涼しい風が心地好く堂士の肌に当たった。堂士は空を見上げた。
(青い……)
 堂士はそのことに初めて気づいたように微笑んだ。
 足音が後ろから聞こえてきて、堂士は振り向かずに彼らを呼んだ。
「芳宜さん、葵さん」
 足音が止まった。
「秋が来ますね」
 堂士は空を見上げたままそう言った。
「1年で、一番好きな季節がやってきます」
 そう言ったのは、葵であった。芳宜は無言で堂士の背中を見つめていた。くるりと堂士が向き直った。
「芳宜さん、すべて終わりました」
 その顔に、やはり哀しげなものを浮かべたのは、芳宜に対する思いやりであった。
「あなたが寒河家の葵さんですね」
 堂士は葵に視線を移して言った。葵がハッとしたように堂士を見つめた。
「あの……あなたはもしかすると、諸見さんの所縁の方ですね」
 堂士はそれほど諸見に似ているわけではなかった。それならば、当麻家の人々は早くに気づいていたはずである。だが、葵は確信を持った表情であった。
 芳宜は驚いた顔を堂士に向けたが、その表情にはある程度予想していたという色を浮かべていた。当麻を倒す者は、やはり当麻の血が流れているのだ。そう思っていた芳宜であった。堂士は、葵に近づいて頭を下げた。
「父に代わってお詫びします、葵さん。私は当麻諸見の子、鳶尾です」
 堂士の肩に優しく葵の手が置かれた。
「鳶尾さん、お詫びなど必要ありません。私は諸見さんに謝られるようなことをされておりませんものね」
 顔を上げた堂士に、葵は優しげな微笑みで応えた。
「葵さん……」
 堂士は葵にもう一度頭を下げると、
「ありがとうございました」
 と言った。それは、諸見の代わりであった。堂士は葵の微笑みで、彼女もそれに気づいてくれたことが判った。
「芳宜さん、約束を守りましょう。私が当麻13代を継いだ、当麻鳶尾です」
 芳宜は、ハッと表情を変えた。
 さわさわと風が吹いてくる。木々の葉擦れの音がすべての音であった。
「私の当麻家は、13代で終わりです。これ以上系図は増えません。そして、当麻も13代で終わりです。芳宜さん、握手をしていただけますか。改めて、新しく当麻家の始祖となる芳宜さん、そして、葵さん、これからの歴史は、あなた方が作るのです」
 堂士はそう言って、芳宜の手を取った。
「堂士……いや、鳶尾さん、あなたはいったい」
 芳宜は戸惑いを隠すことが出来なかった。
「諸見が当麻家を出ていったのは、その宿命から逃れるため……。そして、私がここに来たのは、すべてを終えるため……。当麻家を消滅させるため。私はそれをしたかったわけではありません。ただ、諸見が選んだ道が、私をここに来させることになったのは確かですね。私はそれを宿命とは考えませんが、この当麻の悪しき血だけは受け継がせることをしたくないのです。芳宜さん、あなたは、当麻を受け継ぐことが難しい人でした。それを、あなたは恥じることはないのです。当麻を継げない、ということは、つまりあなたは、人間として生きていけるということですから」
 堂士は、にっこりと笑った。そして、握っていた芳宜の手をさらにギュッと握り締めた。
「そして、葵さん。私は、あなたを見た瞬間に、不安が飛び去ってしまいました。あなたのような方が、芳宜さんと一緒になってくださること、新しい系図の流れを造ってくださること……。私はホッとしています」
 葵が戸惑いながらも、堂士に微笑んだ。
「芳宜さん、葵さん、お別れです。あなた方の幸せを心より祈っております」
 堂士は、二人に軽く頭を下げた。
「鳶尾さん、あなたはどうするのですか」
 芳宜の言葉に、堂士は笑って首を傾げた。
「さあ、判りません。でも、生き続けるでしょうね。菖蒲が私を呼ぶまでは……」
 そう言って、堂士はくるりと背を向けた。そして、二人から遠去かる。芳宜と葵は呼び止めることをせずに、ただ、堂士の背中を見つめていた。
「芳宜さん、不思議だわ」
「えっ」
 芳宜が葵を見た。
「鳶尾さんの言葉が、嬉しいの。何故なのか判らないけど、とても嬉しいの」
 葵はそう言いながら涙を流していた。その涙を芳宜はそっと指で拭った。
 肩を抱かれた葵は口の端で笑っていた。それは、芳宜には見えない。
(本当に嬉しいわ。最大の難関であった当麻が消滅するとは。これほどシナリオ通りにいくとは、演じる役者が良かったのかしら。しばらくは当麻家を立てるけど、きっと波豆が当麻の抜けた座を奪うことでしょう。そう、知らぬ間に、この世界は波豆のものになっているのです。本当に芳宜さんでよかったわ。あのすべてを見透かすような瞳をした諸見さんが、私は恐かった。あの時は私が幼かったから気づかれずにすんだけど、諸見さんが出ていかなければ、私は……。そして、鳶尾さん。諸見さんが戻ってきたのかと思いました。でも、大丈夫。すべては、この手の上で。すべては私の動かす通りになるのです。もはや、私を脅かすものはありません。当麻13代が現れたとしても私の手の上でのことですから)
 葵の心の中を、芳宜は知らない。そして、堂士もそれを知らない。
 葵はその長い髪を揺らして、芳宜の腕に自分の腕を絡めた。
(10代波豆のこの私の手に、世界は乗っているのです)
 何代も前に、当麻家と邑楽家は手を結び、邪魔な家を消滅させていった。その最後が波豆家だったのだが、邑楽家以外で《力》を持った夢見の波豆家を消滅させた後、当麻家は結んだ手を外したのだった。当麻家は邑楽家が恐ろしかったのだ。当麻家には夢見は存在しない。そして、邑楽家の夢見の《力》は強かった。
 今から考えると、一方的に当麻家に非があった。だが、それを認めることをするはずはない。当麻がその記憶だけを受け継がすことをしなかったのは、そのためであった。しかし、邑楽もそれを受け継がさなかった。9代波豆の淡河を殺した、5代邑楽の綴喜によって。それは、綴喜にとっては唯一の汚点だったからだ。だから、当麻と手を結んだことも、そして、その時何をしたのか、ということも受け継がさなかったのだ。そしてただ、二家の確執だけが代々受け継がれていきそして今、それが終わったはずなのだ。そう、当麻家消滅という出来事によって……。
 そして、それを書き上げた葵によって……。
 そのお互いの思いを知らぬまま、芳宜と葵はふと顔を上げた。二人が見上げた空に、鳶が輪を描いて飛んでいた。


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