったモミル・ブラトヴィッチ党首を更迭し、プレドラグ・ブラトヴィッチ連邦上院議員を党首に選出。DOSとの協力を進めるジジッチ連邦首相、ボジョヴィッチ連邦上院議長などを指導部に選出しました。言わば「もうミロシェヴィッチ時代は過去のもの、今はDOSと一緒にユーゴ連邦で民主化を進めています」を選挙戦のキーにしたい作戦です。
       現在の議会構成は独立派・反独立派が拮抗しています。ところが2月中旬に共和国政府機関とスロヴェニアの会社の共同で実施されたアンケート(母集団1076)では、58・4%が何らかの形での独立に賛成、25・6%はセルビアとの連邦国家維持に賛成しています。その後もSNP内部での党首選出を巡る内紛があったことから独立派が現在は戦いを有利に進めているという予測が有力です。しかし3月11日、SNPブラトヴィッチ新党首は「独立支持は33%に過ぎない」と独自の調査結果を発表、同時に「最近ジュカノヴィッチ大統領と与党は独立賛成票を投じるよう呼びかけるビラを個別に一般家庭に配っているが、これは大統領の職権濫用だ」などと批判しました。本格的な選挙戦は3月末からですが、モンテネグロを二分する対決の第一ラウンドは既に始まっています。
    ユーゴ連邦に背を向けて・・・モンテネグロはどこへ行く(昨年6月ポドゴリッツァにて)
       1月のブッシュ米新大統領就任式後の訪問外交では、ジンジッチ・セルビア首相がパウエル国防長官と会談し一定の前進があったのに対し、ジュカノヴィッチ大統領に対しては米要人が単独会談を拒否し、アメリカがモンテネグロの強硬独立に反対する姿勢を示されてしまいましたが、政府方針に変化は見られません。先日共和国議会を通過した「住民投票施行法」は、接戦を予想した与党連合の方針が繁栄されてか、有権者の50%以上が投票すれば投票そのものが有効、投票総数の50%が独立を支持すれば成立、としています。従って理論的には市民の25%強が賛成を投じれば独立、になってしまうわけです。また共和国内に過去2年間在住している市民だけが投票できる、と有権者を規定、セルビアなどに住んでいる(多くはユーゴ連邦維持を支持すると見られる)モンテネグロ人を排除することになりました。ユーゴ・セルビア当局は「これほどの重要決定には問題があり過ぎる投票規定だ」と抗議の声を強めており、3月14日にはユーゴ憲法裁も同法は違憲との判断を下しました。
       上に掲げた「綱領」にはまだ玉虫色の匂いがしますが、その後のジュカノヴィッチらの発言を分析すると、セルビアとモンテネグロは新しい二つの国家として改めて国連などに加盟し直す、などの方針を打ち出しており、連邦国家というよりはロシア・ベラルーシ型(EU型?)の弱い国家連合のモデルを考えているようです。政権側は「4月以降も独立のあり方を巡ってはセルビア側と協議を続ける」(ヴコヴィッチ大統領顧問官)としてはいます。が、せっかく10月に成立させたコシュトゥニツァ大統領、ジジッチ首相以下の連邦政府などが存在意義を失ってしまう可能性、ユーゴスラヴィアという国が名実ともに消滅してしまう可能性も消えていません。4月22日は単なる議会選ではなく、ユーゴ連邦にとって大きな転回点になりそうです。

    セルビア悪玉論後退

    2年前マケドニア・ツルナゴーラ山地のアルバニア人村を訪れた時、アルバニア語の出来ない私にイヤな顔もせずマケドニア語を話してくれた少年たち。情勢が緊迫した今彼らはどうしているのだろうか(99年3月撮影)
       昨年11月以降、セルビア共和国(本国)南部プレシェヴォ市(アルバニア人は約90%)、ブヤノヴァッツ市(同、約60%)などのマケドニア、コソヴォと隣接する地域で、コソヴォ解放軍の流れを汲む「プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァッツ解放軍(セルビア語略称OVPMB、アルバニア語略称UCPMB)」がセルビア警察・ユーゴ軍などと衝突し緊張が高まっていたことは第39回配信でも書きました。99年のユーゴ空爆終了に伴うクマノヴォ協定に従い、同地域ではユーゴ軍・セルビア警察のプレゼンスや武装が制限されており、解放軍側の方が武力で優位に立っていたためです。2月7日、ブヤノヴァッツ市近郊のルチャネ村付近を視察に訪れた米モンゴメリ在ユーゴ大使の車も発砲を受けました。9日後の同月16日にはコソヴォ中北部のポドゥイェヴォ近郊でセルビア本国からグラチャニッツァなどセルビア人が住む地域に向かっていたバスが爆破されて58人が死傷。コソヴォ・アルバニア人勢力によるテロに対し批判が一気に噴出しましたが、翌々日にはブヤノヴァッツ近くでセルビア人警官3人が地雷により死亡する事件が起こり、再びニュースの焦点はセルビア本国南部に戻りました。
       「南部問題は平和的に解決されなければならない。テロに反対して行く我々の方針は国際社会の理解を得られるだろう」(ジジッチ連邦首相)、とするセルビア当局はチョーヴィッチ共和国副首相ら連絡特別委員会を編成し、アルバニア人穏健派を代表するハリミ・プレシェヴォ市長や解放軍代表者と交渉。政治的な問題解決に向けて努力していました。2月中旬には非武装化、難民帰還、アルバニア人の権利拡大などを柱とする政府側和平案が提示され、遅れてアルバニア人側も3月上旬に対案を発表。3月12日に停戦協定がついに成立しました。しかしこの協定は13日0時から発効とする、と定められているものの期限が明記されていません。このため解放軍側は一方的に「1週間のみ有効、またアルバニア人住民の個人的なユーゴ勢力への攻撃に対して安全は保証できない」としています。またアルバニア人側の和平案は、解放軍について何らかの武力組織として合法化を要求するなど、セルビア人側がとても受け入れられなさそうな条項も含まれており、今後本格化することが期待されている政治交渉ではまだすれ違いが続く可能性があります。
    赤は今回ユーゴ軍などが展開を許された地域(Cゾーン)。灰色の破線はアルバニア人が多数を占める事実を根拠に民族主義者が主張している「民族境界線」
       またユーゴ=セルビア側はNATOに対し、クマノヴォ協定による非武装地帯を1キロずつ縮める交渉を並行して行ってきました。この結果3月14日にはマケドニア国境と隣接する25平方キロの地域(通称チャーリー東、Cゾーン。左地図で赤く示した部分)でユーゴ軍の展開が許され、事実上クマノヴォ協定に変更が加えられることになりました。
       この要求が出た当初は、NATO内部ではセルビア警戒論が支配的でした。コソヴォに展開するNATO中心の多国籍軍KFORのカビジョズ最高司令官も「ユーゴ軍、セルビア警察とNATOが衝突する危険もある」と表明しています。ミロシェヴィッチ政権時代は「セルビア人イコール悪玉」「アルバニア人イコール善玉」だったわけですから、それもある意味で当然でしょう。しかし一方でプレシェヴォ地域への解放軍の武器はコソヴォ経由で届いていることは自明で、コソヴォや周辺地域でのアルバニア人のテロやゲリラ攻撃が止まらないことから、イワノフ露外相のKFOR不要論を始め、コソヴォに展開するKFOR、国連(UNMIK)に対する批判も国際的に聞こえてくるようになりました。そんな中、今回のCゾーン展開認可は「前政権時代とは違う平和的な努力を国際社会に認めてもらいたい」(チョ−ヴィッチ副首相)というセルビア側の要求が通った形です。しかし上記の停戦と併せて武闘派の中には不満も強いようで、ハリミ・プレシェヴォ市長は17日に「地元市民による抗議集会が行われる」と発表しました。まだ情勢は流動的で、次回配信発表まで停戦が守られているかどうかさえ不明な状況ですが、取りあえず本稿執筆時(3月16日)現在、南部の戦況は沈静化しています。

       2月26日、マケドニアのツルナゴーラ(アルバニア語名マリ=イ=ズィ)山地でも紛争が発生しました。コソヴォと国境を接する同山地はアルバニア人村が多く、中でもタヌシェフツィ村は以前からプレシェヴォ地域の解放軍の拠点と見られていましたが、ここでマケドニア軍・警察との銃撃戦が起こりました。3月4日にはマケドニア側警察官など3人が死亡、コソヴォ国境が閉鎖されました。翌週からマケドニア軍はタヌシェフツィへの攻撃を強め、12日にはほぼツルナゴーラ山地を制圧した模様です。しかし14日にはマケドニア国内で最大のアルバニア人の町、テトヴォ近郊で本格的な戦闘が始まり、市民1名が死亡、警察官や軍人などマケドニア当局側も15人以上のケガ人を出しました。15日も戦闘が継続され市民2名が死亡する中、トライコフスキ大統領は同日国家治安会議を召集。戒厳令発令は見送られましたが、緊迫した事態が続いています。
    スコピエ中心部
       マケドニアのアルバニア人は人口全体の20%を越えると見られています。特にアルバニアと国境を接する西部はアルバニア人の比率が高く、旧ユーゴで唯一流血なしに独立したマケドニアの最大のアキレス腱と見られていました。このためグリゴロフ前大統領はアルバニア人に閣僚ポストを与えるなど懐柔策に留意していましたし、一昨年秋の大統領選ではトライコフスキ候補がアルバニア人のリーダー、A・ジャファリの支持を取り付けることで当選した経緯があります。というわけでマケドニアでは民族紛争による流血は起こらない、という「神話」が一般的了解だったのですが、この数週間で状況はマケドニア人、アルバニア人の全面対決さえ起こりかねない危機的なものになっています。「民族解放軍」を自称するアルバニア人武闘派は「我々はマケドニア人から差別を受けている。マケドニアをマケドニア人とアルバニア人の連邦国家にする要求が受け入れられなければ徹底抗戦だ」としています。ディミトロフ大統領顧問官は「アルバニア人はあくまで少数民族。民族連邦などとんでもない」。
       背景の分析には少し時間が必要で、軽率な結論を出すことは自重したいと思いますが、マケドニア側は最近のセルビアで「アルバニア人善玉論」が後退しているのを受けて強気のゲリラ狩りに出たのではないかと思われます。一方アルバニア人「民族解放軍」の動きは、やはりアルバニア人の人口が多い地域(上の地図、灰色の点線参照)での民族示威の色彩が強いようです。このままではNATOと国際社会の仲裁なしにはブレーキがかからなさそうです。

    3月末を待ちながら

       話がマケドニアに「飛び火」してしまいましたが、ユーゴの政治状況に戻りましょう。
    「前大統領逮捕阻止!」ウジツェ通り11番地のミロシェヴィッチ邸前には、連日50人ほどの社会党員・シンパが集まって「人間の盾」を作っている
       第38回配信にも書いたように、オランダ・ハーグの旧ユーゴ戦犯法廷から訴追されているミロシェヴィッチ前大統領の処遇に関しては、コシュトゥニツァ連邦大統領は消極論を続けていました。政変翌日にプーチン露大統領特使としてイワノフ露外相がベオグラードを訪れた後、ミロシェヴィッチの敗北宣言が出るなどの流れから、ウォッチャーの間では「ロシアの大岡裁き」があったのではないか、という読みが有力でしたし、早くも10月10日のヴェドリヌEU議長国外相との会談後にコ大統領は「前大統領の件はユーゴ新政府のプライオリティ(優先案件)ではない」と明言しています。また元は親ミロシェヴィッチ政党だったSNPのジジッチ連邦首相は2月11日「私が首相でいる間はミロシェヴィッチの逮捕はない」と明言しています。
       しかしハーグと国際社会(なかんずくアメリカ)は今年に入りユーゴ政府に対する圧力を強めました。「コシュトゥニツァは古いタイプの民族主義者で魅力に乏しい」と、先進国要人の中で初めて明らさまなコシュトゥニツァ批判を口にしたのはデルポンテ・ハーグ法廷検事総長でしたし、在ユーゴ・モンゴメリ米大使も最近「3月7日には経済協力協定をユーゴ政府と締結したが、ハーグへの協力姿勢を見せなければ経済援助はストップする」という内容の発言をしています(日刊紙ポリティカ)。
       セルビア経済は先進国の援助なしに「自力更正」できる状態にはほど遠いのが現状です。「3月末までにハーグとの協力体制を作り上げる」(ジンジッチ共和国首相)、「ジジッチ発言は首相としてではなく彼の個人的見解」(バティッチ共和国法相)、「ハーグとの協力は今やユーゴ政府のプライオリティ」(スヴィラノヴィッチ連邦外相)、「個人的にはミロシェヴィッチは即刻逮捕すべきだと思う」(ぺリシッチ共和国副首相)と、DOS政権幹部からは2月中旬以降、今までとは違った声が聞こえて来るようになりました。
       「ミロシェヴィッチを逮捕しても、国内で裁くだけで十分ではないか」という国内世論は、予想されたほど強くはなさそうです。2月中旬に行われた世論調査では「戦犯として裁くべきか」という問いに対する肯定の答(約60%)と「ハーグで裁くべきか」という問いに対する肯定の答(約56%)には大差はありません。唯一のネックは法改正のようです。
    司法宮と言えばハーグの国際司法裁判所だが、こちらはユーゴの司法機関の合同庁舎であるベオグラードの通称「司法宮」。R・マルコヴィッチら拘置中の大物もここで取調べを受けている
       多くの場合、外国で犯罪を犯し拘留された自国民については、当該外国との二国間協定により自国への引渡しが規定されています。しかし自国民を外国の司法機関に引き渡すことが出来るという規定はほとんどなく、ユーゴ憲法、刑法もこれを事実上禁じています。しかし、国際法に詳しいある弁護士によれば、「ハーグ戦犯法廷は特殊な性格で、ユーゴ憲法は解釈によっては引渡しが可能だ。また刑法は憲法に抵触できないので、憲法解釈さえあれば現行法を改正する必要はないと考えられる。クロアチア、ボスニアなどでは『ハーグ協力法』とでも言うべき特例法を定めることによって問題をクリアしているので、ユーゴでもこれが現実的ではないか」と言います。保守的な法学者の間にはまだ戦犯法廷自体の合法性を疑う声もありますが、知識人の間では「国連が作った戦犯法廷だから、国連加盟国ユーゴとしては同法廷に従うのがスジだろう」というのが了解になりつつあるように思えます。
       既に前政権時代の汚職疑惑などでは「大物」が逮捕されています。税関のトップだったM・ケルテスは業務上横領などの疑いで政変直後に逮捕、現在も拘留中。国営テレビの総裁で10月5日にDOSシンパからリンチされ、その後解任されたD・ミラノヴィッチは2月14日に逮捕。99年の空爆時にNATO側からテレビ空爆(職員16名死亡)を知らされていながら職員に知らせなかった疑いが持たれています。2月24日には秘密警察のトップだったR・マルコヴィッチが逮捕され、これはミロシェヴィッチ逮捕まで一気に行くのではないか、とマスコミ仲間の間で噂が流れました。「不動産疑惑か何かで国内法で逮捕して、国内・国際世論を伺いながらハーグ引渡しのタイミングを図る」から「いきなり捕まえてベオグラード空港に直行する」まで、いろいろな憶測が出てきました。
    シンパはともかく、大半の一般庶民にとっての気がかりは「過去の人」になったミロシェヴィッチ逮捕より経済状態だ。しかしハーグとの協力なしにセルビアの経済発展はない
       同時にベオグラードの高級住宅街デディーニェ地区にあるミロシェヴィッチ邸(コシュトゥニツァは公邸入りの意思がないことを明らかにしたため、現在もミロシェヴィッチ家はウジツェ通り11番地の大統領公邸に住んでいる)の前に社会党員・シンパが集まって「人間の盾」を作り始めました。連日50人から70人くらいの主に年配の人々が交替で家の前に詰めかけています。リーダー格の一人は、社会党がこれを組織していることを認め、「地方からも時々『援軍』が来ている」と言います。また別の参加者は「不動産疑惑で証拠が挙がって捕まるくらいなら仕方がないと思う。だがハーグに引き渡すのは断固反対だ。ミロシェヴィッチはセルビアを守った英雄なんだから」と強硬です。とは言え、秋までの栄光やいずこ。逮捕キャンペーンを始めた国民運動オトポールやDOSシンパと衝突することもなく、50人程度の老人に守られている状態の今や、ミロシェヴィッチは半分以上「過去の人」になった感が否めません。
       私も3月上旬のマスコミの騒ぎに乗せられて、「どうも前大統領逮捕が近そうです」と日本のテレビを呼びつけてしまったクチですが、中旬の取材は見事に空振り。再び自宅待機に戻って、デッドラインの31日に向かって過ぎていく時間を過ごしているところです。もっとも31日は「ハーグとの協力体制」作りのデッドラインであって、この日までの前大統領逮捕を必ずしも意味しない可能性はあるのですが。

    (2001年3月中旬)


    ジンジッチ首相の写真の版権はFoNet通信に属します。地図を除くその他の画像は日本のテレビ取材に同行した際(99年3月、2000年6月、2001年3月)筆者が撮影したものです。また本文にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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