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楓がその少女を家に連れてきたのは、楓にとって他人を招いた始めてのことだった。
「狭い家ですが、どうぞ」
楓の言葉は、他人から見れば謙遜とでもいうべき言葉であった。楓の当麻家は、その回りの屋敷と同じように、『お屋敷』とでもいうのがふさわしい屋敷なのだ。しかし、楓にとってはそれは決して謙遜ではない。何故なら楓の通っている学校は、幼等部から大学院、はては研究所まで揃っている私学として一流である陬生学園であった。当麻家はその中では、平均を下回る程度であった。
楓に招かれた少女の家も、陬生学園の中では中程度と考えればよい。
「あら、木槿だわ。楓さんのところでは、真白なのね」
二人の年齢は9歳。初等部の4年であった。
「私のところでは薄い青紫なのよ」
「あら、そうなの。木槿にいろいろな色があるなんて知らなかったわ」
楓がフフと笑って言った。二人は家の中に入り、そして、まっすぐに楓の部屋に行く。
「まあ、素敵な部屋だわ。楓さん、これあなたのコーディネイト?」
「そう。でも、お母様も少し見てくださっているわ。でも、きっと菁さんのお部屋のほうが素敵だと思うわ」
「まあ、ありがとう。今度招待いたしますわね。私は他の人には手を出させないから、少しきついかもしれませんわ」
その時、バタバタと足音が近づいてきて、カチャとドアが開いた。
「柊さん、何度言ったら判るの。ドアはノックして」
楓が立ち上がって叱った。入ってきたのは、二人より少し年下の男の子であった。
「ごめんなさい、菁さん。弟の柊なの。2つ下よ。柊さん、お客様にご挨拶をして。私の友人の寒河菁さん。同じクラスなの」
柊が菁をまじまじと見つめていた。菁は子供には使いたくないが、美しかった。その年相応だが美しかった。柊はまだ子供だが、将来を期待したいほど整っていた。その二人が見つめ合っていた。
「初めまして、菁さん。弟の柊です」
とろけるような微笑みを浮かべて、柊は言った。菁も微笑んだ。
「初めまして、柊さん。寒河菁です。お姉様とは、春から同じクラスになりました。親しくしてもらっていますわ」
二人の挨拶が一通り終わると、楓は柊を追い出そうとした。
「柊さん、あなたのご用事は後からお聞きしますわ。今はお客様だから、さあ、戻りなさい」
「違うんです、姉さん。姉さんがお客様を招いたのは始めてのことでしょう。だから、お顔を拝見したかっただけなのです」
そう言って、柊はクスリと笑った。楓は真赤に頬を染めて、
「柊さん」
と叫んだ。菁がクスクスと笑いだした。
「ご、ごめんなさいね、菁さん。本当にこの子は困った子だわ。柊さん、私が恥ずかしくなるから、出ていきなさい」
「楓さん。兄弟がいるって、羨ましいわ。私は一人っ子だから……。お二人ってあまり似ていらっしゃらないのね」
菁の言葉に、出ていこうとした柊は立ち止まった。
「ご両親に頼まれたらいかがですか。妹か、弟が欲しいと。私も頼みましたから、弟がいるんですよ」
柊は楓の怒った顔を無視して菁に話しかけていた。柊にとって、菁は楓の友人としてではなく、気になる存在として胸の中に入ってきた。恋とか、そういうものではないと思うが、柊にとっては似たようなものだったかもしれない。
「まあ、三人兄弟なのですか、柊さんのところは」
「ええ、弟は槐といいます」
菁は首を傾げた。
「かい? そう言えば、楓さんは『かえで』と書いて『ふう』と読みますよね。では、柊さんは何?」
柊はノートを一枚破ると、楓、柊、槐と書き、ルビをふった。
「ふうん。ふう、しゅう、かい、ですか」
「ええ、風に冬に鬼。別に意味はないですけどね」
菁の瞳が光の加減で紫がかってみえて、柊は思わず覗き込んだ。
「え?」
菁が驚いて柊を見つめた。慌てて柊は首を振る。二人に取り残された格好の楓は、ふてくされた表情でベッドに座った。
「みんな、木の名前なのね。かえで、ひいらぎ、え」
えんじゅ、と菁が言おうとした口を、柊は思わず押さえた。
「え?」
と三人が三様の声を発した。だが一番驚いた顔をしていたのは、柊であった。すぐに手を離した柊は、菁に向かって頭を下げた。
「すみません、菁さん。でも、その名前は言わないでください」
「え?」
今度は、二人が同時に言った。
「というより、言わないほうがいいと思います。何故だか判りません。でも、きっと私の言っていることはあっていると思います」
柊の真剣な表情に、菁はしばらく考えているようであった。やがて頷いた。
「柊さん、きっとあなたのおっしゃっていることは正しいことでしょう。私もそう思いますわ」
納得顔の二人に、さらに取り残された感じの楓は、もう二人の邪魔はすまい、とそっと部屋を出ていった。友情なんて愛情に負けるものと相場は決まっているわ、と呟きながら。二人は楓の出ていったことに気づかないまま、話を続けていた。
「菁さん、私はまだ子供ですが、あなたに会ったことは偶然ではないような気がします。あなたは姉さんに会うのではなく、私に会うために姉さんの友人になったのではありませんか。きっと、私たちは今日会うべくして会ったと言えるのではありませんか。それを誰が決めたのか、もしかするとあなたご自身かもしれませんね。それとも、ずっと以前にそう決められていたのか」
真剣な表情の柊を見つめながら、菁はにっこりと笑った。
「そう思うのは、何故? 私は楓さんに招待されて、当麻家に来ましたわ。あなたに会ったのは、あなたがここに来たからでしょう。私が何か画策してここに来たとあなたは思うのですか。私が何をするというのでしょう」
菁がそう言って、長い髪を揺らした。江戸紫のリボンが一緒に揺れる。柊は口元を少し綻ばせると、
「そうですね。おかしいですね」
と言った。そして、その表情のまま、
「でも、あなたは槐の夢の中の少女ですね。私は槐から聞いただけですけど、それでもあなたとすぐに判りました。槐の夢に現れたのは、あなたの意志なのか、それとも、本当に偶然なのでしょうか」
と言った。
「さあ、どうなのでしょう」
菁も表情を変えずに言った。
お互いにお互いを見つめて、それはほんの数秒のことだったのだが、互いに気づかずに、その死の瞬間まで相手の姿を心の奥に残すきっかけになった。
ふと、柊のほうから目を逸らして楓がいないことに気づいた。
「姉さんはどこに行ったのでしょう。変ですね」
と言って、柊は部屋を出ていきかけた。
「姉さんを呼んできます。私が邪魔をしたのですね」
振り向いてそう言う柊に、菁は、
「柊さん、私、あなたが気に入ったわ」
と言った。柊は、え? という顔をしたが、それには応えず、部屋を出ていった。
「あなたは、勘がよろしいのですね、柊さん」
一人になって、菁は呟いた。9歳の子供とは思えない表情を浮かべた。その瞳が紫紺に光って見えた。先程、柊は見間違えたのではなく、本当に時折、菁の瞳は紫がかるのだ。クスクスと菁は笑った。
「私は違う場所で生まれてきてしまったのですね。残念です。柊さんを気に入ってしまいましたのに。当麻は当麻でも、裏のほうの当麻に会ってしまったのですね、私は。しかたありません。時を過ごしましょうか、いえ、それは出来ませんね。私に目覚めてしまった波豆の記憶が、それをすることを拒んでいます。しかし、私は当麻に会わなければなりません」
菁は遠くを見つめていた。
「でも、裏のほうの当麻にも、会っておかなければならなかったのですね。私が両方の当麻に会うことは出来ないから……。それを私の妹か、弟に託さなければなりません。きっと、私はその子には会うことは出来ないでしょうけど。それも残念です。その子は私でもあるのですから、絶対に会えないのですね。そして、もう少し生きていたいと思ってしまうのは、柊さん、あなたに会ってしまったからなのですね。それでも、私は波豆として生きていかなければならないのです。そう、あなたの勘は正しいのです。私たちは、会うべくして会ったのです。きっと、何代も前の当麻の蒔いた種が、私たちの時代に芽を出し、そして、枯れていくのです。何百年も土の中に忘れられていた種が、私の波豆を陥れた罪を、あなた方に贖わせるのです。あなたには確かに何の恨みもありませんけど。でも、私はそれを見ることが出来ません。それは哀しいです。でも、きっと波豆の血を引いている者が、その手を汚すことなく、それを成し遂げるのです。楽しみですわ」
窓の外に視線を転じた菁は、その瞳に木槿を映した。
「でも、少しだけでも私も普通の女の子として生きてみたかったですね」
菁の言葉は、消え入るように小さかった。
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