戦犯逮捕作戦とアメリカの台所事情
 −−セルビア陣営内紛はNATOの「漁夫の利」になるか

                          千田 善

[メニュー]   [自己紹介]   [最近のボスニア]   [論文]   [リンク]

(「アエラ」97年9月より)
 ボスニア情勢が緊迫している。NATO(北大西洋条約機構)軍が戦争犯罪容疑者の逮捕作戦に、本格的に乗り出したためだ。
 七月十日に北西部の都市プリエドルで、戦犯容疑者一人が逮捕、一人が射殺されて以降、セルビア人勢力の拠点パレは「緊張感がたちこめ、空気が手でつかめるほど重い」(地元誌記者)。
 最近、パレに取材に入ったアメリカ人記者が、一時逮捕される事件がおこった。記者は、諜報部員とは思えないほどきゃしゃな体格だったが、アメリカ人とわかると、女性や子どもなど市民たちが「デルタ、デルタ」と叫んで取り囲み、警察に通報したのだという。
 「デルタ」とは、米軍最強の特殊部隊デルタ・フォースのこと。パレに住む戦犯容疑者カラジッチ氏逮捕のために、スパイ活動をしていたと疑いをかけられたのだ。
 ハーグの国連旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷に起訴されている七十六人のうち、四分の三はカラジッチ氏を含むセルビア人だ。
 NATO軍はこれまで、戦犯容疑者は「パトロール中に遭遇すれば逮捕するが、積極的な捜索・拘束はしない」としていた。九三年のソマリアでの大失態(内戦指導者アイディド将軍の逮捕に失敗、住民の猛反発で国連平和維持軍が全面撤退を余儀なくされた)が念頭にあったのは明らかだ。
 しかし、その方針はこの春、一八〇度変わった。その第一弾がプリエドルでの急襲作戦「オペレーション・タンゴ」だった。
 この作戦は、イギリス軍特殊部隊SAS(スペシャル・エア・サービス)が実行、アメリカ軍がヘリコプターでの護衛や身柄移送、通信など後方支援を担当する「合作」だった。
 九二年当時、プリエドル市長として強制収用所の運営などにかかわったとされるコバチェビッチ市立病院長は、院長室に「人道援助物資を届けにきた」イギリス人将校(実はSAS戦闘員)に、抵抗する間もなく逮捕された。
 同じく強制収用所の事実上の管理責任者だったとされるドルリャチャ前警察署長(死亡当時四九歳)は、家族でピクニックにきていた湖畔で、逮捕に抵抗、銃撃戦のすえ射殺された。SAS部隊は数週間にわたり容疑者の行動をチェックし、週末によく行く場所をつきとめ、数日前から迷彩服で湖畔近くの繁みで待機するという、まるで映画のような作戦を実行した。
 ドルリャチャ氏はカラジッチ派の警察幹部で、地元誌によると、おもな任務は、はじめはタバコやコーヒーなどの密貿易、今年に入ってからは、ほかの戦犯容疑者たちの安全対策だったという。
 起訴状によると、プリエドル地域では九二年から九三年にかけ、五万二千八百十一人が「民族浄化」で殺害または追放された。戦犯法廷に起訴された半数近くの三十二人が、プリエドル関係者だ。
 しかし、国際法廷に起訴されたうち、逮捕・拘束は一割強にすぎない。同法廷は今年初め、新たな起訴を非公開に切り替えた。病院長と前警察署長はこの「秘密リスト」に載っていた。
 戦犯容疑者逮捕の急襲作戦は、秘密起訴状が作成された三月にゴーサインが出され、周到に準備されたものだ。しかし、逮捕作戦発動とその実施時期を決定させたのは、国際法廷の意向ではなく、アメリカの台所事情だった。
 クリントン大統領は外交の目玉として、NATO加盟国拡大をすすめてきたが、共和党主導の議会からは「費用がかかりすぎる。そもそも、冷戦が終わったのになぜNATOが必要なのか」との疑問が噴出していた。
 「タンゴ作戦」が実行されたのはNATO首脳会議閉幕の翌日、クリントン大統領がまだ欧州諸国を訪問中で、わかりやすいNATOの「存在意義証明」となった。
 二期目のクリントン政権では、ボスニア対策で慎重派の軍(国防総省)と積極派の国務省とのあいだで確執が続いていた。
 共和党出身のコーエン国防長官は、米軍兵士の安全を優先し、来年七月の駐留期限切れとともに、ボスニアからの米軍完全撤退を主張。これにたいしオルブライト国務長官は「国際正義」を重視。
 難民帰還定住や戦争再発防止などの諸課題の中でもとくに戦争犯罪への厳正な処罰を重視し、少なくとも、これらをある程度軌道に乗せなければ、米軍の撤退も不可能になると主張した。
 論争の最中の今年三月、ボスニア東部のスレブレニツァ村の虐殺事件の死体が掘り返され、別の場所に移されたことが、国連の調査団の発掘で判明した。三千人とも七千人ともいわれるイスラム教徒の死体の多くは、近くの川に流された可能性もある。
 スレブレニツァの虐殺(九五年七月)は、カラジッチ氏の数々の戦犯容疑の中でも最大規模の殺害だが、殺しただけでなく、戦犯追求を逃れるために埋葬地を掘り返すという行為じたい、人類史上例を見ない非人道的な犯罪ではないか−−衝撃は大きかった。
 クリントン大統領は、あいまいながらも結果的に、国務長官の主張する積極策に傾いた。七月の急襲作戦にも事前承認を与え、米軍撤退の再延期もあり得る、とも示唆するようになった。
 かりにカラジッチ氏が逮捕・拘束されれば、アメリカの利害だけでなくボスニア情勢全体に大きなインパクトを与える。
 戦犯容疑者として起訴され、公職を退かざるをえなくなったカラジッチ氏は、昨年秋の選挙で、自分のあとがま(セルビア人共和国大統領)に、側近のプラブシッチ女史を指名した。彼女をつうじて隠然たる影響力を行使することが狙いであり、表現は悪いが、大統領はカラジッチ氏の「雇われマダム」だと思われていた。
 ところが今年六月、警察幹部の汚職摘発から、治安組織ぐるみの大規模な不正(数十億円規模のタバコ・コーヒー密輸)が発覚した。前大統領本人が黒幕とわかり、これをきっかけに、プラブシッチ女史はカラジッチ氏と決別。セルビア人陣営を二つに分けた、激しい抗争がはじまった。
 一枚岩と思われていたセルビア人勢力の内部分裂を利用するタイミングで、NATOの戦犯容疑者急襲が実行された。
 プラブシッチ現大統領は当時、「一方的な行動」とNATO軍を一応批判して見せた。しかし、現在ではカラジッチ派のしかけた盗聴器を発見してもらったり、暗殺やテロ攻撃に備えてNATO軍部隊が大統領の身辺警護をおこなうなど、NATOと「相互利用」の関係にある。
 セルビア人陣営の内部抗争は、路線の違いよりは権力闘争の色彩が強い。プラブシッチ大統領じしん、もともと強硬なセルビア民族主義者で、必ずしも「西側寄り」ではない。だが、NATO側から見れば、カラジッチ氏より「協力的」なのも事実だ。
 大統領はカラジッチ氏の影響力を断ち切るため、大統領官邸などの首都機能を、パレから北部のバニャルーカに移転した。しかし、行政機構のほとんどはカラジッチ派が握ったままだ。
 議会もカラジッチ派が多数で、七月には「首都をパレに戻せ」と、非難決議を採択した。大統領はただちに解散・総選挙を命じたが、カラジッチ派が牛耳る最高裁は今月、議会解散の大統領令は違憲との裁定を下した。内閣も大統領との協力を拒否するなど、大統領派の旗色は悪く、対立抗争はカラジッチ派優位で推移してきた。
 九月十三日に市町村選挙の投票を控え、大統領派はNATO軍を後ろ盾にしながら、巻き返しをはかっている。
 八月下旬、NATO軍がカラジッチ派の警察署を捜索し、大量の武器を押収した。これに歩調を合わせるように、大統領派はバニャルーカのテレビ局を占拠し、独自の放送を開始した。これまでカラジッチ派に独占されてきたテレビ放送で、領土の北半分だけとはいえ、独自の宣伝が可能になった。
 パレ・テレビ(カラジッチ派)は最近、モノクロでNATO軍とヒトラーのドイツ軍の映像を重ねる番組を放送した。「NATO軍=占領軍」とのキャンペーンだ。大統領派のテレビ局はこの番組の放送を拒否した。
 セルビア人の内紛を横目に、米軍が四千人の部隊を増強するなど、NATO側はカラジッチ氏逮捕の「Xデー」をにらんでいる。
 しかし、市町村選挙前に逮捕に踏み切った場合、これまで三回延期されてきた市町村選挙は、またまた実施できなくなる可能性が大きい。セルビア人陣営の内紛を「漁夫の利」と、むりやり突っ走れば、大規模な暴動や新たな武力衝突に発展する危険もある。
(ちだ ぜん・ジャーナリスト)

 (後日談)この原稿執筆後、アメリカの戦争犯罪容疑者逮捕作戦は、8月末のブルチコ、ビエリナ両市での、NATO軍(アメリカ軍)と地元住民(カラジッチ派)の衝突で、大きく後退した模様。積極派の国務省にたいし、消極派の国防総省が「意外にカラジッチ派の影響力は強く、プラブシッチ派はそれほど強くない。カラジッチを逮捕・拘束したら、大変なことになる」との論陣を張る材料にした結果、とりあえずカラジッチ逮捕は先送りにするという方向で、消極派が勝利したらしい。オルブライト国務長官は、中東訪問にかかりきりになっているし、ボスニアのNATO軍(アメリカ軍)は、選挙中も大きな動きは見せなかった。
 まあ、ブルチコの衝突の目撃者によると、アメリカ兵が群衆を挑発するように、最初に殴りかかり、それをきっかけに投石がはじまった、というから、ペンタゴンによる「ヤラセ」のにおいがプンプンしていると、わたしは鼻をつまんで、眉にツバをつけているのだけれど、確証はない。  でも、選挙管理要員で現場にいたわれわれにとっては、下手に動かれて、それこそ「人質」(実際に93年、94年に何回か発生した事件です)にならなくて済んで、ほっとしているのも事実だけれど・・・(9月24日・千田)


[メニュー]   [自己紹介]   [最近のボスニア]   [論文]   [リンク]