楓の部屋を出た柊は、そのまま槙の部屋に向かう。
 トン、トンとその部屋の扉を軽くノックした。そして、
「お父さん、夕食の前に少し時間を割いていただけますか」
 と柊は言った。
「お入り」
 と部屋の中から声が響いた。柊は扉を開けて中に入った。
 隅に置いてあった椅子を抱えてきて、柊は槇のすぐ側に腰掛けた。そして、足を組み胸の前で指を絡めた。槇が柊のほうに体を向ける。
「お父さん、いいえ、当麻槇さん」
 そう言って柊はクスリと笑った。槇の顔色が変わる。
「あなたの役目は終了です」
「柊……お前」
 槇はガタッと立ち上がった。その姿を柊は見動ぎもせずに、微笑んだまま見つめていた。
「今からは、柊(ひいらぎ)と名乗らせていただきます」
 槇は顔を強張らせたままで引きつった笑いを浮かべた。
「は、お前が柊と名乗る? 確かにすでに私よりは《力》を持っているが、お前は槐にはおよびはしない。お前が《当麻》を継ぐことなど夢だ」
 柊(しゅう)は絡めた指を外して、肘掛けで頬杖をついた。
「姉さんと同じ言葉をおっしゃるのですね。やはり親子だ、と言っておきましょうか。そして、私も姉さんに対して言った同じ言葉をあなたに言わせていただきましょう。私しか《当麻》を継げないんですよ」
「何をたわけたことを……」
 槇はそう笑いかけて、柊の自信ありげな微笑みに口を閉じた。
「私と槐との関係は、誰にも判らないでしょう」
 クスッと柊は笑いを零した。
「何?」
 柊は微笑んだまま父親を見つめ続けていた。槇は顔色を失っていた。
 槇自体、《当麻》を継いだのだ。梢と結婚した時点で、いや、子供が生まれた時点で、それが己の身にも降りかかってくることは判っていたはずなのだ。だが、槇は死への恐怖にうちおののいていた。自分の父親もそうだったのだろうか、とふと思った。
 槇が《当麻》を継いだのは、23歳の時であった。代々の《当麻》の平均と同じくらいであった。その時、母親はすでに亡く、《当麻》たる父親は60、妹は18であった。槇は《当麻》を継ぐつもりはなかった。代々の《当麻》に較べてみれば、その《力》は弱かった。ただ、妹にはほとんど《力》がなかったため、その道が必然的に槇の前にあることが苦痛だった。槇は普通の状態では、《当麻》になることは出来なかったであろう。槇にその道を選ばせたのは、妹の事故死であった。槇は妹を溺愛していた。それは父親も同じことだったようで、彼は床から離れられなくなり、衰弱し続けた。そして、息子に対して言ったのだ。
「槇を名乗れ」
 と。それには暗示でも含まれていたのだろうか。父親と同じように衰弱していた槇は、それに従った。まるで操られているかのように、槇は父親を殺し、《当麻》を継いだのだ。
(きっと、あの人は恐怖など感じなかっただろう。あの人は、娘のところへ早く行きたがっていたからな)
 それを思うと、槇は己が情けなくなるようだった。自分は継ぎたくもない《当麻》を継いで、継がせたくもない《当麻》を子供は継ごうとする。そして、自分は彼らの中継点でしかないのだ。
「柊、それほど《当麻》を継ぎたいか。当麻の影になりたいのか。決して表に出ることなどなく、当麻のためだけにその手を汚し続ける」
「お父さん」
 と柊は皮肉気な口調で口を開いた。
「確かにあなたの《力》では、当麻の影は大役でしたでしょうね。ですが、私たちは当麻傍系であり、そうであるかぎり、私たち三人の内の誰かが、あなたを継ぐのですよ」
 槇は目を落とした。
「私は、私の代で終わってもよいと思っている」
 柊が右手を優雅な仕種で槇に向けた。
「それは許しませんよ、絶対にね。私は《当麻》として生きたいのです。13代当麻とともに。私しか《当麻》を継げないし、あなたは《当麻》を私に継がせるのです」
 槇の顔が苦しげに歪む。
「私は《当麻》を継ぐことに対して、少しも苦痛に感じていません。重荷でもありません。この日が来ることをどんなに待ち望んでいたことか。私はあなたを殺すことに何の感情も沸いてきません」
 柊は優しげな微笑みを浮かべていた。一方、槇は苦しげに顔を歪めたままであった。槇には柊に抵抗出来るほどの《力》は全くなく、それはお互いに判っていた。
「柊、何故、一息に殺さん」
 柊は槇に対して、じんわりと苦しみを与えていた。それをしようと思えば、一瞬の内に槇だけを消滅させることも可能なのに……。
「おや?」
 と柊は首を傾げた。
「そういえばそうですね。何故でしょうか」
 心の底から疑問に思っている、というような口調で柊は呟いた。柊にとっては、事実そうなのかもしれなかった。
「あなたの顔など、二度と見たくないからかもしれませんね」
 柊は相変わらず優しげな微笑みを浮かべていた。
「お父さん、私はあなたが、槐ばかり可愛がるのを見て育ったのです」
 柊はそう言って、やんわりと少し力を込めた。だが、死ぬまでには到底至らない。
「私の顔を見たくないのならば、さっさと殺せばよい。何故、そうしない」
 それを聞いて柊はフッと笑った。
「嫌になるほど見ていれば、もう二度と思い出すことがないでしょうからね。ですからお父さん、まだ殺しませんよ。そしてあなたは、自ら死ぬことも出来ないのです。さらに、私に楯突くことも出来ない。可哀相とは思いますが、それもあなたの運命だと諦めてください」
 柊の冷たい台詞とは裏腹に、彼の表情は何の邪気もない温かな笑顔であった。槇にはもう絶望という言葉さえ浮かんでこなかった。

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