柊の目に在りし日の槐の姿が浮かぶ。

 柊の回想の中での槐は、柊の胸に体を預けていた。
「槐、私はお前が《当麻》を継ぐものだと信じていました。今の今まで……私が《当麻》を継ぐということを、考えもしませんでした」
 槐が柊に体をもたれさせたまま、柊の頬に手を滑らせた。
「兄さん、あなたの欠点は、僕に対してだけ優しいことです。その他に対してなら、あなたは《当麻》たる資格を持っているのにね。何故?」
「それを何故と聞くのですか、お前は」
「聞きたいですよ、僕は」
 眼鏡を外して、槐は言った。その冷たい表情を、柊はジッと見つめた。やがてその顔に優しげな微笑みを浮かべて、柊は槐の首を掴んだ。
「この首をへし折りたいほど、お前を憎らしいほど愛しているからですよ」
 槐は冷たい微笑みを浮かべた。
「本当に、へし折れたら良かったですね、兄さん」
 その冷たい微笑みを柊は見つめ続けた。槐の表情の中で、それを一番気に入っていると言ってもよかった。
「槐、お前は何故?」
 柊の問いに槐は笑って何も答えなかった。
「槐」
 柊の指先が、ゆっくりと槐の背中を滑った。槐はその表情のまま、柊のなすがままに任せていた。
「兄さん、僕と約束してくださいね。僕の代わりに《当麻》を継ぐと……。そして、その日まで、このことは二人だけの秘密にすると。父さんは、子供の中で一番《力》がある者が、《当麻》を継がなければならない、と思っています。だから僕に、今日、少しだけ槐を名乗らせたのです。知っていましたか、兄さん。僕が《当麻》を継ぎたくなかったことを。僕は表裏のないままで生きていきたかったのです。ですがそれは、僕たちが当麻傍系であることで、絶対にあり得ないことなのです。この矛盾を矛盾でなくすことは出来ないのです。父さんが僕たちにあの話をしたあの日に、僕は《当麻》として生きていかなければならないことを知りました。それを、覚悟しなければならないことを。あの日から今日のこの日まで、僕は《当麻》として生きていかざるを得ないことを、僕の宿命だと諦めていました。あなた方を殺すことなど、僕はいとも簡単にしてしまうでしょう。何の迷いもなしに……。僕はね、あなたにでさえも、この手をかけることなど、何のためらいもないのですよ。その点では、僕は《当麻》になるべくして生まれてきたのですね」
 槐は体を伸ばして、柊の首筋に口づけた。
「兄さんが継ぎたくないのなら、僕が最後の《当麻》になってもいいのですよ」
 そう言って、槐はさらに体を伸ばして、柊の頬に舌を這わせた。
「私は……」
「兄さん、その時までに考えておいてくださいね」
「槐、それを私に選ばせようというのですか」
「あなたが選ばなければならないのですよ。僕は、兄さんに継いでもらいたいのです。僕の性格までもね。そうでないと《当麻》にはなれません。僕の《力》は大き過ぎます。僕の体が持ちこたえられないほどに。せめて、兄さんほどの《力》だったら、僕は何の迷いもなしに《当麻》を継いだでしょうに。それでも当麻の影にはなれるのですから。父さんほどの《力》でも、どうにか当麻の影としてやっているのですからね」
 そうなのだ。槐には《力》が有り過ぎるのだ。それを制御どうこうというより前に、槐が《力》を使えないのだ。その強過ぎる《力》によって、槐の体が耐えられない。今日はどうにかそれを免れたが、もう一度槐が《力》を使ったとして、その体が消滅しないと、誰が断言出来るであろうか。
「槐……」
 と柊は槐の髪の毛をもてあそんだ。
「約束……しよう。私が《当麻》を継ぐと」
 柊が呟くように言った。槐がその口を塞いだ。ねっとりとした口づけが終わると、
「約束しましたから。兄さんが、その時には《当麻》を継いでくださると。兄さん、約束を破るということは、僕への裏切りですよ。忘れないでくださいね」
 と槐は冷たく笑った。

 柊(ひいらぎ)はふいに我に返った。それが終わって、もうすでに何時間も経っているような気がしていたが、食べかけのパスタからはまだ湯気があがっていた。
「お前を裏切れませんからね。私の唯一の約束ごとですから。槐、私は《当麻》として、12代、いや、13代のために、その名を恥じないように生きていきましょう。そして、お前に会える日を楽しみにしていましょう。今だけが私の唯一血を流す時です」
 そう呟いて、柊は軽く左耳を触った。ピジョン・ブラッドの血の色が、今、流れたはずの血をすべて吸ったように、赤く煌めいていた。
 食卓の側には、柊が一人。そう、こうして柊は《当麻》を継いだのだ。
 この後は、当麻傍系は柊だけであり、もちろん、子供を作ればそのかぎりではないのだが、その可能性はまだ未来の話であった。


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