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邑楽祥吾と真裕美が、澤荼を伴って日本に帰ってきたのは、2ヶ月のバカンスのためだった。そしてまもなくそれも終わろうとしていた。
そして今日は、御母衣家で行われる花火の宴に三人で出席していた。御母衣家は祥吾の祖父の妹が嫁いだ家である。今の当主は、その息子である明彦で、彼の子供たちはこの数年のうちにどちらも所帯を持っていた。
広い御母衣家の庭の一角から時折花火が打ち上げられて、夜の帳を明るく照らす。
澤荼は祥吾たちから離れて、一人庭を散策していた。日本に帰ってきて間もなく、一度、御母衣家を訪れていた。その時は挨拶だけだったので、ほとんど御母衣家の中を見なかった。だから、今日は歩き回ってやろうと思ったのだ。
夜といっても、所々に街灯がつけられている。門から玄関までが遠い御母衣家では、それが必要なのだ。そして、花火の光で迷うことはなかった。
人々のざわめきが聞こえなくなり、時折花火の音が響いていた。澤荼は一人、立ち止まっていた。街灯がポツンと立っていて、朧気な光で道を照らしていた。
澤荼はジッとその向こうの闇を見つめていた。何かがそこにいた。それに気づいて、澤荼は立ち止まったのだ。
「本物ね、あなたは」
闇の中から声が響いた。澤荼が顔をこわばらせる。その声には覚えがある。コツコツとハイヒールの音が近づいて、街灯の光の中に一人の女が現れた。
「やだ、来ないで」
澤荼が首を振った。夢見に出てきたあの女の人だ。澤荼を苦しめているあの女の人だ。光を受けて女の顔が見える。そして、その長い髪がふわっと揺れた。
「私は寒河葵、そして、10代波豆の葵」
葵がそう言って冷たく笑った。澤荼は激しく首を振る。
「私を苦しめないで。私は何もしないのに。何もしないのに」
「そう、四百年も昔に、波豆もそう言ったのでしょう。でも、波豆は滅ぼされかけた。それが誰によってなのか」
葵の冷たい微笑みが、澤荼を見つめる。澤荼は涙を溢れさせた。
「あなたに夢見の《力》があるのが悪いのです。それが大きいものだから悪いのです。私が気づかないほど小さいものならば、良かったのにね」
葵はクスリと笑う。
「それは、私のせいじゃないわ。私は、私は別に夢見などしたくないもの」
葵がクスクスと笑った。
「そうね、そうかもしれないわ。あなたは今、そんなことを思うことなどないでしょう。邑楽の血を引いているあなたに、波豆のその辛さは判らないでしょうから。邑楽も当麻も、波豆のことなど何一つ子孫に受け継がさなかったのですから。判るわけはないですよね。それにあなたはまだ子供だから。でも、だからと言って、私はこの手を緩めないわ。私は波豆であって、私がここに来た目的はあなたを殺すためなのですからね」
葵は澤荼を見つめて微笑んだ。
「あなたの《力》は本当に大きいわね。それを自由に使うことが出来れば、私など恐れることなどないでしょうに。大丈夫、あなたの苦しみをすべて取り除いてあげるわ」
「お姉様、私の夢見の《力》をあげるから、すべてあげるから、だから、私を殺そうとするのは止めて。私にこの《力》があるから、お姉様は私を殺そうとするのでしょう。だから、私の《力》をすべてあげます。私はこの《力》など欲しくないから」
澤荼が泣きながらそう叫んだ。葵の表情に興味深げなものが浮かんだ。澤荼の夢見の《力》が大きいことは葵には判る。その《力》が自分のものになるとすると、自分の邪魔をする者などいなくなるだろう。波豆に対抗出来る者などいなくなるのだ。その時こそが、葵が本当に波豆を名乗る時なのだ。
「その申し出、受けましょう。邑楽家最後の夢見のお嬢様?」
澤荼がホッとして少し表情を緩めた。
「じゃあ、お姉様、早いほうがいいでしょう」
と澤荼が葵の右手を握った。
「手伝ってくださいね、お姉様、私はまだ《力》の使い方が上手くありませんから」
とたんに、葵は自分の中に《力》が流れ込むのを感じた。
「すばらしいわ」
と葵は呟く。みるみるうちに自分に今までにない《力》が現れてくるのを感じた。葵はその強さに高揚してきた。自分はこれで、完全に波豆を名乗ることが出来る。これで、四百年の間、波豆の因子の中で受け継がれ続けたすべてが叶うのだ。そして自分は解放される……何から?
「では、その前にやはり露払いは必要ですね」
葵の冷たい微笑みが再びその顔に浮かぶ。澤荼が何気なく見た時、その顔に夜叉の面を見つけた。
「お、お姉様?」
「あなたに姉と呼んでもらいたくありませんね。私は今から波豆を名乗り、その最初の目的を果たすのです。当麻と邑楽を完全に消滅させることを」
葵の冷たい両手が、澤荼の細い首を掴んだ。ただ掴んだだけで、締めつけてはいない。それでも、澤荼は苦しくてたまらなかった。
「邑楽の夢見よ、お別れですね。淋しくなどないように、邑楽も当麻もすぐに後を追わせますから。大丈夫ですよ」
葵はにっこりと微笑んだ。そして、その手に《気》を溜めようとした。
「ああ!」
といきなり、葵は澤荼を突き飛ばす。澤荼は理由が判らずに転がって、そして葵のほうを見た。葵は両腕で自分の体を抱き締めていた。その顔は歪み、どれだけ苦しんでいるのかそれだけで判った。そして、澤荼にはその理由が判ったのだ。
澤荼はスッと葵の額に右手を当てた。その手のひらがボウッと白く輝く。葵の苦しみがたんだんとおさまって、やがてすべてなくなった。
澤荼は黙って葵を見つめている。その顔に哀しそうな表情を浮かべて。葵が澤荼を見つめて、そして睨みつけた。
「許さない、許さない」
葵は立ち上がって叫んだ。澤荼も立ち上がって、首を振った。
「もう、止めましょう。判っているはずです、お姉様、もう無駄だということが……」
葵の拳がぶるぶると震えていた。澤荼の言っていることは判っている。そう、自分にも判っている。何故、あんなに苦しんだのか。その理由が。
澤荼の《力》は、葵とは比べ物にならないほど大きかった。そして、葵にはそれをすべて受け入れるだけの器がなかったのだ。葵には葵の《力》だけしか支えることが出来ない。それに気づいたのだ。澤荼がその《力》を葵から逃がさなければ、葵はこの場で消滅していた。葵は澤荼に助けられたのだ。
「お姉様、お姉様の《力》も大きいものですわ。だから、もう構わないでください。私はまもなく日本を去ります。私の家は海の向こうですから。だから、この国のことは私には関係ないのですわ」
葵は首を振った。そしてその目を澤荼の後ろに転じた。澤荼がつられて後ろを向いた。
「堂士お兄様?」
そこに現れたのは堂士であった。
「葵さん、澤荼の言う通りです。邑楽も当麻もあなたの邪魔などしません。そして、どちらももう私たちの代で終わるのです」
堂士が澤荼のすぐ後ろで立ち止まった。葵がゆっくりと後ろに下がる。
「夢見の通りだわ。夢見の通りに、あなたが現れた。そしてその後は?」
葵がくるりと背を向けて走り出す。
「葵さん」
堂士の叫びを背にして、ハイヒールの高い靴音が遠去かっていった。
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