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しばらく堂士はその場を動かなかった。 そこに屋敷があったとは信じられないような風景であった。森の中にぽっかりと空いた平地、というところか。回りの木々は何の損害も受けてはいない。結界の中だけが、まるで元々そうであったと思わずにはいられない状態になっていたのである。 堂士はその空き地の中程に歩いていった。そして、地面を手で何かを探すようにまさぐった。やがて、把手を見つけて、堂士はそれを引っ張った。 ギィーと開いて、薄暗い部屋に外の光が射し込んだ。 「綾歌」 堂士はためらいなくその名を呼んだ。 「やっとじかにお目に掛かれたな、鳶尾殿。お会いしたかったぞ」 「結界の中にあって、よく無事でしたね。結界の中の結界ですか」 外の光が射し込まない死角に、綾歌は座っていた。 その部屋だけ重力がねじ曲がっているのか、堂士は地面にあった扉を開いたにも関わらず、そのまま違和感もなしに部屋の中に入った。 「綾歌、あなたがすべてをお膳立てしたのですね」 堂士は淡々と言った。綾歌はしわだらけの顔に微笑みを浮かべた。 「当麻家を消滅させたかったのですか、綾歌。諸見に父に、手を貸したのもあなたなのですね」 綾歌は堂士に座るように促した。 「鳶尾殿、わしは当麻家の夢見であった。だが、それはわしの本当の名ではなかった。ただ、そういうことであったのだ」 堂士が綾歌の前の椅子に座った。夢の中に出てきた姿そのままに、綾歌は堂士の前にいた。 「あなたは邑楽家の人なのですね」 「わしは、生まれてすぐに、当麻家にさらわれたのじゃ。当麻11代の伴侶としてな。だがそれは実現しなかった。邑楽家の夢見と当麻とは決して結ばれることがないのじゃ。その意味は、わしにもよくは判らぬ。何代も前のことが原因としか知らぬ。鳶尾殿、邑楽もわしも、両家の確執の原因を知らないのじゃよ。当麻は覚えているのかな」 堂士は首を振った。 「当麻も知りません。きっとお互いにその原因の記憶だけを受け継がさなかったのでしょうね。おかしいとは思いますけど、いまさらどうにもなりません」 「やはりそうか。わしの思った通り当麻も知らなかったのじゃな。では、本当に第三者の介入があったのかもしれぬな」 綾歌は呟くように言った。 「きっと父は、それを疑問に思ったのでしょう。綾歌、そうなのでしょう。だから、邑楽永覚さんと交流があった。互いに親友と思えるほどに親しかったのですね。それを父に使嗾したのはあなたなのでしょう」 綾歌は堂士に微笑みかけた。 「諸見殿は、わしに関する記憶は受け継がさなかったのじゃな」 「ええ、今になって初めて知りました。父は何故、あなたのことを教えてくれなかったのでしょうか。あなたのことを知っていれば……ああ、そうか」 堂士はハッと気づいた。 「きっと、そうなのでしょうね。あなたのことを知らなかったからこそ、私はここに来たのです。こうなることが判っていたのでしょうか、諸見には……。それとも、あなたが父にそうさせたのですか」 綾歌は微笑んだまま何も言わなかった。そのまま、二人はしばらく見つめ合っていた。 やがて、綾歌は表情を真顔に戻すと、 「祥吾殿に、邑楽を継がせなかったのは何故じゃ、鳶尾殿」 と言った。綾歌の言葉に、ちょっと表情を変えたが、堂士はすぐに表情を戻して綾歌を見つめた。 「気づいていましたか、やはり」 それには、苦笑が混ざっていた。 「永覚殿には、封印を解くようにと言われたのであろう」 堂士はしばらくの間、無言で綾歌を見つめていた。 「私は確かに祥吾さんの封印を解きました。表面上の封印を。それが、永覚さんの希望だったのです。すべての封印を解くことを永覚さんは望んでいなかったのです。いえ、たぶん、父と永覚さんとの約束の封印はあれで完璧なはずです。まだ祥吾さんに封印がされている、というのならば、それはきっと、永覚さんが行ったものでしょうね。そして、それは私には解けないはず。でも、綾歌、あなたもそれで良かったと思っているのでしょう」 綾歌は微笑んだまま何も言わなかった。 「当麻だけでなく、邑楽さえも消滅させたかったのですね。それが本当だとすれば、つまり邑楽は消滅したと言えるのですね。後は、私とあなたが消滅すれば、当麻もその歴史を終えます。当麻を受け継がない芳宜さんは、寒河家の葵さんと新しい系図を始めるのですね」 堂士はそう言ってホッと溜め息をついた。 「あなたはずっと、それが実現するのを待っていたのですね。邑楽家の夢見として……。でも、どうして父にそれを頼まなかったのです。父ならば、このように長い間待たなくてもよかったのではありませんか。父には粃を倒すことが出来たはずです」 二人は哀しげに互いを見つめていた。綾歌は目を閉じたまま、堂士は目を開いたまま。 「何故、かな。いや、諸見殿には粃殿を倒すことは出来なかったであろう。確かに諸見殿のほうが、粃殿よりも《力》は強かった。だが、諸見殿には父親を殺すことは出来なかったのじゃ。鳶尾殿、そう思うのは間違いかな」 綾歌の言葉に、堂士は辛そうな顔をした。 「綾歌、私は何と言っていいのか判りません。たぶんそれは正しいと思います。確かに父は、優し過ぎたのでしょう。彼の弱さが、私がここにいる理由なのだと今は判ります。でも、私はそのために、菖蒲を失ってしまいました。私はあなたを恨みたいのです。私が失くしてしまったものは、あなたが思っている以上にあまりにも大きいのです」 堂士は目を逸らして言った。 「お別れじゃな、鳶尾殿。わしの時は、とうに終わっておったのじゃ」 綾歌がポツリと呟いた。ハッと堂士が見動ぎした。綾歌が立ち上がって、見えぬ目のまま、ためらいなく光の射す場所に歩いていった。 「鳶尾殿、そなたは急がれることはない。菖蒲殿のためにも、まだ生き続けなければならぬよ。芳宜殿との約束も守らなければならぬ。鳶尾殿、わしを恨んでもよいぞ。いや、そう言うのは酷かな。わしはもはや消え去るのみだからの。わしはやっと眠りにつくことが出来るのじゃ。感謝しておるぞ、鳶尾殿。わしは諸見殿が気に入っておった。そして、そなたに会うのを、諸見殿に聞いた時から、楽しみにしておったのじゃよ。そなたに会った時間の短さは、確かにほんの数十分でしかないが、しかし、人の一生分にも相当するかもな。わしにとってはな、鳶尾殿。諸見殿は約束を守ってくれた。決してわしのことは、そなたたちには言わないでくれと頼んでおったのじゃ。そしてわしは鳶尾殿に会えて、やっとわしの時を終えることが出来る」 堂士の目の前の綾歌は、光の中で徐々に薄れていった。 「この世界は、表も裏も動き続けている。当麻や邑楽が消滅したところで、すぐにその座は他の者で埋まるであろう。それはどうすることも出来ない。それが歴史の流れというものじゃな。その一部でしか我らは存在出来ないのじゃ。泡沫のように儚くな」 綾歌はその姿を消す瞬間、堂士に微笑みかけた。温かい微笑みであった。 綾歌の記憶は、堂士には流れ込んでこなかった。堂士は、綾歌がそれを望まず、誰にも受け継がすことをしないのが判っていた。 (これで終わりなのだ) 堂士は外へ出た。その部屋の把手は、堂士が外に出るのを待っていたかのように、消えていった。
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