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 葵は深い眠りについていた。そして夢を見ている。未来の夢ではなく、過去の夢だ。それは、菁の夢であった。そして波豆の夢だ。
 夢の中で、葵は菁であった。この世界では出会うことのなかった姉妹である。葵は菁自身であった。それは、菁がそう望んだからであり、葵がそれを受け取ったからである。
 菁の前に車が突っ込んでくる。それを菁は微笑んで見つめていた。菁は自らを殺すのだ。自分の手を汚してはいない。だが、その車を操ったことを考えると、菁は自殺したとも言える。
「さあ、私はあなたにすべてを託します。この世では決して会えない、私の妹、葵、あなたに、波豆のすべてを託します。それをあなたは受け取ってくれるでしょう。そして、波豆の願いを叶えてくれるでしょう」
 褐色のリボンが風に揺れていた。
「私は待っています。あなたに出会える日を。いつか、楽しみにしています」
 菁の言葉を葵は菁の中で受け取る。そして、菁の心の奥の思いにも気づくのだ。
(あれは誰?)
 葵は菁の心の奥にいる人の姿に気づいた。それは菁よりも少し年下の男の子であった。柔らかな微笑みを浮かべている。その姿を菁の心に見つけて、葵は涙を流していた。菁は彼に恋していた。それを自分では気づかなかった。そして、彼も菁に恋していた。それは決して伝えられなかった二人の思い。それに葵は気づいて、涙を流していた。
(姉様、あなたは波豆として生きてきたのですね。その心の奥の気持ちを気づかないまま。そして、彼もそうなのですね)
 葵の体がホウッと暖かくなった。何か、優しい《気》に包まれたようなそんな感じであった。葵はそれが心地良い。何もかも忘れるように感じた。波豆のことも、何もかも。
(葵、あなたは波豆を継いだのよ。私が成せなかった波豆の再建を、あなたはしなければならない)
 菁の言葉が葵を現実に戻した。夢の中の現実に。それとともに、優しい《気》が苦しく感じた。葵は身悶える。そして、夢から覚めるのだ。
 葵は右手で額の汗を拭おうとして、ギョッと目を開ける。葵の右手を誰かが握っていた。
「だ、誰?」
 葵は振り払うように右手をそれから外す。
「葵さん、こんなことであなたに再び出会うとは思いませんでしたよ」
 彼はそう言って立ち上がった。葵が目を見張って彼を見上げる。
「まさか、当麻……」
 葵のいつもの優しい微笑みが浮かばない。葵の強張った表情に、彼は哀しげな表情を浮かべた。
「お久しぶりですね、葵さん。確かに私は当麻。ですが、私は当麻堂士として生きています。だから、出来れば堂士と呼んでください」
 葵は起き上がってなるべく堂士から遠去かろうとした。
「葵さん、何故、あなたの夢に柊が出てくるのですか。そして、彼女は誰ですか」
 葵はゆっくりと気を落ち着けて、そして、やっと口を開いた。
「判ったわ。あれが誰なのか。あなただったのね、当麻」
 葵の言葉に、堂士は顔を曇らせた。葵はもう自分のことを、鳶尾とも堂士とも呼ぶことがないのではないか。
「あなたは当麻を継いだが、そのすべての権利を拒否したはず。では、何故、私の前に現れるのです。何故、私の邪魔をしようとするのです」
「葵さん、私は別にあなたの邪魔をしようと思っているわけではありません。今は、ただ真実を知りたいだけです。あなたが本当は何者なのか、あなたの夢の中に出てきていた彼らとの関係はどんなものなのか、今はそれを知りたいだけです」
 葵はようやく強張った表情を消していた。そして、今は冷たい眼差しで堂士を見つめている。
「私は波豆、そして、菁は私の姉ですわ、当麻。そして、菁が心の奥に思い続けているのは、当麻傍系の柊(ひいらぎ)、彼のことはあなたは知っているわけですね。菁は私自身であり、菁が出会ったのが当麻傍系、そして、私が出会ったのが当麻本家。私たちは当麻に出会うためにこの世に生まれたのですわ。その意味は、波豆の再建と、波豆を陥れた当麻と邑楽への復讐……」
 そう言って葵は高らかに笑った。堂士が哀しげに葵を見つめる。
「かつて、波豆がされたことを、今度は波豆が当麻にしただけのこと。あなたが当麻を本当に名乗らないことが判ったから、私はあなたを放っておいただけ。もし、私の邪魔をするのならば、今度は容赦しません。私が新しい要となった裏の世界を自由に使って、あなたを消します」
 堂士は首を振った。
「葵さん、私は当麻を名乗りはしない。それは私の名ですが、本当に名乗ることはないでしょう。これは私の本音です。だから、裏の世界のことも興味がありませんよ。そうですか、やはり、あなたが復讐のために5年前のことを計画したのですね」
 葵は笑った。その冷たさに堂士は身震いした。きっと、芳宜は葵の本性を知らないのだ。いや、どちらが葵の本性なのか。それをふと、堂士は思った。でも、どちらにしてもそれで芳宜は幸せなのだろう。寒河姓を名乗っていると言っていた芳宜の、あの幸せそうな顔を思い出して、堂士は胸が痛くなった。葵に対して。
「葵さん、あなたは本当は優しい人なのに……」
 堂士の呟くような言葉に、葵は口元を歪めた。堂士は窓のほうへと葵から遠去かる。葵の視線がそれをずっと追っていた。
「葵さん、あなたの夢見に出てくる女の子は、あなたの邪魔をする気はありませんよ。だから、彼女に構わないでください。彼女はたった4歳の子供で、そして普通の女の子なのです。お願いです、葵さん、彼女を苦しめないでください」
 ベランダから葵を見つめて堂士は言った。葵が冷たく笑う。
「私はかつて、当麻がやったように、裏の世界に君臨するのです。当麻がどうやってその地位を守ってきたか、何をやってきたのか、私の口から言わせたいのですか、13代当麻?」
 堂士は首を振る。
「その問答を今、あなたとするつもりはありません。葵さん、あなたは当麻になりたかったのですか。あなたご自身の意志はどこにあるのですか」
 葵がすっと堂士に近づく。
「私は波豆。四百年の長きに渡って、因子を守り続け、そして、私に覚醒した意味に、他に理由などありません」
 そう言って葵は堂士の首を掴んだ。ひんやりとしたその手の冷たさを、堂士はその手が離れた後も忘れることがなかった。
 堂士は何も言わずに、ベランダから飛び降りる。そして外へと向かう堂士を、葵は冷やかに見つめていた。
(澤荼の夢に出てきたのは、やはり、葵さんだったのか……)
 それを確信して堂士は暗い気持ちになった。葵の夢の中に入って、彼女の夢を見た。菁という彼女の姉には、堂士は覚えがない。だが、菁の心の奥の男の子には見覚えがあった。会ったのは一瞬、だが、諸見の記憶の中のその数分と同じ顔がそこにあったから。当麻柊、当麻傍系の最後の人。そして、自分が人を殺した初めての時。
 菁の心の奥の気持ちを葵が気づいたように、堂士も気づくことが出来た。菁が柊を愛していたことに。そのことに、菁が気づいていなかったことにも。そして、その時の葵の優しい気持ちを、堂士は感じていた。葵の本当の心は、そんな夢の中だけに現れるのではないか、と堂士は思った。それが確かだとは判らない。だが、堂士はそう思った。そして、それが哀しかったのだ。
(彼女は犠牲者なのだ、四百年も前に死んだ亡霊の)
 葵の言ったことは正しいのだろう。堂士には波豆の名の記憶がない。それは、当麻がそれを受け継がさなかったからであるが、だが、その時の当麻が波豆を消滅させようとしたのは確かなことだと堂士は思っていた。当麻の地位を揺るがさないように、そのために、いったいどれだけの犠牲を払ってきたのだろうか。それは聞かずとも判る。犠牲は、当麻にはない。権力抗争の中で、当麻は自分の手を汚さずに、要として君臨し続けたのだ。そして、葵はそれを求めているのだ。おそらく波豆の意志によって。
 堂士は月を見上げた。月は何も言わずに、ジッと堂士を見つめているようであった。堂士も何も言わずに、月を見つめ続けていた。
 すべてを終わらせるのだ。それが一時のことであっても。自分の中で終わったことを認めることが出来たならば、それでよかった。未来に何が起ころうとも、それはもはや自分の手を離れているのだ。


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