「あとは、槐だけですね」 しばらく後にそう呟いた柊の表情は複雑であった。 もうすでに、この家の中には柊と槐しかいない。そして、おそらく槐はそのことを気づいているだろう。それを槐に悟られたくなかったわけではなく、柊にとって、槐は特別な存在なのだ。ただの弟としてではなく、特別な人としてしか、柊は槐に接することが出来ない。《当麻》として生きようとしている柊にとって、一番邪魔な存在である以上に、一番大切にしたい存在であったのだ。柊にとって、いわば槐はウィークポイントであった。そして、槐にとっても柊は愛すべき兄であった。お互いにお互いをネックとして二人は生きてきたのだ。それに幕を下ろさなければならないのであった。それが、柊の手によってなのか、槐の手によってなのか。どちらにしても、柊にとって他の三人を殺したことなどは、もう記憶の彼方に消え去っていた。ほんの少しさえもそれに対して感情を持つ気はすでになかった。目の前から消滅した時点で、柊は親とか姉とかという存在を記憶から消し去っていたのだ。 「どうしましょうか」 柊の外見は、優しい表情のよく似合う好青年であった。どんな時も決してその顔には、怒りとか冷たさとかが現れることがないだろうと信じられる、そのような外見であり、少なくとも家族以外の人々は、それを信じていた。だが、その顔には今、そんな表情は浮かんでいなかった。何の表情もない。柊にはこれから自分が取るだろう行動が、予測出来なかった。 「あとは、槐だけですね」 またそう呟いた。そうその通りなのだ。槐を殺さないかぎり、柊は《当麻》にはなれないのだ。それは判っているのだが、柊にはその行動を取るべきだと思わなかった。いや、もしかすると、それを考えつくのを拒否していたのかもしれない。 ゆっくりと柊は椅子から立ち上がる。三人を続けざまに消滅させることは、柊にとってそれほどの《力》を必要とはしなかったのだが、槇に対しては、少し遊びが多かった。そのため柊は今、最大限の力を発揮することが出来ない。 柊は槇の書斎から出て、食堂に向かった。そして二人分の夕食を食卓に並べる。そして廊下に出ていくと、 「槐、夕食が出来ましたよ」 と叫んだ。間もなく槐が食堂に下りてきた。そして柊の向かい側に座る。 「今日はカルボナーラですか、兄さん。兄さんのパスタは本当に美味しいですから、僕、嬉しいです」 槐はそう言ってにこにこと笑った。 「もちろん、パスタだけでなく、他のものも美味しいんですけどね」 と槐は付け加えて食卓についた。 「じゃあ、食べましょうか」 柊が言って、二人はフォークを手に取り食べ始めた。 「そうそう、兄さん、先程まで悩んでいたんですが、新しいデザインを思いついたんですよ。どうやって透明感を出そうかと、丸1日かかりました」 槐は目を輝かせて言った。柊はいきなり立ち上がると、槐の側に立った。 「どうしたんですか、兄さん」 と槐は振り向いた。柊は無言で後ろから槐を抱き締めた。そのまま何も言わない。槐も無言であった。 しばらく沈黙が流れた。二人とも見動ぎもしなかった。 「兄さん」 と槐が呟くようにやがて口にした。 「兄さん、あなたにお譲りしますよ」 その言葉に柊の髪が少し揺れた。 「それが、一番適当ではありませんか」 槐の表情は冷たいものであった。 「そうでしょう、ねえ、兄さん」 柊はまだ何も言わない。 「こうなることは、僕たちが共通の秘密を持った時に、すでに判っていたことではありませんか」 槐は左手を後ろに回して、柊の頭から頬へと撫でた。 「兄さん、僕の代わりに《当麻》を継ぐことにしたのでしょう。父さんや母さん、姉さんを殺したのに、何故、僕の時はためらうのですか。ねえ、あの時から……兄さんはその覚悟が出来ていたのではありませんか」 「槐……」 と柊は腕の力を緩めた。そして、槐の髪の毛に口づけた。 「兄さん、それほどに辛いのなら、僕が《当麻》を継いでも構わないのですよ。僕は、一向に。それは兄さん、あなたには判っているでしょう。僕が最後の《当麻》になっても、僕は全く構わないのです」 槐は淡々と言葉を吐いていた。それを聞く柊のほうが、肩を震わせている。 「槐」 「兄さん」 と少し強い口調で槐は言った。 「あなたは、《当麻》を継ぐのですね。そう、僕に約束しましたよね」 柊は何も答えない。 「あなたがそれをしないのなら、僕に対しての大変な裏切りです。そうなると僕は哀しいですよ。だって、兄さんは僕のために、それを選ぼうとしているのでしょう」 槐が柊の前髪を掻き上げた。 「兄さん、血は流れません。そのためにあなたは、自分の血を流したのでしょう。そして、そのピアスを選んだ」 槐は柊の左耳のピアスをもてあそんだ。 「兄さん、僕は《当麻》を継いでも継がなくても、すぐ隣に死が待っているのです。それを兄さんが知った時から、僕たちは共通の秘密を持ったのではありませんか。他の誰も知らない。兄さんは約束しましたよね。それまで一度も《当麻》のことを、口にしたことのなかった。それを僕のために……。あれは、僕が父さんにつれられて、初めて槐を名乗ってしまった日、そして、僕が《当麻》を継げないと判った日。まだ、一月も経っていないのですね。不思議なものです。もう何年も前のことのように思ってしまいます。約束ですよ、兄さん。さあ、《当麻》を継いでください。別れは早いほうがいいでしょう。延ばすほどに辛くなるのは、あなたのほうですよ」 槐はそう言って、柊に口づけた。 「すぐにまた会えますよ。《当麻》を名乗った者同士、代々の当麻にもね」 柊の右手が、槐の額に置かれた。 「槐、私は《当麻》を継ぎます。そしてもし、檀との間に子供が出来たら、お前の名前をつけるでしょう。槐、その子はお前に似ているでしょうか。ただ一つ判っていることは、その子は《当麻》を継ぐでしょう。私の跡を継いで……」 柊の手のひらが白く輝いた。 「兄さん、僕のためにありがとう。そして、愛していましたよ、世界中の誰よりも……あなただけを見つめていました。きっとこれからも、あなただけを待ち続けるでしょう」 槐が白く輝きながら笑っていた。柊の顔にやっといつもの優しげな表情が浮かんできた。 「槐、待っていてくださいね。私はきっとお前を見つけだします。槐、愛していましたよ。お前のために《当麻》を継げることは、私にとって嬉しいことです。最期に、私を《当麻》として呼んでくださいませんか」 槐はその消えゆく間に、柊の額に手を当てて、 「柊(ひいらぎ)兄さん、さようなら」 と言った。 「ありがとう、槐」 柊(しゅう)はそう言って、槐を抱き締めた。そして、眩いばかりの光が消え去った。
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