「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
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ユーゴ政変特集」緊急レポートはじまる!
最終更新 2000/10/15 21:50

第36回配信 <ユーゴ政変特集・1>
新・コルバラの戦い


コシュトゥニツァ新大統領(9月27日の勝利集会にて、写真提供:伊藤健治氏)
   7月以来大変ご無沙汰をしてしまいました。8月後半から選挙とは直接関係ない日本のテレビA社のドキュメンタリー取材で出張、マケドニアからスロヴェニアまで旧ユーゴ中をまわった後、選挙後のベオグラードで別のテレビB社と合流し政変を取材、先日ようやく落ち着いたところです。この間たくさんの方からこのページにアクセスを頂きましたが、更新が出来ずご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。
   10月5日には私もB社取材班の一員として連邦議会の前におり、見事に催涙ガスの洗礼を浴びてしまいました。ミロシェヴィッチの敗北宣言、コシュトゥニツァの大統領就任、と5日夜からの事態の展開はすさまじいスピードで現在も続いています。「革命」と名付ける人あり、「平和的政権交代」と評価する人あり。
   89年のベルリンの壁崩壊がユーゴ紛争の序曲になったこと、あるいは「革命」と西側のテレビ視聴者が狂喜したルーマニアは、チャウシェスクこそ死んだものの体制内改革にとどまったこと、などを考えると、今回の政変の見方も積極的に評価するべきところは評価しながらも慎重に構えなければならないところは多々あると思うのです。私が書けるのは一つの視角から見た事柄に過ぎませんが、現在のところ多少シニカルにならざるを得ないと感じています。私なりの感想を含め、これから3回(余裕があれば4回のつもりですが、11月にはまた長期出張の予定が入っています)程度、いつもより更新のペースを速くして「ユーゴ政変特集」を発表します。まず今回はクラッシュ前日の10月4日までを日記風に。

9月24日(日)、リュブリャーナ   スロヴェニアの首都のホテルでは米CNN、英BBCも受信できたが英語やスロヴェニア語よりよく分かるクロアチアTVのニュースでユーゴ選挙事情を夕方フォロー。ミロシェヴィッチ夫妻の投票する様子などが流れ、体制側はベオグラード中心部の共和国広場で、野党側はテラジエ地区でそれぞれ「勝利集会」を開くという。選挙前から外国報道機関に対する当局の締め付けが厳しくなっており、B社のウィーン特派員K記者は金曜に在京ユーゴ大使館のレターが出てようやく入国できたばかりの状態。私に代わって通訳をやっている妻イェレナと電話したら、「情報省からの取材許可は何とかなりそうだが警察=入管の許可がとても下りなさそうで『取材はいいが滞在はダメ』という不条理なステータスだ」と言う。K記者も「ホテルにガサ入れがあったら終わりかも知れません」とビビっている。私のA社の仕事はようやく木曜28日か金曜で終わりのメドが立ったが、6月に婚姻での滞在許可を取る前の私のパスポートには「報道」の滞在許可のハンコが捺してあるので、すんなりクロアチアからユーゴに帰れないかも知れない。イェレナとはK記者国外退去の最悪の場合を想定し、ブダペストで合流、婚姻届のコピーを国境で見せて一緒にベオグラードに帰る案で合意。

スロヴェニア、クロアチアでもユーゴ選挙情報は1面トップの扱い(27日付リュブリャーナのドネウニク紙)
9月27日(水)、ザグレブ   ザグレブでA社の仕事を終えひと安心。イェレナに電話したら「今フィード(衛星伝送)中だからまたあとで電話して!」と切られてしまう。K記者の周囲を固めるのはB社の東京デスクからも褒められる腕の現地カメラマンのボグダン青年、運転手ながらボグダンの音声や照明アシスタントまでこなすわが悪友で仲人のバーネ、そして通訳のイェレナ。彼女をこの仕事に5年前引き込んだのは私だけど、今ではK記者に代わって東京との伝送コーディネートをやれるまでになったのだから嬉しい。報道への締め付けが少し緩くなり、K記者の滞在が明日で合法化出来そうな見通し、ということで私も29日にザグレブからバスで直接ベオグラードを目指し、週明けの2日からイェレナに替わりB社通訳を引き受けることに。地方選は各地で民主野党連合(DOS)の大勝、ベオグラード市議会では110議席のうち102議席を取ったとか。この勢いから考えると公式結果のまだよく分からない大統領選もミロシェヴィッチの負けではないか。今はミロシェヴィッチが引き方を探っているところではないか、とA社のプロデューサー氏。

9月29日(金)、ベオグラード   ザグレブからのベオグラード行きバスは1日1本しかないとのことで、A社取材班のザグレブ空港見送りは断念、逆にホテル前でチーム全員の見送りを受け1ヶ月にわたるA社の仕事を終える。クロアチア・ユーゴ国境でバスを乗り換え、ユーゴ国境の旅券審査は30秒ほど、意外なほどあっさりと終わり無事ユーゴ再入国を果たす。ベオグラードに向かうバスのラジオでシドニー五輪男子バレー決勝、ユーゴが金メダル、の報を聞く。バスターミナルまで迎えに来てくれたゴラン運転手「27日はコシュトゥニツァの勝利集会、すごかったぜ」。「コシュトゥニツァが52%取った」というDOSの新しいポスターを目にする。勝者につきたいのが群集心理というものなんだから、どうせ数字を膨らますんだったら60%ぐらい取ったことを言っておけばいいのに。久しぶりの自宅でネコと休んでいたらイェレナから電話。B社と市東部のレストラン・シンジェリッチで昼食にしないか、と言うので、何でそんなヘンなレストランなんだ、と聞いたら「唯一の独立系ラジオ、インデックスがまともに受信できる所が他にないから」とのこと。まだ頭の中はドキュメンタリーで報道になっていない。
連邦議会選(市民院=下院)、連邦選管直後発表分結果(定数=138)
セ社会党+ユーゴ左翼親ミロシェヴィッチ46
モンテネグロ社会民族党親ミロシェヴィッチ28
セルビア民主野党連合野党55
セルビア急進党極右、現政権連合内
諸派-----
   イェレナ、そしてB社取材班と再会。インデックスのニュースを聞きながら連邦議会選の結果をイェレナに見せてもらうと、DOSは確かにセルビアの中では最多議席を占めているが、モンテネグロではジュカノヴィッチ大統領派のボイコットがあったため、ほとんど親ミロシェヴィッチ派の社会民族党が議席を取っており、たとえコシュトゥニツァが大統領になったとしてもDOS多数政権の成立は難しい状態。「驚いたなあ、スロヴェニアやクロアチアでニュースを見ていると今にもミロシェヴィッチが負けそうで引き方を探っているように見えたんだけど、これは逆に勝算ありと踏んでいることになりますねえ」。するとK記者「西側テレビにとってはミロシェヴィッチが負けるかどうかだけが『面白い』ことで、説明が面倒くさくなる議会のことなんか触れないんですよ」。スロヴェニアでA社のプロデューサーがドキュメンタリーの登場人物を話しながら「テレビというメディアは複雑な話には向いていないのではないか」と言っていたのを思い出す。
29日共和国広場のDOS集会に集まった人々
   結局この日の夜はヤジ馬で月曜から引き受けるB社と同行し共和国広場のDOSの集会を見に行くことに。大統領選の再集計を要求してDOSは来週からゼネストを決行呼びかけ。勢いから行けば第2回投票に応じても勝てるかもしれないのに、これではDOSの自殺行為ではないか?とK記者もカメラマンのボグダンも懐疑的。DOSの集会参加者からは今まで聞いたことのなかった歌が聞こえてきた。
   Spasi Srbiju i ubij se,
   Slobodane, Slobodane.
(セルビアを救って自殺してくれ、スロボダン[=ミロシェヴィッチ]よ、スロボダン)
   同じメロディーのコシュトゥニツァ版。
   Spasi Srbiju iz ludnice,
   Kostunice, Kostunice.
(セルビアを狂気から救ってくれ、コシュトゥニツァよ、コシュトゥニツァ)
   ヤミ滞在の危ない橋を渡ったK記者も、1ヶ月以上他の仕事と掛け持ちが続いているカメラマンのボグダンも、イェレナもバーネも疲れている。私もA社の仕事でヘロヘロなのだけど、週末は休んで月曜からはイェレナに自宅でニュースをフォローしてもらう「最強の布陣」が敷けるし、頑張らなくては。

10月3日(火)、ベオグラード   ゼネスト取材2日目。道路封鎖はスカスカ、企業のストも混乱を起こすというほどではなく、どうもこのゼネスト、作戦としては失敗に向かっていると言わざるを得ない。コシュトゥニツァとDOSは第2回投票には応じず徹底抗戦を表明するが、そのブレインの経済学者グループG17PLUS内部には「第2回投票に行ってもいいのでは」と西側通信社に対し発言もあったようで、今一つ結束に欠ける感。学生運動オトポール(「抵抗」、最近は「国民運動オトポール」に改名したらしい)だけは元気だが。体制系マスコミがストに入っている、という報も、イェレナに確認してもらうとどうも技術系職員だけで記者は相変わらずミロシェヴィッチ御用報道に全力を傾注しているらしい。
   コシュトゥニツァとDOSは第1回で勝ったとしている。その結果が認められないのでゼネスト。そういう背景で道路封鎖や商店街のシャッターを撮影しているのだが、果たして日本の視聴者に分かってもらえるのだろうか。改めて「テレビは複雑な話に向いていないのかも知れない」という声が自問として響いていた一日。

(左)集会開始を告げるD・ジュリチッチ(=右端)のドラム隊は野党の新名物に(中)ゼネスト中、シャッターが閉ざされたベオグラード中心部の文具店(右)10月3日、連邦選管へ抗議に向かう市民

10月4日(水)、コルバラ   ベオグラードのゼネストは元気がない、勝つつもりがあるのか。そんな声はセルビア中部の野党関係者からも上がっているらしい。DOS関係の記者会見は予定なし。K記者を待ちながらホテルでバーネ、ボグダンと「今日はどうしようか」と相談。真面目なバーネは「全面ストに入っているのは清掃公社だから、ゴミ関係のストーリーなんかKさんに提案しようか」と言っているが、明日木曜日は野党の大集会が首都で予定されているし、取りあえず今日は息抜きでもいいんじゃないか、というのがサボリ好きの私の意見。電話でイェレナにコシュトゥニツァの予定を調べてもらったがニシュに向かっているらしい。「ニシュじゃ遠いからコルバラくらいまで行ってきたら?」。そうこうしているうちにK記者が来て、「今日はコルバラ行ってみませんか?」
   ベオグラードから南へ1時間(バーネのベンツでかっ飛ばすと45分)ラザレヴァッツ市にある国営コルバラ炭鉱は既に週末から7000人の従業員の大半がストに突入しており、今回のゼネストでも焦点として取り沙汰されている所。日産7万トン、セルビアの火力発電の必要量の50%をカバーしており、ここのストの影響で昨日からベオグラードは計画停電に入っている。
10月4日午後「世界のニュースの中心」になったコルバラ炭鉱だが、当初は200人もいない程度だった
   コルバラへ向かう途中K記者と今後の見通しについて話し合う。明日は野党の大集会とコンサート。金曜、土曜は静かになるだろうが、日曜に体制側が第2回投票を決行、ミロシェヴィッチ当選が宣言された後は警察が野党集会に介入してきてクラッシュするかも知れない、と結論。
   12時半頃コルバラ炭鉱タムナヴァ西採鉱所に到着。もちろん操業はしていないのでスト委員会の建物で数名が連絡を取っている以外は静かで、警察のプレゼンスもない。ではステーポと呼ばれる代表者にインタビューしようか、という段取りになった時、急にスト委員会が騒然となった。「警察がスト排除のためベオグラード、チャチャク方面からこっちに向かって動いている!」。急遽ステーポが西採鉱所のメンバー25人ほどを委員会の前に集めた。「警察の動きをDOSシンパが止めている。一方こちらの交替要員は警察からブロックされている模様。我々はあくまで非暴力で行こう、冷静に対応し話し合えるなら話し合うつもりだ。これから東採鉱所に全員移動しよう」。当然のことながらインタビューは中止、サッと撮って警察が来る前に逃げようという我々の予定も変更になった。
   東採鉱所に歩いて移動すると既に200人ほどがこちらのスト委員会の建物の前にいて、ブルドーザーなどでバリケードを張る準備をしている。日本のCテレビやD新聞などのマスコミも来ていた。ラザレヴァッツ市の議員が話す。「市民は皆さんに協力する。賢明な戦略を取ってほしい。それは屈服ではない。頑張ってくれ」。ステーポがまたマイクの前に来て言う。「警察が近づいている。こちらは非暴力で徹底抗戦しよう。警察が入ってきたら座り込め」。
14時頃機動隊(右)がスト委員会建物前に入りスト参加者を包囲。ガスマスク、盾は装備していないものの情勢は一気に緊張した
   1時半ごろ、バリケードになったブルドーザーのところにいた斥候役の労働者が「来たぞ!」。しばらくコルバラ側代表者と話し合いの後機動隊の制服を着た警察官30名ほどが皮肉の拍手に迎えられながら建物前に展開しスト参加者を包囲した。緊張。代表者との話合いが建物の中で始まる。K記者とは「ガスマスクをしていないうちは催涙弾は使わないけど、風向きにはいつも注意していること、突入された場合には4人がはぐれないように、ボグダンとカメラを守ること、場合によっては脚立を防衛に使うこと」などを確認。ブルドーザーの上に乗ったボグダンとバーネとは、テープは撮影後私のリュックに入れ、Kさんと私は活字メディアの振りをしてその場を逃れる、というシナリオも作る。フランスのテレビが機動隊の真ん前で撮影していて小競り合いになりかけた。Cテレビのコーディネーターも「カメラを没収するぞ、と脅された」と蒼い顔をしている。
   2時過ぎに話し合いの途中経過を警察代表者が話した時点では、警察はまだスト隊実力排除の方針だったが、その後ステーポが「警察のバリケードが市民によって撤去され、交替要員とシンパの市民が各地からこっちに向かっている。DOS幹部ミチューノヴィッチらも来る予定」と報告してスト隊が沸いた。やがて続々と「援軍」が拍手に迎えられながら駆け付け、4時頃には500人以上が建物前の広場を埋めた。イェレナから電話「DOSがベオグラード市民に『コルバラに向かえ』と呼びかけている。コシュトゥニツァもニシュへ向かうのを止めてコルバラに向かっている。世界のニュースの中心にいるのよ、今朝コルバラ行ったら、って言ったでしょう」。
バリケードとして準備したブルドーザーに乗り、警察との交渉の成り行きを見守るスト参加者
   西日が傾き、DOS幹部のバティッチ、ミチューノヴィッチ、オブラドヴィッチらが演説する頃には当初の緊張がなくなり、包囲した警察官も何のためにいるのか分からないような雰囲気になっていた。「援軍」はさらに増え、もう2000人を超えるかという数。DOS各党の旗が入り、中でもチャチャクから来た援軍はやたら元気だ。数時間前の緊張時にはいなかったマスコミも増えて、日本のE通信の記者の姿も見えた。コシュトゥニツァが来ることは間違いなさそうなので、取りあえずマイクの前に取材班も移動。どんどん増える旗とマスコミに囲まれ 、まるで政治集会のようになってしまった。
   マイクの前、脚立に立ったボグダンの左右をバーネと私、後ろをKさんが守る。押し合い、圧し合いで私の腕は柔道の腕ひしぎを掛けられたように激痛。暗くなる頃にコシュトゥニツァ登場。「コルバラの皆さんと共に我々は勝ったのです!」
   コシュトゥニツァ演説を撮り終えて私たちは抜け出す。外電は2万人と言っているらしいが、1万人は少なくともいたか。ベオグラードに向かう夜道、対向車線をたくさんの車がまだコルバラ方面へ向かっていた。K記者「コルバラの戦いでしたね」。私「ははは、第一次大戦で『コルバラの戦い』ってのがあって、勝ったセルビア側がベオグラードをオーストリアから解放することになったんですよ」。K記者「数さえいれば警察が手出し出来ない、っていう実績が出来ちゃいましたね」。私「ええ、これで明日以降の見通しがよく分からなくなりました」。
   衛星伝送前の編集で、25人から1万人に膨れ上がった今日の長い午後をもう一回振り返った。強い陽射しと炭鉱の埃、人ごみと腕ひしぎ。疲れていたが、冴えないゼネスト取材で表情の冴えなかったB社取材班もようやく満足できる仕事をした、という気持ち。テレビ局での伝送の直前、イェレナから電話。「憲法裁が大統領選を取り消す決定を出したらしいわよ」。「つまりこの騒ぎはなかったことになるわけ?そりゃ明日野党が収まらないだろう」。「新・コルバラの戦い」は今日のところは野党が警察に勝ったようだが、明日15時にDOSシンパがセルビア中から来る予定の大集会はどうなるかこれで分からなくなった。いよいよ先行きは不透明になってしまった。(ユーゴ政変特集・2に続く)

(2000年10月中旬)


コシュトゥニツァ大統領の写真を提供頂いた伊藤健治氏に謝意を表します。特記のない写真の大半は2000年9月から10月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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