「一生、止めて」
 諸見専属の運転手兼ボディーガードである坂根一生は、主人の言葉に従って、路肩に寄って車を止めた。そしてそのまま黙って、主人の次の命令を待った。
「いいよ、戻って」
 諸見は窓の外を見ていた視線を一生に戻すとそう言った。
「では、お屋敷に戻ります」
 一生はそう言って、諸見に向かって笑った。諸見は頷いて、一生に笑いかけた。
 一生を自分の付き人に選んだのは、諸見自身であった。父親、粃の異常なまでの自分に対する執着心に、彼が選んだ付き人を気に入らなかったのは、父親の目がないところでも自分が見張られているような気がしたからであった。気がしたのではなく、それは確信だったのだが。粃は、息子を次期当麻としてしか見ることが出来ないのだ。それが、諸見は嫌だった。だが、今の自分はまだ子供で、何もすることが出来ない。だからせめて付き人だけは、本当に信頼出来る者を選びたかったのだ。それが、一生であった。
 邑楽永覚に自分が興味を持っていることを、粃に知られてはならないのだ。だから、粃の命令よりも、自分の命令を守り通す者が欲しかった。そして、それが一生であった。
「一生、言うまでもないけど、判ってるだろうけど、彼に私が興味を持っていることは秘密だよ。私と一生だけのね」
 諸見が形よく縛っているネクタイを外しながら言った。
「判っております、諸見様」
 一生は、諸見にとっては兄貴のような存在であった。
「ああ、何だって制服があるんだろう。好きな服を着ていけばいいと思わない、一生?」
 諸見の通っている陬生学園には、多くの私立の学校と同じように制服が存在した。幼等部から高等部までは、濃紺のブレザーに白いシャツ、同じ濃紺のネクタイに学年によって色の違う斜めの二本の線が入っている。
「お似合いだと思いますけど。それに、私服であったら、皆様どれだけ華美になされるか……」
 一生が少し笑いながら言った。陬生学園は、その学力のレベルの上でも、その授業料の高さの上でも上位にランクしていた。だから、陬生学園の制服を着る、ということは、ある種のステータスでもあるのだ。それを自分の若い主人は一蹴している。そこがまた魅力でもあるのだが、と一生は思っていた。もちろん、彼がここにいるのは、当麻粃の息子だからだが、それを差し引いても一生にとっては諸見はただ一人の主人なのだ。
「毎日、こちらに通いましょうか?」
 一生が車を走らせながら言った。諸見は目を瞬いて、困った顔をして、
「それじゃ、まるで変質者みたいだ」
 と言った。ここに来たのは、今日で二度目であった。そして、一生に連れてきてもらったのは初めてのこと。もちろん、邑楽永覚を見るのが目的であった。
「しかし、永覚様にお会いになるために、ここにいらしているのでしょう。では、直接永覚様にお会いになったらいかがですか。それならば、変質者にはなりませんよ」
 バックミラーの諸見を見つめながら、一生は言った。諸見がフッと真面目な顔になった。
「当麻が、邑楽に会うのか」
 それだけを言って、すでに理解出来る一生であった。
「お二人とも、まだ当麻でも邑楽でもありませんよ」
「それは、それは詭弁だよ。うん、それは理屈だよ」
 諸見は解いたネクタイを丸めたり延ばしたりしながら言う。
「そうですね」
 一生は素直にそう言った。一生は当麻にも邑楽にも関係がない。他の《力》のある家とも関係のない、ごく普通の人であった。だが、一生は諸見のことを理解し、諸見の言うことも理解し、諸見が信頼しきれるほどに、彼を認めていた。互いに互いを認め、上下関係ははっきりしているけれど、今は唯一心を許せる間柄であった。
「諸見様のお考えになるように、行動してください。私はずっと諸見様の側にいますから。あなたの命令だけを守り続けますから」
 諸見はバックミラーに映る一生を見つめた。諸見がふと尋ねる。
「私が一生に死ね、と言ったら、一生は死ぬの?」
 一生は目元を笑わせた。
「私は諸見様の命令にだけ従います」
 諸見は目を伏せて、何も言わなかった。
 きっと、一生は諸見に言った通りに、諸見の命令ならば何でも従うだろう。それを一生に求めたのは諸見自身だが、それを面と向かって言われるのは、諸見には辛いことであった。それが諸見の優しさなのだが、当麻として生きるには、マイナスになるのだ。それを粃はずっと気づかなかったし、諸見は表面上はそれを現さなかった。
「一生、私は彼に会うべきだろうか。それとも、会わないほうがいいかな」
 諸見の質問に、一生は少し首を傾げた。
「諸見様、私の答であなたの考えが変わるとは思えないのですが?」
 一生は目元に笑いを浮かべている。諸見は首を竦めた。
「一生、それを言うかい?」
 諸見は窓の外を見つめた。
「もちろん、私は彼に会おうと思っているから、一生に会わないほうがいい、と言われても、会うだろうけど……。会わなければならないと思うから。当麻と邑楽の確執を、私たちの代で終えるためには。きっと、お父さんに言ったら、とんでもない状態になるだろうけどね」
 一生は黙って車を走らせていた。自分の若主人が意見を求めていないことに気づいたからだ。
 だが、自分の思いとは反したが、それからすぐには諸見は永覚に会わなかった。最初の諸見の永覚に対する観察から7年経って、諸見は本当に永覚に出会ったのだった。


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