「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
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必見! 「関連リンク集」大幅リニューアル!!
最終更新 2000/02/16 19:50

第30回配信
民族主義の先へ


ザグレブ(聖マルコ教会、昨年11月)
   1月の議会選で野党が圧勝、2月8日にはやはり野党のメシッチ新大統領が選出され、クロアチアを9年間支配してきた故F・トゥジュマン大統領と彼のクロアチア民主同盟(HDZ)の民族主義政権時代が一気に終焉を迎えました。独裁者のイメージが色濃かったトゥジュマン前大統領が病気で倒れる11月までは考えられなかったような急激な、しかし民主的な政変が起こったのです。残念ながら自分で取材に出かけてクロアチアの「新しい風」を体験することは出来ませんでしたが、今回はインターネットの資料などをもとに新政権が誕生したクロアチアの課題を展望してみたいと思います。

   90年、戦後初の複数政党制による選挙で圧勝して誕生、ユーゴからの独立紛争に走ったHDZ政権は、「独立の父」と言われた党首トゥジュマンのカリスマに支えられた個人崇拝を基盤としていました。確かに独立という最大の目標は果たしましたが、クロアチア、ボスニア紛争が一段落した近年は第27回配信でも書いたように、かたくなな民族主義政策の続行により国際社会から孤立、経済政策の失政も重なって党としての人気を落とし続けていました。トゥジュマンの「再起不能」が明らかになった11月には、彼の後継をめぐる党内派閥抗争が表面化し、大統領選でも一般には人気がないが党内で実力のあるV・シェクス副党首を立てるか、人気はあるが党内では少数派のグラニッチ外相を立てるか、という苦しい選択を迫られました。また議会選を前に発表した選挙綱領(公約)を見ても、従来の「民族の誇り」に訴える以外は「健全な民営化を」「有効な失業対策を」と、結局自分たちの失政を認めざるを得ないような自己批判にとどまり、内容のある政策が打ち出せないでいました。
クロアチアの新しい動向は隣国ユーゴでも詳細に報道されている(メシッチ大統領選出を報ずるベオグラードの「グラス・ヤヴノスティ」紙)
   一方HDZの人気に翳りを見てとった野党勢力は、第1党のクロアチア社民党(SDP、中道左派)と第2党のク社会自由党(HSLS、中道)が連合、さらに第2グループの中道・地方4政党(クロアチアオタク?の読者の方のために書いておくと、LS=自由党、HNS=ク民族党、HSS=ク農民党、IDS=イストリア民主会議、この他にASH=ク社民運動も協力)も連合を結成し、2党連合とともにHDZとは協力しないという協定を結んで与党との対決姿勢を明確に打ち出しました。
下院選改選結果(1月3日、定数151)
SDP+HSLS中左・中道71
中道4党連合中道24
HDZ右派46
HKDU+HSP極右
少数民族代表 ---
   失業率は20%、外貨と外資を「注射」しない限りクロアチア経済は先が見えないところまで来ています。しかしトゥジュマンの民族主義が続き国際社会から孤立している間は先進国マネーは入りません。1月3日に行われた議会(下院)総選挙は、2+4党連合が憲法改正に必要な3分の2にはわずかに及ばなかったものの、過半数を大きく上回る95議席を獲得し、有権者の変革を望む声がはっきり答えとして出た形になりました。SDP党首I・ラーチャンが新首相となり、6党による連合政権が1月27日にスタートしました。
グラニッチ前外相は報道陣に対し党と自分の「敗北宣言」を2度も発表しなければならなかった(週刊「グローブス」誌から)
   一方トゥジュマンの後継を選ぶ大統領選の方では小波乱がありました。当初はHDZのM・グラニッチ外相とD・ブディッシャHSLS党首の一騎打ちと見られていましたが、4党連合推薦のダークホース、S・メシッチHNS副党首(第27回配信で引用した人物で、かつてはトゥジュマンの右腕として旧ユーゴ最後の連邦幹部会議長=元首=を勤めたほどですが、ボスニア政策をめぐってトゥジュマンと対立し野に下った男です)が急進し第1回投票(1月24日)をトップで通過、勢いに乗って本命ブディッシャ候補との旧野党どうしの対決にも勝利し新大統領の座に就きました。HDZのマテ・グラニッチは少し哀れで、議会選後、党の敗北宣言をする損な役割を負わされただけでなく、自らも第1回投票であえなく落選、2度にわたってHDZ時代の終息を自ら発表しなければなりませんでした。しかも実弟でHSLSのゴラン・グラニッチがラーチャン新政権の副首相に就くという皮肉なおまけまで付いてしまいました。
   メシッチ旋風については、党内の不協和音が続きグラニッチが「自滅」してHDZ票がメシッチに流れたこと、議会選大勝後の油断かSDP−HSLS(ブディッシャ)陣営で失言が続いたことなどが言われていますが、スプリットの中立系通信社STINAのヴェジッチ主幹は「今までも有力野党の党首だったブディッシャには時々日和見主義の発言があったが、野に下ってからのメシッチのトゥジュマン批判は単独では政権に就く可能性のない小政党だったこともあって一貫していた」と指摘しています。ザグレブのある私の知人も「2党連合が権力を独占するよりも、大統領は4党連合から、という方がバランスが取れていると思うよ」と言っていました。ともあれ選挙後の9日にはたくさんの報道陣に取り囲まれながらメシッチ大統領、ラーチャン首相、トムチッチ下院議長がなごやかな雰囲気の中で会談、クロアチアは6党連立の新政権でHDZの負の遺産を清算して行くことになりました。

大統領選第1回投票(1月24日)
S・メシッチ4党連合41%
D・ブディッシャSDP+HSLS28%
M・グラニッチHDZ22%
50%を越える得票がなかったため上位2名による第2回投票に持ち越し、グラニッチ他の候補者は落選確定
大統領選第2回投票(2月7日)
S・メシッチ4党連合56%
次D・ブディッシャSDP+HSLS44%
   乱暴な分け方をしてしまえば、大統領の担当は「政治」、政府の担当は「経済」ということになります。メシッチ大統領の政治的課題は、(経済状態を良くするためにも)民主化を進め国際関係を改善すること、に尽きます。具体的には@大統領の独裁権限の削減Aハーグ・旧ユーゴ戦犯法廷への積極的協力Bボスニアのクロアチア人地区に対する「強すぎる関係」(第29回配信参照)を見直し和平・統一実施に協力Cボスニアへのクロアチア人難民、クロアチアへのセルビア人難民帰還を促進D報道機関、特にHDZ御用放送の色が濃かったクロアチアテレビ(HRT)の改革、などが挙げられます。
   故トゥジュマン大統領の独裁権力を物語るエピソードには事欠きません。例えば憲法にはどこにも書かれていない「大統領顧問官」が96人(!)もいましたし、大統領府は時代錯誤な服を着た近衛兵が守りを固めていました(そのトップは大統領の運転手から短期間に軍の将軍に出世した男です)。メシッチ新大統領は「議会と協力してこれらのポストの廃止を早急に実施する」と言っていますし、ボスニア問題、セルビア人難民問題についても「憲法に明記された規定に従って見直しを促進したい」と明言しています。
   その先に見えてくるものは、やはり欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)への早期加盟です。38才の若いピツラ新外相(SDP)は「バルカンの過去に拘泥するよりも、まずヨーロッパにこそクロアチアの将来を見出さねばならない」と言い、ヤコフチッチ新欧州担当相(IDS党首)も、「目標に掲げた2006年のEU加盟が不可能な国でないことを先進国に向けて示して行きたい」と意欲満々です。

延滞する薄給、強制休暇・・・庶民の不満は政権交代の原動力になったが、新政権は失業率を上げずに国営系不良企業を清算しなければならない(99年11月、国営系ナーマ百貨店の従業員スト&デモ)
   しかし新政権の最大の課題は20%にのぼる失業対策をはじめとする経済問題でしょう。HDZの経済に対する無策・放埓ぶりは余りにもひどいものでした。社会主義時代の国営企業を形の上では「民営化」しましたが、経済的能力よりもトゥジュマンとHDZに忠誠な人材が重視され、M・クトレ(囲み参照)のような利権の甘い汁を吸う政商・マフィアまがいの少数「民間ビジネスマン」の台頭を許してきました。汚職が発覚しても、摘発する側の警察・秘密警察・検察・裁判官・・・はやはり「体制寄り」(秘密警察のトップは前大統領の息子ミロスラフ・トゥジュマンでしたが、11日に辞表を提出した模様です)。切り落とした余剰労働力は年金生活者にして行った結果、130万の労働人口に対し年金生活者が112万、というアンバランス(先進国では4対1以上)が生じています。インフレは人工的に抑えられていますが、有効な活力剤は外貨借款の導入だけでした。このため対外債務はGDPの44%にものぼる95億ドル(99年末推定値)で、欧州でも有数の債務国になってしまいました。クロアチアテレコムなど実績のある数少ない国営企業が、雇用創出など真の経済発展ではなく単に「国の借金」の返済のために外国資本に対し安売りに出されている現状なのです。EUどころか世界140カ国が加盟している世界通商連合(WTO)にも未加盟で、法律の整備や透明性が欠けているため、外国からの投資はハンガリーの9分の1、チェコの4分の1(98年)に過ぎません。切り札の観光でも社会主義時代の90年には最初の8ヶ月で延べ4400万泊でしたが、99年同期には2280万泊(ハンガリーの5分の1)まで落ち込んでいます。
ラーチャン新政権主要閣僚
首相イヴィッツァ・ラーチャン(SDP)
副首相(主席)ゴラン・グラニッチ(HSLS)
副首相(経済)スラフコ・リニッチ(SDP)
副首相(社会)ジェリカ・アントゥノヴィッチ(SDP)
大蔵マト・ツルクヴェナッツ(SDP)
国防ヨジョ・ラドシュ(HSLS)
内務シーメ・ルチン(SDP)
外務トニーノ・ピツラ(SDP)
欧州担当イヴァン・ヤコフチッチ(IDS)
文部体育ヴラディミール・ストゥルガル(HSS)

HDZ帝国の没落

イヴァン・ヘラク前観光相(42) --- 1月27日パヴレティッチ大統領代行によりラーチャン首班が認証され、自らの不逮捕特権が失われると大統領府の前で逮捕され、認証式から警察に直行となった。容疑は職権濫用、横領など。ラーブ島の国営系ホテルの修復に充てられるべき公費約100万クーナ(約25万ドイツマルク)がこのホテルから別の銀行口座に振り込まれ、結局は多額の負債を抱えるへラクの妻の会社に収まっていたというもの。他にもクロアチア・ロト(宝くじ)委員会委員、国家物資備蓄委員などの立場を利用して親族、知人の便宜を図った疑いが持たれている。
ミロスラフ・クトレ(49)、HDZ創設者 --- 90年HDZの発起人の一人に名を連ねる。以前自分が勤めていた年金基金から低利の融資を受け、法的には疑わしいやり方で民営化された日刊紙「スロボドナ・ダルマツィア(自由ダルマチア)」の筆頭株主に。ボスニア紛争最盛期に同紙はトゥジュマン体制に不忠誠な記者を粛清し反ボスニア・愛国主義を強く打ち出したが、11万部を誇った発行部数は3万部まで激減した。クトレはまた新聞・雑誌販売店網「ティサック」も買収しクロアチアのメディア王と言われたが、この時代に様々な形で職権濫用、横領、粉飾決算などを行った疑いが持たれている。一時は176の会社の社長となり「クトレ帝国」を築いたが、その大半はトンネル会社だった。98年、メインバンクのドゥブロヴニク銀行の買収に乗り出した(自らの負債をもみ消すため、と言われている)が、同銀行の経営破綻に伴い「帝国」も崩壊した。昨年にはHDZを除名され、いくつかの訴訟が起こされていたが先日ついに警察により逮捕された。
   ラーチャンのSDPは旧ユーゴで一党独裁を誇った共産党(共産主義者同盟)の後継政党です。ラーチャン自身、ティトーの生地クムロヴェッツで「ヨシップ・ブロズ=ティトー政治学校」の校長をしていた時期があります。このため一部少数の批判者や毒舌家からは「(冷戦時のソ連・東欧のような)国家共産主義への先祖返りがあるのではないか」と言われていましたが、新政権が看板として掲げるのはEUで主流を占める中道左派にも通じる英ブレア路線(ブレアライト)です。簡単に言えば、国有化を放棄し、商品や労働者の流動性を堅持。「強い政府」として単に補助金を出すだけなのではなく、むしろ労働者の能力向上機会や地方・中小企業の発展基盤整備を重視するソフト政策です。2党連合の綱領(選挙公約)を見ても、「雇用の創出のためにも、若者の能力を伸ばすことに力を入れる。企業は政治的に忠誠であるかどうかに関係なく、意欲ある中小企業の発展を促進する。大企業にはフェアな民営化を実施して、外国からの投資を刺激する。輸出能力のある企業を優遇する」などとして「5%成長」を目標に掲げています。
   財政規模の縮小も重要な課題です。外貨借款しか安定へのプラス要素がない現在、公共投資をはじめとする拡大財政はインフレを招くだけだからです(第27回配信参照)。2党連合は「国家予算17%削減、公共投資5%削減」を力説、生活の苦しい庶民対策に減税(付加価値税を現行の22%から17%に)も唱えています。
   しかし、経済政策が一朝一夕に効果を上げることは難しいのは誰にも明らかな通りです。マテシャ前首相の「空約束」のため、今年新政府は軍・警察ほか国家公務員への給与(ルチン新内相は警察人員の大幅削減を予定していますが)は12%、年金に32%、対外債務返済に60%以上、それぞれ昨年よりも多くを割かないとならないのです。「財政17%削減は無理だろう」というのが大方の見方ですし、政府側も「緊急の課題であるのは承知しているがすぐにプラス効果は生めない」(ツルクヴェナッツ蔵相)、「今年は苦しい状態が続く」(ラーチャン首相)と、庶民の過大な期待をけん制する発言が続いています。しかし、1月中旬にEUのプロディ外務担当官がザグレブを訪れたのに続き、2月上旬にはオルブライト米国務長官がラーチャン首相と会談、200万ドルの援助を約束しました。新しい政府とともに、新しいトレンドが始まろうとしていることだけは確かです。

大統領選第2回投票当日の在ベオグラード・クロアチア大使館。セルビア人難民をはじめ、クロアチア国籍を持ってユーゴに滞在している人は決して少なくない
   ユーゴ(セルビア)のミロシェヴィッチ政権を孤立させる政策の継続については、ラーチャン・オルブライト会談でも確認されています(西側先進国の仲間入りを目指す国としては、まあ当然でしょう)。しかし独立紛争(91年)も遠くなりつつある今年に入って、ベオグラードではささやかながら文化の面でユーゴ・クロアチア関係の緊張緩和を感じさせる出来事がありました。
   第28回配信でモンテネグロのサブの話題として、クロアチアポップの「女王」、ドリス・ドラゴヴィッチが大晦日の夜をモンテネグロで歌う、という話を書きました。これは無事に実現した模様で、ジュカノヴィッチ大統領も客として来ていたという話です。しかしドリスがこの予定を発表した12月、クロアチア芸能界・ファンの間ではかなりの批判や議論を呼びました。「海岸演歌」の大御所M・コヴァチは「戦争で弟が殺されたオレの頼みだから行かないでくれ」。ノンポリのドリスに「行け」とはっきり言ったのは、同じ女性歌手のアルカ・ヴイッツァでした(ドリスが女王なら、美川憲一を想起させるドスのきいたアルトのアルカはCROポップの「魔女」の趣です)。「誰かが最初に行かなきゃいけないのヨ、みんながみんな誉めるわけじゃないでしょうけど、しょうがないじゃないの」と。
   クロアチアと独自の緊張緩和政策を進めるモンテネグロならともかく、ベオグラードにクロアチアの歌手が来るのはまだ時期尚早だろうと私は思っていたのですが、12月31日のベオグラードに、何と当のアルカ・ヴイッツァが来て他のユーゴの歌手と競演したのです。残念なことに、彼女が歌い出すと酔った聴衆がビール瓶やらゴミやらを投げつけて会場は混乱しましたが、セルビアの歌手たちが連帯のしるしに彼女を取り囲んで一緒に歌ったとのことです。翌日のノヴィサド(セルビア北部)のコンサートは問題なかったとか。戦争が始まってから8年半、独立クロアチアの歌手として初めてユーゴに来た 「女王」と「魔女」に拍手を送りたい気持ちです。
   1月末からのベオグラード映画祭では、デヤン・ショラク監督(「ガルシア」)をはじめ、5本のクロアチア映画が上映されました。残念ながら私は見る機会に恵まれず、批評家の反応が雑誌などに発表されるのを待っている段階ですが、もうベオグラードで過度に政治的な(否定的な)文脈でクロアチアの文化が語られることはあまりないと思います。
   かつては同じ国だったことにこだわる意味はありません。でも違う名前の(たぶん)同じ言葉を話している人たちです。ヴィザの問題も含め、心理的に遠い町になってしまったベオグラードとザグレブが、少しずつ再接近してくれると私も嬉しいのですが、そのためにはユーゴ側の民族主義もどうにかしないといけませんよね。

(2000年2月中旬)


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