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堂士は土師家には戻らなかった。心葉との別れは、あの時に終わっていた。だから、もう挨拶の必要はないのだ。心葉もそれを判っていると、堂士は知っていた。
目的もなく堂士は車を走らせた。どこに向かうのか、それは今は判らない。ただ、走らせる。
夜が明けて、その朝、堂士は一人であった。そして再び、会うはずのない人に出会った。もう、二度と再び会うことがないと思っていた人にである。
夏がそろそろ終わりかけて、朝夕に秋の気配が漂ってきた頃。今はそんな季節であった。間もなく、かの人が好きだった秋が確実にやってくる。そして、堂士も秋が好きだった。
車を走らせてやってきたのは、当麻家の屋敷跡であった。この前も思ったが、今度は確実に二度とここに来ることはないだろう。堂士はそう思いながら、ぼうっと木々を見つめていた。そして、ここで再び人に会うとは思っていなかった。
どのくらいそこで立ち尽くしていただろうか。車のエンジン音に気づいて、堂士はハッと我に返った。近づく車の音に、堂士はそれを見る前に誰が来たのかが判った。
「再び、ここで会うなんて、不思議ですね」
堂士が車から下りてきた彼を見つめて微笑んだ。堂士の叔父、芳宜の姿がそこにあった。芳宜が微笑んで、
「そうですね、堂士さん。でも、互いに会うのが当たり前だと思いませんでしたか」
と言う。堂士が芳宜のすぐ側に立ち止まった。
「堂士さんが何故、東京へ再び現れたのか、その理由が私には判ったような気がします」
「え」
と堂士が芳宜を驚いた顔で見つめた。
「葵が亡くなりました。昨夜、事故で即死でした。居眠り運転のトラックが、対向車線に突っ込んできたのです」
「葵さんが?」
堂士は目を伏せて、呟いた。事故? そうではない。そのことを知っている堂士であった。葵は自殺をしたのだ。菁と同じように、そして、菁とは違う理由で。そして、二人とも同じ気持ちを心の奥に残して。それを芳宜は何も知らないのだ。
「私にとって、葵は何よりも大切にしたい人でした。葵にとって、私は諸見兄さんの代わりでしかなかったのかもしれません。ですが、私はそれでも良かったのです。葵がずっと諸見兄さんのことを忘れないでいても、私はそれでも構わなかった。私にとって、葵がずっと側にいてくれることが幸せでした。彼女の微笑みが、私の救いでした。結婚して5年になりますが、彼女のたった一つの望みだけは叶えてあげることが出来なかった。それが、一番哀しいと思っています。葵は、子供を本当に望んでいましたから」
堂士は芳宜が喋るのを黙って聞いていた。これは誰に対して言っているのか。もしかして、自分の兄に向かって言っているのかもしれない、と堂士は思った。芳宜は、堂士を諸見と重ねて見ているのか。
「検査に行ったのです。子供が出来ないのは、私に原因があるかもしれないと思ったから。その診断結果が昨夜、葵の出ていった後に判りました」
そう言って、芳宜は空を見上げた。どこまでも青い空が拡がっている。木々の緑が、青い空に向かって懸命にその手を伸ばしているかのようであった。
「私たちには、子供が授からないのです。私にも、葵にもそれが無理でした。それが診断結果。もし、葵がこの診断結果を知ってから亡くなったとしたら、私は彼女が自殺したと思ったでしょう。それほどに、葵は子供を欲していましたから。私も子供は欲しかった。私に当麻の血が流れていることを別にすれば、葵との子供が欲しかったのです」
ああ、そうなのだ。芳宜に《力》がないとはいえ、彼に当麻の血が流れていることは確かなことであった。それだから、葵は芳宜の子供が欲しかったのだろうか。波豆と当麻の血を併せることによって、彼らの子供に11代波豆を継がせる。それが、葵の夢だったのだろうか。堂士は芳宜を見つめたままそんなことを思っていた。芳宜は、決して葵の本性を知らない。いや、葵の本性とはどんなものなのだ。葵の心の奥のあの姿が葵の本性なのか。芳宜に見せていた、芳宜が愛した葵が彼女の本性だったのか。それとも、堂士に対した葵が本性なのか。
「芳宜さん、葵さんはあなたを愛していましたよ。彼女が諸見を思っていたとは別に、葵さんはあなたの優しさに包まれることに幸せを感じていたのです。芳宜さん、あなたの言った通りだと思います。私が何故、東京へ出てきたのか。父は、葵さんを伴侶として愛することは出来なかった。それは母と出会ったから。でも、父は死ぬまでずっと葵さんのことを忘れることは出来ませんでした。彼女が自分の意志で諸見を拒否してくれなかったから、ずっと葵さんに対して負い目を背負っていたのです。あなたが葵さんに対して負い目を感じていたのと同じように。芳宜さん、私は葵さんに出会わなければならなかったのです。父の代わりは5年前に、そして私自身が今」
芳宜が優しく微笑んだ。
「判っています。そして、葵が死んだことを私はいつまでも嘆きはしません。私はずっと葵のことを忘れないでしょうから。そして、私が忘れないから、葵は私のことを覚えているのです」
芳宜の強さは、堂士にない強さ。そして、諸見にもなかった強さ。堂士はそれが羨ましいと感じた。芳宜が違う意味で、諸見や堂士をそう思っていたと同じように。
「芳宜さん」
と堂士は芳宜に呼び掛けた。芳宜が堂士をジッと見つめる。夕暮れに近づいて、風が少しひんやりとしてきた。
これ以上何を話せばいいのだろう。堂士と芳宜は、甥と叔父との関係でいたことはない。彼らに血の繋がりがあることが信じられない。5年前まで芳宜は堂士の存在を全く知らず、知ってからも会ったのは、今日で四度目。ただ、芳宜にとって、堂士が尊敬し続けた兄に似てきていることが救いであり、そして苦しみであった。芳宜は諸見を尊敬し、崇拝していたからこそ、諸見が出ていったことに対してそれ相当の憎しみを感じざるを得なかった。それを考えると、粃よりも芳宜のほうが諸見を憎んだと言っても正しいのだ。堂士はそれに気づいていた。だから何も言わない。芳宜の心の奥をえぐりだすことなど、堂士には出来なかった。それは、自分をも傷つけてしまうから。
「堂士さん、ここはこのまま残しておくことにしました。ここは自然に任せましょう。ここは当麻家の墓地ですからね。いつか、私もあなたも土に還る時、ここで再び出会いましょう。代々の当麻たちとそして、代々の当麻を支えた人たちに。堂士さん、それでよろしいですね」
「私は、あなたにすべてをお譲りしました。そして、その考えを聞いて、あなたが本当にすばらしい方だということが判りました。芳宜さん、やはり、当麻は終わりなのですね。そしてあなたが子孫を残せないことを、私は残念に思います。あなたのような強さがあれば、きっと、もっと当麻は早くになくなっていたでしょう」
芳宜がにこっと笑った。
「私の子孫は残ります。もちろん、私の血は引いていませんが、私の子供たちは新しい世の中を作っていくでしょう。当麻を名乗ることなく、寒河家の直系として、彼らは次の世界に生きるのです」
芳宜の差し出す手を堂士はギュッと握った。二人の手は互いに温かい。それが互いに感じられて、芳宜は堂士を抱き締めた。
「堂士さん、すみません」
と芳宜は言った。
「芳宜さん、何故謝るのですか」
そう言った堂士は、驚いた顔で芳宜を見つめた。胸に突き刺さる鋭い痛み、それは現実のものであった。芳宜は首を振る。堂士は芳宜を見つめて、そして何も言わずに、その手を芳宜の手に重ねて力を込めた。
「堂士さん、何故?」
芳宜が思わずその手を緩めた。
「芳宜さん、何も言わないでください。何も言わずに、ここから立ち去ってください。私はここであなたとお別れするのですから。何故、と聞かないでください。そして、あなたにも何故、とは聞きません。あなたの気持ちは私には判るはずですから。私には判らなければならないのですから。これでいいのですよ、芳宜さん。あなたは間違ったことをしていないのです。それは確かなことです。あなたは正しいことをしたのです。あなたは正しい……」
堂士が少しよろめいた。芳宜が顔色を変えて堂士に近寄ろうとした。
「芳宜さん、さあ、あなたは帰るのです。寒河家に帰らなければならないのです。あなたのいる場所は、そこなのですから」
堂士にしては厳しい表情で言う。芳宜はひるんだように立ち竦んだ。そして自分の車のほうへ向かう。だがくるりと振り返ると、堂士を見つめた。
「諸見兄さん、あなたが好きでした。あなたが当麻家を出ていく前も、出ていった後も、その気持ちは変わりません。私が好きだった兄さんに、最後に会えて本当に良かった。私は幸せです。これで諸見兄さんの亡霊に悩まされずにすみます。私はやっと解放されたのです。あなたから……」
芳宜は涙を流しながら、堂士を見つめていた。だが、堂士を見つめているのではない。彼は、自分の兄、諸見を見つめているのだ。それを堂士に重ねて告白している。堂士には芳宜を責めることが出来ない。すべては、諸見の蒔いた種ではないか。それを自分が背負うのは当たり前なのだと。
諸見の弱さがこの現実を作り上げたのだ。それをすべて自分が背負っていこう。芳宜はこれで確かに解放されたのだ。自分の前に立ち塞がっていた兄、諸見の壁が取り除かれたのだ。きっと、芳宜は新しい系図を始める。当麻の血も波豆の血も引いていない、ごく普通の家庭を作り、そしてそれを子孫に託すだろう。芳宜にはそれがやれるだけの強さがある。諸見にそれがあれば、ここに堂士がいることもなかったのだ。
「兄さん、さようなら。もう二度と会うことがないのですね」
芳宜はその顔に優しい笑顔を浮かべていた。そして、車に乗り込んで走り去った。
とたんに堂士はガクッと膝を折った。ナチュラルストーンのシャツが鮮血で染まっていた。そして、止めどなくまだ血が流れ続けているのだ。
「これで、いいのです。きっと、これで……」
堂士は呟いていた。そして血に染まったシャツを見つめて、
「どんなにその血が濁っていようとも、流れ出る血は綺麗な赤なのですね」
と言った。自分はもう助からないのだ、と堂士は思った。自分にはその気がないし、こんなところに誰も来るわけはない。そして、それを自分は望んでいないのだから。
「菖蒲、やっとお前のところにいけそうですね」
堂士が微笑む。その微笑みをたった一人の人のためだけに向けていたかった。それが叶っていたなら、こんな生き方はしていなかっただろうに。そう思って、堂士はクスリと笑った。こんな感傷に浸るなんて、そんなに自分はセンチメンタルだっただろうか。
「菖蒲、私はもうお前のもとへ行ってもいいのですよね。私はお前に会えることが本当に嬉しいです。私を呼んでくれたのですよね」
堂士は薄れゆく意識の中で菖蒲の姿を夢に見た。菖蒲が堂士に向かって微笑んでいる。だが、何も言わない。ただ、堂士を黙って見つめているだけであった。そして、堂士の意識が失われた。
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