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夜の海は暗くて何も見えないのに、月の光で時折波しぶきが白く光る。それが時に不気味に思える。だが、葵はその波間を見つめるのが好きだった。そして、今夜も海を見つめていた。崖の上に一人立って、白いワンピースが風に揺れる。大きなつばの白い帽子を飛ばないように手で押さえていて。
葵はふと後ろを向いた。自動車のヘッドライトがこちらに向かってきている。それを見つめて、葵はまた海に視線を戻した。
車は葵の車の側に止まると、ガチャッとドアが開いた。
「葵さん」
と声が呼ぶ。すでに、葵はそれが誰なのか判っていた。だからといって、それに応えなければならないわけではない。
「葵さん」
再び声が近づきながら呼んだ。葵はくるりと振り向いた。帽子を押さえていた手が離れて、白い帽子が風に飛んでいった。
「何故、ここに来たのですか、あなた方は。私を笑いに来たのですか? 13代当麻と20代邑楽の娘よ」
葵が笑いながら言う。13代当麻の堂士と20代邑楽の娘の澤荼は立ち止まって葵を見つめた。
「もう止めましょう、葵さん。当麻も邑楽も、そして波豆も、そんなものから自分を解き放ちましょう。あなたはあなた自身のために、今の人生を生きることをすればいいのです。四百年前の亡霊から、あなた自身を解き放ってください。確かに、その時の当麻と邑楽は、波豆を陥れたでしょう。ですが、その復讐は終わったでしょう。当麻も邑楽も子孫を残さない。それは断言出来ることです。波豆を脅かすものなどもう何もないのです。だから葵さん、もう、こだわるのは止めてください」
葵はクスリと笑った。
「そうですね、永久に栄えるなど不可能なこと。常磐の時などあり得ない。だからこそ、私はすべてをこの手で掴みたかったのです。私にはそれが可能だと思っていました。当麻や邑楽を消滅させることも、私の手を汚さずとも可能だった。それなのに、最後に私を脅かすモノが出てくるなんて。画竜点睛を欠くとはこのことですね」
「葵さん、それは違います。あなたの本当の姿を私は知っています。夢の中で出会った、とても優しい方でした。あなたはそれに気づいていないのです。ただ、芳宜さんは気づいておられたようですね。芳宜さんが知っているあなたは、あなたの本当の姿。あなたの私たちに対する姿を、彼は知ることがない。それは何故ですか。あなたは、芳宜さんにその姿を見せなかったのは何故ですか」
葵が風に長い髪を揺らしていた。
「あなたは5年前よりずっと、諸見さんに似てきましたね。その瞳を見ていると、諸見さんに見つめられているような気がします。私は諸見さんが怖かった。諸見さんのその瞳に、真実を見透かされているような気がして怖かったのです。きっと、諸見さんは私の正体など知っていたに違いありません。諸見さんが当麻家を出ていって、私はホッとしました。私が一番喜んでいたでしょうね。芳宜さんならば、少しも怖くありませんでしたから」
堂士が葵のすぐ側に立って、澤荼はその隣に立っていた。
「父は、諸見は何も気づいてはいなかったのに。父はあなたに対して、負い目しか感じていなかったのに」
堂士はポツリと呟いた。葵は笑う。
「もう、どうでもいいことですわ。私はもう決めたのですから」
「葵さん」
と堂士は葵の腕を掴んだ。葵が冷たく笑う。
「離してください。私は行かなければ。私を待っている人のところに」
「あなたを待っているのは芳宜さんですよ。波豆ではなく、あなただけを愛している、あなたの夫のところに帰るのです」
堂士が葵の腕を掴んでいた手に力を込めた。葵がそれを振り切ろうとはせず、堂士を見つめた。
「芳宜さんは本当に優しい方です。あの人に抱かれると、何もかも忘れてしまうような錯覚に陥ります」
葵の手が自分の腕を掴んでいる堂士の手に重ねられた。
「先程、最後の夢見をしましたわ。当麻も邑楽も子孫を残さないのは判っています。でも波豆も、私で終わりですわ。私も子孫を残せません」
その言葉に、堂士は葵の腕を掴んでいた手の力を緩めた。間髪入れず、葵が堂士を振り切って、自分の車に走り込む。
「葵さん」
急いで堂士は車に駆け寄った。葵が窓ガラスを開けて、
「堂士さん、それが四百年前の亡霊に憑かれたためでも、私にはこの生き方しか出来ません。あなたが、当麻の血を自分の代で消滅させようとするのと、同じ理由ではありませんか。だから、私を止めないでください。姉が、菁が、当麻柊の姿を心の奥にずっと残していたことを、私は何故か理由が判ります。私が諸見さんの姿をずっと覚えているように。そして、諸見さんの姿をまた見ることが出来たことを……」
と言いかけて、アクセルを踏み込んだ。瞬く間に葵の車は二人の前から走り去る。
「堂士お兄様」
澤荼が堂士に駆け寄った。
「堂士お兄様?」
黙ったままの堂士を訝しげに澤荼は見上げて、そして堂士を抱き締めた。
「泣かないで。泣かないで、堂士お兄様」
堂士の涙が、澤荼の頬にポツリと落ちた。
「澤荼、4歳の君にこんなことを言うのはおかしいけど、人間とはどんなに愚かにしか生きられないのでしょうね」
澤荼の小さな腕は堂士の両足を包むことが出来ない。だけど、澤荼は精一杯腕を伸ばして、堂士を抱き締めていた。その頭を堂士がそっと撫でた。
「澤荼、ありがとう。君がいたから、私は……」
澤荼が顔を上げると、堂士が微笑んだ。
「送りましょう、澤荼。ベッドを抜け出したことに、祥吾さんたちが気づかないうちに。そして、今度こそお別れですね、澤荼」
澤荼は堂士から離れて頷いた。
「堂士お兄様、常磐の時など存在しません。私が、この《力》を使ったとしたら、あなたはどう思いますか。もう、私はこの《力》を忌避することはないでしょう。今は、これを使いたいとは思わない。でも、将来もし使いたくなったら……堂士お兄様は、私の生き方を否定しますか」
堂士は黙って澤荼を見つめた。しばらく、そのまま二人とも黙って見つめ合っていた。やがて、堂士が小さな澤荼をそっと抱き抱えて、車の助手席に座らせた。
「澤荼、私は」
と堂士が言いかけたのは、もう邑楽家まで数分のところであった。
「私は葵さんも否定しないし、澤荼のことも否定しない。そう、常磐の時などあり得ないのだから。誰もが自分の生き方さえも否定出来ないのです」
堂士は車を止めた。澤荼が堂士の右手をそっと握って、何も言わずに外に出てそのまま走り去った。堂士は澤荼を見送ることなく、車を発進させた。
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