◇
菁が当麻家を訪れてから、まだ一週間と経っていなかった。それなのに、彼女の訃報を聞こうとは思わなかった。柊はそう思った。
「人の一生は、何とも儚いものですね。私たちは、決して未来を見ることが出来ない。そして、それを変えることも出来ないのです。私たちは言わば、崖っぷちを歩き続けて、それに気づかないまま歩き続けて、その一生が終わるのが、足元の崖が崩れる時なのです。でも、誰も自分の歩いている場所が、崖っぷちなど気づかない。それに気づいていて、足が震えない人がいるはずはありませんからね。人間たちは、不安定な道の上を歩いているのです。一生を、何のために生きているのか、考え続けながら。そして一部の人達は、悟ったような口調で、人間の生まれた意味について訴え続け、一部の人達は、自分だけが悟っていると優越感に浸り、そして大部分の人達は、僅かな幸せを掴もうと、ただそれだけを求め続けて一生を終えるのです」
そう言って、柊は、クスリと笑った。
「人間たちが何のために生まれたなど、答を出そうとするのが間違いなのです。それに答などあるはずがありませんから。しいてあげれば、人間たちは、この世界を滅亡へと導くために生まれてきたのです。そして、人間たちはそれに忠実に従っているのです。きっと、当麻も《当麻》もその中の一人。菁さん、そして、あなたもその中の一人だったのでしょうね。あなたに会ったのは、たった一度きりでしかありませんでした。でも、それに意味があると思うのは、決して私の思い違いではありません。それは菁さん、あなたのほうがよくご存知だと思います。私はあなたと会うべきだったのです。そして、それは私の運命に深く関わっていくのでしょう。それが今は何かが判りませんけどね。きっと、いつかその意味を私も理解することが出来るでしょう。それを知った時、私はあなたのことをどのように感じるのでしょうか。今の気持ちを持ち続けられるでしょうか。菁さん、私は今はあなたに会えたことを、嬉しく思います。そして、もう会えないことが、哀しいと思います。私は、その意味を理解するまでは、きっとこの気持ちを持ち続けるでしょう。菁さん、あなたが死ななければ、私たちはどうなっていたでしょうね。私は知っているのですよ。あなたがきっと、自分の死期を知っていたということを。だから、私に会ったのですね」
柊は自分の部屋で一人であった。そして一人で喋っていた。だが柊には目の前に菁の姿が見えていた。それが己が作った幻であろうと、柊にとって、それは菁自身であった。柊の菁に対する気持ちは、恋ではない。だが、柊がこれだけ菁のことを気にしているということは、やはり、菁がそれを望んだからであろう。柊は見事に菁の思惑通りになったと、今の時点では言うことが出来た。それがこれからどう変わっていくのかは、それは柊のこれからの人生次第である。それは柊には判らないし、他の誰にも判らない。そう多分、菁の妹か弟が生まれるまでは……。それは、それほど先のことではなかった。
寒河家は菁が亡くなると同時に引っ越した。だから、菁の妹が生まれたことを、柊たちはしばらくのあいだは知ることがなかった。
そして、今度は寒河家は当麻家と関わりを持つことになる。それがどんな意味を持つのか。それを知っているのは、菁と菁の妹だけであった。
一生とは儚いものだ。それを儚いと言ってしまうのは、人生に意味を持たせようと思うからなのではあるまいか。人生とは、きっと何の意味も持つことがないのだ。それに意味を持たせようとしているのは、己を正当化する人間たちの姑息な、そして、情けないほどの僅かな幸せに満足するための手段なのだ。それを、人間たちは必死で求めようとしている。そして、その最期には、自分の一生は悔いがなかった、と思い込むのだ。そう、大部分の人がそう信じて、一生を終えるのだ。それはそれでいいではないか。己の満足の内にその一生を終えるのだから。それに反論してもしかたないだろう。きっと、それを信じていない彼ら自身も最後にはそれを信じて一生を終えるのだから。
←戻る・続く→