◇◇
「お母さん」
柊(しゅう)の声に、梢は振り向いた。
柊は学校から帰ってきたところのようで、制服姿であった。紺のブレザーにネクタイ、質素なようでその実上等な生地を使っている。私立の学園として上位にランクされている柊の学園は、上流家庭の子息ばかりで構成されていて、柊もその一員として、幼等部から通っていた。
梢は夕食の準備をしていた。家にはまだ他に誰も帰っていなかった。
「お帰りなさい、柊さん」
にこっと笑って梢は言った。柊は食卓の椅子に、制服の上着をパサッとかけた。前髪は軽くウェーブがかり、長い後ろは色鮮やかな鬱金色の太めの紐で縛っていた。ただ、その後ろ髪は襟足までが自毛で、それより下は付け毛であった。上着を脱いだ拍子に、紐が解けて床に落ちた。それを拾い上げて、柊はクスリと笑った。
「おや、解けるなんて珍しいですね。験が悪いのでしょうか。これから行うことを止めろと、私に教えているのでしょうか」
柊の言葉に梢は笑いながら、
「どうしたの、柊さん」
と首を傾げた。柊は髪を縛ると、椅子を梢の側まで持っていって、馬乗りに座った。
「あら」
と梢は声をたてた。
「柊さん、ピアスいつの間に開けたの。左耳だけ?」
座った拍子に耳に掛かっている髪の毛が舞い上がり、隠れていたピアスが梢の目に止まったのだ。
「ついさきほどです。血が流れない代わりに、私の血を流したのです。ピジョン・ブラッドを選んだのも、その理由の一つ……」
「え?」
柊はネクタイを少し緩めた。紺地の裾に薔薇色の二本の斜め縞が入っている。前のほうを短めにするのが、柊たち学生にとって一つの流行りとなっていた。
「お母さん、あなただけが何も知らないのですね。でも、あなたは当麻家に入ってきてしまいました」
梢は柊に少し近づいた。
「柊さん、何のことですか?」
「私にとって、あなたは母親でしかありません。《当麻》の血など引いていない、ただ、私たちに《当麻》の血を受け継がせてくれた、ただ、それだけの女性です。だから私は、あなたに愛情など感じていません。だから、こうしてあなたを手にかけることなど、何のためらいもなくすることが出来るのですよ」
柊は言葉を言い終わらないうちに、梢を消滅させた。《力》の全くない梢を消滅させることは、柊にとって楽なものだった。ほとんど《力》など使わずにそれを終えた。
「お母さん、私はあなたには何も知らないままでいて欲しかったのです。きっとそれは叶えられましたね」
一人になって柊は呟いた。
コトコトと鍋の蓋が音をたてていた。柊は立ち上がると、梢の続きをし始めた。梢の代わりに夕食を作り終えると、その間に帰ってきた楓(ふう)の部屋に柊は向かった。槇(まき)も槐(かい)もすでに自分の部屋にいる。柊が料理を作ること自体、それほど珍しいことではないので、誰も梢がいないことを疑問に思わなかったのだ。
「姉さん、私は《当麻》を継ぎますよ」
柊は楓の部屋に入るなりそう言った。楓は柊を見つめた。恐怖ではなく、微笑みをその顔に浮かべていた。
「柊さん、あなたより槐さんのほうが《力》は強いでしょう。私には確かに《力》があまりないから、《当麻》を継ぐことは叶わないと判っていましたけどね。でも、あなたにもそれは無理なのではありませんか」
柊も楓を見つめていた。そして軽くウェーブがかった髪を掻き上げて、クスッと笑った。
「そうでしょうか。姉さん、私しか、《当麻》を継げないんですよ」
楓は首を傾げた。
「姉さん、あなたもお父さんに隠していることがあるでしょう。それが何かは知りませんけど、私と槐にもそれがあるんですよ。私しか《当麻》を継げない理由が。姉さん、私はあなたの苦しむ顔はあまり見たくありませんから、だからもうお別れです。抵抗しないでくださいね。私は姉さんには安らかな死を迎えて欲しいのです」
「柊さん、私はあなたが判らないわ。今の今まであなたは一言も《当麻》のことなど、口に出したことがなかったでしょう。私にはいきなりなのに、もしかすると、槐さんとはよく話していたのかしら。あなたが槐さんと一緒にいることが多かったのは知っていましたが、以前からそんな話をしていたのですか。それとも、これは私だけが知らなかったことなのでしょうか」
柊はさあ、と肩を竦めた。
「姉さん、私はあなたと同じところには行けませんが、お母さんはきっと一緒ですよ。そして代々の《当麻》以外の者も。そう、菁さんの元に行けるのですよ。だから淋しくはないと思います。私や槐、それにお父さんにはもう会えないでしょうけどね。お別れですね、姉さん。あなたをこう呼ぶことは、もしかしたらあなたにとって侮辱かもしれませんが、でも、最期にこう呼ばせてください。楓さん、さようなら」
柊はそう言って楓を抱き締めた。二人の体が白く輝いた。そして、光が消え去った。柊は楓を抱き締めた恰好で立っていた。だが、楓の体があるはずの柊の腕の中には、ただ、空間しかなかった。
柊はしばらくそのままじっと動かなかった。まだ楓を抱き締めているように、己の腕に残っているその感触が、感触だけではないと信じているように。やがて柊は、ゆっくりと両腕を下ろした。その左耳のピアスが、流されなかった血の代わりに赤い色に煌めいていた。
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