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「ここには、いないわ」
澤荼は自分に割り当てられた部屋の中に一人であった。日本に帰ってきて、このところ毎夜同じ夢を見ていた。澤荼はその夢の息苦しさから助けてくれる人に会いたかった。だが、澤荼の前に現れなかった。
幼いながらも澤荼は、このことを両親に話してはいけないのだと判っていた。彼らには理解出来ないことだから。澤荼のその思いを判ってくれるのは、その人だけなのだと。
ふわっと風が動いた気がした。澤荼が窓のほうを見る。閉め切っていたはずの窓が開いて、そこに腰掛けている人がいた。月の光を背に受けて、逆光でその人の顔が澤荼には見えない。だが、澤荼はそれが誰だか判った。その人こそが、自分が待っていた人なのだと。
澤荼はゆっくりと窓に近づいた。近づくにつれて、その人の顔がはっきりと見えてくる。その整った美しさと、そして切ないまでに哀しげな表情が。
澤荼は心の奥に湧き出る感情を押し殺して、その人のすぐ側に立ち止まった。落ち着いて口を開こうと思ったが、口を開いたとたん、それは澤荼の感情をすべて吐き出してしまった。
「会いたかったの。お父様やお母様や他の誰にも言えなかったから。あなたしか、私を本当に知らないから。あなたに会いたかったの」
澤荼はポロポロと零れ落ちる涙を拭おうともせず、その場に立ち尽くしていた。その小さな澤荼を、大きな腕がそっと抱き抱えて、澤荼をベッドに座らせた。そして、自身はその前にひざまずく。
「澤荼、私も君に会いたかった。邑楽家最後の夢見に。私の名は堂士」
「堂士……堂士お兄様ね」
澤荼がくすんくすんとしゃくりあげながら少し笑った。そして円らな瞳で、堂士を見つめる。
「ずっと、待ってたの。あなたを待っていたの。あなただけを待っていたの」
再び澤荼の零れ始めた涙を、堂士はハンカチを取り出して拭った。
「私が、最後の夢見なのですね。もう、邑楽家には邑楽も夢見も現れない。そうなのですね」
澤荼は子供とは思えない表情で言った。堂士が頷いた。
「そう、澤荼が最後の夢見なのです。邑楽は祥吾さんで最後ですし、正確には違いますけどね」
「堂士お兄様、私のことを知ったのは、何故?」
堂士は澤荼の前に椅子を持ってきて座った。
「永覚さんが、君のお祖父様が澤荼のことを教えてくれたのです」
澤荼は堂士の言葉に、瞬きもせず堂士を見つめた。堂士が澤荼の頭をそっと撫でる。
「澤荼、私を夢見しましたか」
澤荼がコクンと頷いて、そして宙を見つめた。
「私の側に髪の長い女の人がいるの。その人には私が見えないの。とても綺麗な女の人なの。あの人は、きっと私が邪魔なのだわ。たぶん、邪魔なの。私は何もする気がないのに、あの人にとって私は、存在してはならないモノなの。そんな時、私はとっても息苦しくて、どうしようもなくて、そしたら、あなたが側にいるの。いつの間にか、私の側にいて、すると私の気持ちが落ち着くの。女の人はいつの間にか消えているの。堂士お兄様が出てくるのは、その時だけ。でも、これは予知夢なのね。他にもいろんな夢を見たわ。それがすべて現実に起こる。私の《力》は予知夢を見ることなの。それとも、それ以上の《力》があるの?」
澤荼は不安を隠せない表情で言った。
「当麻家には、夢見は決して現れません。だから、私には夢見の本当の《力》がどんなものなのか判りません。そして、今の邑楽も何も知らないし、私に澤荼のことを頼んだ永覚さんもその何足るかを、私に教えることは出来ないようです。澤荼、私は君に会うことしか出来ないのです。たぶん、そのことしか出来ないのです。あなたのお祖父様と私の父が約束した、今の邑楽のことを私がすべて終えることで、私と邑楽家との接点はなくなったはずでした。私は当麻家を捨てたのですから。これから起こる出来事は、私には関係のないことだったのですから。永覚さんとももう、お会いすることなどないはずでした」
澤荼が堂士の頬にその小さな手でそっと触れる。
「私が生まれたからなのですね。邑楽の直系の女子に必ず現れる夢見が出てきたから、堂士お兄様は私のお祖父様ともう一度会われた。会いたくないのに、会われたのですね。私のせいで、私さえ生まれなければ、堂士お兄様はあなたの人生を生きていかれた。私のせいで、堂士お兄様の運命を変えたのですね」
澤荼のそれを言いながら顔を引きつる姿に、堂士は思わず彼女を抱き締めていた。
「澤荼、駄目ですよ。自分はいらない人間なのだと思ったり、生まれてこなければ良かった、などと考えては。人は誰も、一人では生きていけません。つまりは、誰もが人の人生を左右する立場にいるのです。君だけではありません。私も、澤荼の夢に出てきた女の人も、みんな、お互いの人生を絡み合ってでないと生きていけないのです。だから澤荼、私にとって、君に会うことは必然であり、それが私の人生の一部なのです。それに私は菖蒲が、私の妹が死んでから、生きる目的を失っていました。それを君に会うことで、目的が出来たのです。判りますか、澤荼。私は君に会えて良かったと思っています。本当に、君に会いたかったのです。君が一人で生きることが出来るようになるまで、私が君を守ります」
澤荼がすがるような目で、堂士を見上げる。
「本当に」
優しく微笑んで、堂士はもう一度言った。澤荼が堂士の胸に顔を埋めた。
「良かった。あなたに会えて良かった。ずっとあなたに会いたかった」
堂士が澤荼の頭を撫でながら、表情を曇らす。あまりにも彼女は普通の女の子だ。彼女に夢見の《力》が備わっているということは、彼女にとっては重荷にしかならないだろう。その《力》が大きければ大きいほど。堂士は永覚の言葉を思い出す。
(何もしないで欲しい)
なるほど、と堂士は思った。確かに、澤荼にとってはそのほうが幸せであるかもしれない。そうとも言えるのだ。
「さあ、お休み、澤荼」
そう言って、堂士は澤荼を寝かせつけた。澤荼が堂士を見つめて微笑んで、目を閉じる。それを見つめて、堂士は立ち上がった。そして立ち去る。
自分が澤荼に会ったことは、許されることだったのだろうか。堂士はそれを考えていた。自分が何を成すべきか、あるいは、何を成さないべきか。
堂士は菖蒲のことを思い出していた。菖蒲の《力》は堂士よりも大きかった。だが、菖蒲にはそれを支えきれるほどの器はなかったのだ。だから、堂士は菖蒲の《力》を封印し、何も教えなかった。だが、封印は解かれ、菖蒲は《力》を出し切って死んでしまったのだ。
堂士は澤荼が菖蒲と重なって見えた。澤荼の夢見の《力》も大きいという。菖蒲と違うのは、澤荼にはその器があるということだ。ただ、今はその《力》の使い方が判らないだけなのだ。それだけに、堂士は澤荼のことが哀れであった。だが、それは彼女の運命なのだ。堂士にいったい何が出来るというのだろうか……。
「菖蒲……」
と呟く。それに応える人はいない。ただ、月の光が堂士を照らすだけであった。
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