◇◇
その日、諸見は一生の運転で、永覚に会いに行っていた。綾歌にも、粃の後妻である茅にも、明日、当麻家を出ていくと言った日であった。粃には、明日出ていく前に言うつもりであった。
永覚を乗せて、一生は車をゆっくりと走らせていた。それは、いつもの行動であり、二人の話が終わるまで、一生は二人の邪魔にならないようにしていたのだ。
「では、ついに家を出るのですか。本当にもう会えなくなってしまうのですね」
永覚の哀しそうな顔に、諸見は首を振った。
「逃げると取られても構いません。確かにその通りなのですから。私は、石蕗と子供たちをこの東京では、守りきれないでしょうから。だから、私はここから逃げだすのです。永覚さん、でも、あなたとの約束は守ります。私はまだ、子供たちにこの《力》を受け継がせるかどうかを決めていません。でも、あなたとの約束だけは、受け継がせることを約束しましょう。私とあなたとのたった一つの約束ですから。永覚さん、私の言うべき言葉ではないのですが、お元気で。もう、あなたとはこうして会うことが出来ないのが、哀しいことですが、あなたに会えたこの短い間は、とても楽しい時間でした。また、いつか、この先祖の確執がなくなった頃に、それが可能ならば、生まれ変わることがあるのならば、またお会いしましょう。私たちの代で確執をなくそうと言った私のほうから、それを撤回してしまうことを恥じています。でも、私たちの子供たちはそれをやり遂げるのではないかと、そう思っています。永覚さん、本当に短い間でしたけど、私たちの息子たちに、自慢出来るだけの友情の時を私たちは持ったと思いませんか。私はそう思って、封印のこと以外で、彼らが出会うことを願っています。ただ、一個の人間として」
永覚がそう言う諸見の手をギュッと握った。
「そう…ですね。本当に、そう願っています。俺もあなたともう一度出会いたい。こんな形ではなく、ただ一人の人として。あなたが逃げるなどと思いはしません。あなたは、あなたの家族を守らなければなりませんから。俺もその思いは一緒ですから」
「私たちの子供たちが出会うことのないように、と願うことは心苦しいことですが、本当にこんな背景がなければ、私たちのように友情を育むことが出来たでしょうね。永覚さん、お別れです」
一生が永覚を拾った場所に車を止めた。二人は外に出た。諸見の差し出す手を握るより、永覚はその体を抱き締めるほうを選んだ。ギュッと抱き締める永覚を、諸見は拒みはしなかった。その温かさが心地よかったからだ。
実際、諸見と永覚が一緒にいた時間は短い。それでも、彼らは友情というものを実感出来た。そういうものに、時の長さは関係ないのだ。だから、別れは辛い。そして、彼らの子供たちにも、彼らのような友情を育んで欲しかったのだ。
黙って、永覚は車から離れる。諸見はそれを見つめることなく車の中に戻った。諸見が何も言わないうちに、一生は車を発進させた。一生はサイドミラーに遠去かる永覚を見つめていた。諸見の姿をバックミラーに見なかったのは、諸見がそれを望んでいないことに気づいたからだ。永覚は振り返りもせず、その場から立ち去っていた。
「一生、まだ家に戻らないで」
諸見の言葉に一生は、
「判りました」
と言って車を走らせ続けた。
「一生、明日、私は当麻家を出ていく。お前を連れていきたいのは山々だが、私たちは当麻の目から逃れなければならないんだ。だから、一生……」
しばらくして、諸見が低く言う。
「諸見様、私は、あなたのために存在しているのです。諸見様の命令ならば、どのようなことであろうと従います。それは、以前にも言いましたね」
一生の口調には湿りけがない。ほんの少しも。それが、諸見には辛い。
「私は、やはり、当麻として生きるには、足りないものがたくさんある。それを父に気づいて欲しかった。それを認められたら、私は、当麻家を出ていくことなどなかったかもしれない。父が、当麻として生きることを選ぶより、父親として私に接してくれれば、そう、もし、が可能ならば、私は彼を父親として尊敬出来たのに」
「もし、が可能ならば、誰もが幸せになれるのでしょうか。そんなことはあり得ないのです。諸見様、誰かが幸せになれるのならば、他の誰かが不幸を背負ってしまうのですよ。私が諸見様に会えたことを幸せと考えているのは、諸見様が粃様と本来の親子の関係を結べないことを不幸と思っていることと対になっているのかもしれません。何故なら、諸見様が粃様と普通の親子の関係であれば、私が諸見様に出会えることはなかったはずですから。そう言ってしまうのは、あなたに対してずるいことでしょうか。でも、それを言ってしまうほど、私は諸見様に出会えたことが幸せです」
「一生……」
諸見はバックミラー越しの一生を見つめた。一生の時折、ミラー越しに向ける視線に目を合わせながら。
「諸見様、一つだけ私の願いを叶えていただけますか。たった一つだけ、諸見様だけにしか出来ないことがあるのです」
ミラー越しの一生の目元が笑っていた。諸見は頷いた。
「私に出来ることなら」
「もちろん、諸見様にしか出来ないことです。諸見様の手に掛かって、私は消滅したいと願っています」
一生の言葉に、諸見は思わず体を乗り出した。車は相変わらず走り続けている。それが夢の中のような気がしていた。
「一生、車を止めて」
諸見はようやく言葉を発した。一生は、車を路肩に寄せて止めた。そして、黙って諸見の言葉を待った。
「その願いを私に叶えろと、一生は言うのか。それが、私に可能だと?」
「諸見様」
と一生は向き直った。
「私のたった一つの願いです。それに、ここで私を切ることは最初から決めていたことでしょう。それを今になって、私自身にそれを求めるのは、諸見様の残酷さです。これは、優しさではありません。諸見様が、私を本当に必要であった、と思っていらっしゃったのならば、諸見様の手によって、私が消滅することが、私の最大の幸せです。それが、諸見様には判っていただけないのでしたら、それはしかたのないことだと思うしかありません。残念なことですが……」
そう言って一生はそっと顔を背ける。
「一生、ずるいよ。お前はずるい」
諸見はそう言って、ポロポロと涙を流した。
「諸見様」
一生がその優しげな微笑みで諸見を見つめる。
「それはお互いさまですね。諸見様が私に求めなければいけなかったことを、諸見様ご自身は求めたくなかったのでしょう。でもあなたは、粃様の思う通りに成長なさった。それは諸見様ご自身が決めたことですね。いくら、親子とはいえ、あなたには拒否することも出来たはずです。粃様に期待された通りに生きることはなかったはずです。私はあなたの生き方を否定するつもりはありません。私は諸見様のために、一生を捧げています。それは、あなたが、あなたであったから。私はあなたに出会うことが必要だったのです。あなたに会うことは必然であり、あなたにも私が必要だったでしょう」
一生はポケットから取り出したハンカチで、そっと諸見の涙を拭った。
「一生…私は……。そうだね、私にも当麻の血が流れているってことかな。父に期待されるのが重荷だ、と言いつつも、いつもその期待通りに自分がなるのが誇らしかった。当麻など否定しているはずなのに、父を父としてしか見ることが出来なかった。私にはやはり当麻粃という男は父親でしかなかったから。それは恥ずべきことだよね」
一生が首を振った。
「諸見様、それは違います。違いますよ。あなたにはそれが判るでしょう。あなたがそんなあなたであったから、私は諸見様を認めることが出来たのです。私は気まぐれな人間です。その私をこれほどまでに心酔させたのは、諸見様のその弱さの魅力ですよ。私は諸見様に出会えたことが幸せなのです」
一生が再び諸見に微笑みかけた。
諸見は感情のすべてを一生にぶつけたかった。子供の頃のように、彼の胸で思い切り泣けたら、きっと自分は一生の願いを叶えることが出来なくなってしまう。一生に対して、一番残酷なことをしてしまう……。
「一生……」
諸見は声を震わせて一生を見つめていた。一生の気持ちが痛いほどに判ったから、だから、一生の気持ちに応えてやりたかった。だが、諸見自身の気持ちもその思いを強くする。その二つの思いの葛藤が、諸見の心の中で行われていた。
「諸見様、私はあなたが大好きでした。あの粃様のご子息とは思えない、その優しさが。そして、優しいだけでなく、芯が一本通っている、その心意気も。だから、私はあなたの側にいることを、私の仕事であると認められたのです。あなたは当麻家を出ていくが、私を連れてはいけない。あなたには、守るべき家族がいるのですから。私はそれなりに目立ちますからね。諸見様、私はここまで判っているのです。あなたが私を切らなければならない、その事情を判っているのです。だから、せめて、私の最後の願いを叶えてください」
諸見は頷いた。一生の願いを叶えることしか、諸見の思いを一生に伝えることが出来ないのだ。それは互いに判っているのだ。
二人は何も言わずに外に出た。眼下に遠く、街の明かりが見える。
「一生」
と諸見は一生を抱き締めた。さっきは、永覚によって抱き締められた。その温かさを一生に譲るように、諸見は一生をギュッと抱き締めていた。
「ありがとう。私も、お前がいてくれたから幸せだった。一生のお陰で、東京にいる間、幸せに暮らせたんだ。永覚さんにも出会えたし、それに石蕗や子供たちにも。一生がいなければ、私は何も出来なかった。みんなを守り通すことが出来なかった。一生がいたから、すべて上手くいったんだ。一生、大好きだよ。家族と永覚さん以外の中では、一番好きだよ」
まるで子供の頃に戻ったように、諸見は一生に言っていた。すでに、諸見は一生と並ぶほどに背も高いというのに。
「諸見様」
一生も昔のように、諸見の前髪をそっと掻き上げた。
「諸見様のお気持ちに偽りがないことは、私には充分判っております。ですから、決して悔いたりなさらないでください。そう思われることが、私には一番辛いことですから」
そう言って、一生は諸見の額にそっと口づけた。
(このまま、時が止まってしまったらいい)
諸見と一生の気持ちは同じであった。諸見にとっても、一生にとっても、この別れは互いに傷つけあってしまうのだ。だが、こうするしかない。それも二人は判っていた。
でも、せめて、この時よ、僅かでもいいから止まって欲しい、と願うのだ。だが、確実に、時は過ぎてゆく。
諸見の両腕が一生をさらにきつく抱き締めて、やがて一生の体が揺らめいて消えていった。諸見の手がストンと落ちる。諸見の一生を抱き締めていた腕の中の、一生の体温がまだ諸見の腕に残っていた。だが、もう二度と一生は現れない。それが諸見には辛かった。だが、それを悔いたりは出来ない。それをすることが、一生に対して一番裏切ることになるからだ。
「一生、本当にありがとう」
一人になって諸見は呟いた。もう、自分は一人なのだ。その思いを噛み締めていた。あとには、諸見自身の家族が残っただけであった。
「お前がいたことは、決して忘れない。お前の代わりに今度は、私の家族を愛そう。それが、私のお前に対する気持ちだと……」
諸見は街の明かりがぼやけるのに任せていた。本当に大変なのは、これからなのだ。当麻を相手にするのだから。ただ今だけは、一生に対する思いで心の中を一杯にしておきたかった。
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