◇◇◇

 菁はフッと顔を上げた。
「私は、目覚めたのだわ」
 独り言のように呟いた。それはまだ、3歳の時。だが、それは彼女にとって成人式のようであった。
 彼女が亡くなったのは、9歳の時。そう考えると、3歳という年は、人の一生をどれだけ短くても一生と言うのならば、それはきっと成人式と言ってもおかしくはないのだ。回りには誰もいない。だからこそ、菁はその言葉を吐いたのだ。でなければ、その言葉を聞いた人間は、背筋を凍らすだけではすまなかっただろう。
 菁自身も意識していたかどうか……それも判らないほどに、菁は呆然としていたらしい。近くにはいなかったが、彼女の母親は彼女が見える場所にいた。凍りつくような冷気が彼女のほうから吹いてきて、確かにそれは一瞬のことだったが、彼女の母親は、その時、菁が呆然と立ち尽くしているのを見たのだ。
「菁さん」
 菁の母親……樒は呼び掛けた。ハッと気づいたように、菁の意識が戻った。それは、確かに一瞬のことだったのだろう。だが菁にとっては、何十年も何百年もの長い旅をしていたように思えた。
「何か、お母さま」
 菁が樒に向かって微笑んだ。樒がホッとして、
「いえ、何でもありません。ただ、今少し寒い風が吹きませんでしたか。もう、屋敷の中に入りましょう」
 と言った。菁は頷いたが、すぐに、
「お母さま、私はもう少しここにいますわ」
 と言った。樒は、それ以上は何も言わずに、一人で屋敷のほうへ戻っていった。
 菁は再び一人になって、空を見上げた。もうすでに菁の心の中には、樒を母と思う気持ちや、榊を父と思う気持ちはなくなっていた。
「私は、寒河家の血を引いているのではない。私は、あなたの血を引いているのですね」
 菁の記憶の中に、ずっと眠り続けていた彼の記憶が、今、ふいに現れたのだ。それは、菁の宿命だった。400年の長きを経て、菁の記憶によみがえったのは、当麻と邑楽のその裏切りであった。
「私があなたの恨みを晴らしますわ。きっと私が、私の手で、すべてを元に戻しましょう」
 菁はその幼顔を綻ばせた。ある人は天使のようだといい、ある人は悪魔のようだという、そんな微笑みを菁は浮かべていた。誰も見ていない、寒河家の奥庭での一コマであった。
 菁は四阿の椅子に座る。そして、宙を見つめた。
「そうですか」
 菁はしばらく経った後、そっと溜め息をついた。
「私の手では出来ないのですね」
 そう言って、菁は哀しげにまた溜め息をついた。
「しかたありません。私は、私の宿命しか、運命しか背負えないのですから……」
 菁の呟きは、いったい何を意味していたのだろうか。菁は、もう何も言わずに立ち上がると、屋敷のほうへと戻っていった。
 それは秋。
 菁が一番好きな季節であった。
 そしてかの人も、さらに、菁が亡くなった後に生まれた彼女の妹、葵も、一緒であった。

 陬生学園の幼等部に菁が入学したのは、間もなくであり、そして違うクラスではあったが、当麻家の楓(ふう)が入学したのも、同じ年であった。しかし二人は、その時まで出会うことがなかった。それが菁が意識していたからかどうか、おそらくそうであったのだが、初等部になって同じクラスになるまで、菁と楓は出会うことがなかった。
 もし、ということが可能ならば(もちろん、可能ではないのだが)、もっと早く菁と楓が出会っていたら、菁は自分の手で彼の恨みを晴らせたのではないか、などと、思えてしまう。だが実際は、それを菁は行わなかった。
 それが何故だったのか、それは菁にしか判らない。
 ただ、菁は夢見であった。夢見の見る夢は真実の未来なのだと、菁は信じていたから、彼女はその通りに生きたのだ。夢見の未来見は、確かに真実がほとんどだ。だが時折、その通りにいかない場合もある。それを《力》の強い者ほど信じない。菁もその一人だったし、そして菁の妹、葵さえも……。菁は夢見の《力》が強かったため、その夢見の不安定さを知ることがなかった。ただ、そういうことなのだ。
 菁のしたことは当麻家の人々に関わったことだけ。それが菁の意に反して、当麻傍系だっただけのことであった。いや、意に反してというのは間違いであろう。彼女は、そう夢見をしただけのことだから……。
 ただそれだけのことだったけれども、確かに楓や柊(しゅう)の胸の中には、ずっと菁がいた。少なくとも、楓は死ぬまで。そして、柊は当麻本家と寒河家の関係を知るまで。その後のことは、柊は何も語らなかった。だから、柊の心の中は誰にも知られることがなかった。


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