セルビア映画「ボスニア! ボスニアを東京まで拡大せよ」
プレスリリース・パンフレットより
幼なじみがなぜ殺しあったのか
千田 善
筆者がこの映画を知ったのは、南ドイツ・テレビのニュースでだった。「ボスニアでのセルビア人による蛮行を、セルビア人の若手映画人が正面から取り上げ、市民にショックを与えている」という報道だった。ドイツの報道だから少し割り引いて受け取るべきかもしれないが、この映画は実際に大きな反響を呼び、観客動員記録を塗り替えた衝撃の問題作となった。
なぜ、それほど多くの人びとを捕らえたのか。それは、旧ユーゴでは誰もが知っているのどかな日常生活から、不本意ながら戦争に巻き込まれていく幼なじみの姿が、自分や家族の記憶とだぶり、深い共感や追憶、あるいは反発を引き起こしたからにほかならない。
旧ユーゴでは、いまでも数百万人の難民が自分の家に帰れず、あるいは友人や家族、親戚と別れ別れに暮らしている。そうした彼らにとっては戦争はまだ終わっていない。ベオグラードの薄汚れた映画館の堅いいすに座り、鋭利な刃物で体をえぐられるように感じながら、この映画を見つめていたかもしれない。
映画の舞台になった「諸民族の友愛と団結トンネル」という名は、第2次大戦でのナチスドイツに対するレジスタンス運動(パルティザン)のスローガンだ。ベオグラードにも同じ名の橋があった。全国各地に「友愛と団結通り」などの地名があった。お役人は自慢したが、第2次大戦の記憶が風化するにつれ、どこにでもある陳腐な地名として、偽善的ニュアンスが混じりはじめていたのも事実ではある。
第2次大戦では旧ユーゴ王国軍が1週間で降伏、ドイツ軍の占領下で、ユーゴの兄弟民族が敵味方に別れ、殺し合った。血みどろの兄弟殺しをやめ、多民族が団結してドイツ軍を追い出そう、と呼びかけたのが「国父」故チトー大統領だった。そして旧ユーゴ王国にかわり、「諸民族の友愛と団結」を国是とするユーゴ社会主義連邦共和国(戦争直後は連邦人民共和国)が誕生した。
3民族が混在するボスニアでは、異なる民族の結婚が普通におこなわれた。映画のミラン(セルビア人)とハリル(ムスリム人=イスラム教徒)のように、幼なじみが共同で店を持つのも当たり前の光景になった。
80年にチトーが死んだとき、何万もの人間が心から泣いた。映画の「隊長」のように、葬儀に数百キロ歩いて参列した者がいたのも実話である。ベオグラードのチトーの墓には数百万人が訪れている。共産党支配時代に戻りたくはないが、平和だった時代の記憶は、初恋の思い出のように、切なくいとおしい。
軍の部隊が使われていないトンネルの中に閉じこめられ、一部だけが生還する、というストーリーは、92年以降のボスニアで実際に起こった戦闘をもとにしたもの。監督やスタッフが当事者から取材し、制作した「セミドキュメンタリー」と呼んでも差し支えないだろう。
ボスニアの3民族は、外見も言葉も同じである。宗教的な祝日など、いくつかの風俗習慣が異なっているに過ぎない。それが悲惨な戦争に巻き込まれたのは、利権のためには悪魔にも魂を売るような政治家が民族主義をあおった結果である。経済が破綻し、明日の展望が見えにくいとき、政党への支持を広げ、選挙に勝つために、手っ取り早いのは民族主義に訴えることである。
民族が違うからという理由で、だれも親友と殺し合いなどしたくないのは当然だ。しかし「民族」や「民族主義」というものは、無関心な者さえも「誇り」や「伝統」で魂をくすぐり、あるいは、いやいやでも強制的に周囲に従わせる。
それがいやなら、国や家や仕事や友人をすべて捨てて別の遠くの土地に逃げ、一生裏切り者の汚名を背負って生きるしかない。多くは「民族の大義」という強制力に従わされてしまう。個人の意志など軽く吹き飛ばしてしまう、目には見えないが巨大で気まぐれな怪物、それが民族主義だ。
原題は「美しい村、美しい炎(美しい村は、燃えるときも美しい)」。監督のドラゴエビッチは3冊の詩集を出版している詩人でもある。かつての多民族国家への、ユーモラスで悲しいレクイエムである。
(ちだ ぜん・ジャーナリスト。本映画字幕監修。著書に「ユーゴ紛争」=講談社現代新書など)