堂士は傍らに寄り添っている菖蒲に、ちょっと笑いかけて、また粃に視線を戻した。
「お祖父様、あなたは父に期待し過ぎたのですね。それを今では間違いと判っているのでしょうけど、一番の過ちは、私たちを放っておいてくれなかったことです。何故、私たちを呼んだのです。呼ばなければ、私はここへ来ることもなく、あなたの当麻家も消滅することもなかったのですよ。あなたが、それを選んだのは何故なのです」
 堂士の顔に再び哀しげな表情が浮かぶ。もう元には戻れないと判ってはいても、堂士はまだ心のどこかでそれを望んでいるのだ。
「綾歌が、当麻家が消滅するかどうかの瀬戸際だ、と言ったのだ。そして、やはりお前たちは、わしらにとって障害なのだ」
 香散見はずっと粃の側にいた。菖蒲が堂士の側にいるように。香散見は綾歌の忠告を思い出せなかった。
 粃の右手に淡くボウッと光る球体が現れた。堂士はそれに気づいたが、思いは他のほうへ向いていた。
(綾歌、か。その夢見がすべてを握っているのか)
「お兄様」
 菖蒲が堂士の袖を引っ張った。
「菖蒲、私はお前を守るから、お前は何もしないで欲しい」
 堂士の言葉は明るかったが、その本心は暗かった。菖蒲に《力》を使わせてはならないのだ。それは、絶対に避けなければならないのだ。
 菖蒲は頷くと、堂士の後ろに下がった。すでに堂士の右手にも白い球体が現れていた。菖蒲は必死に祈っていた。兄の勝利を祈っていた。
 菖蒲は自分に《力》があることを知らない。堂士は菖蒲の封印は解いたが、その封印は二重になっていたのだ。堂士は菖蒲に《力》を使わせないために、その記憶を封印していた。
 眩しいという以上の光源が、一瞬視力を無くさせた。堂士と粃の二人から放たれた《力》は二人の間でぶつかり合った。そして、両方に弾けた。
「お兄様?」
 菖蒲は二、三度目を瞬かせると、兄の姿を探した。堂士は目の前に膝をついていた。
「菖蒲、大丈夫か」
 堂士の声はしっかりしていた。だが、菖蒲は兄の姿を見て、ハッと顔色を変えた。
「怪我をなさったのですね」
 菖蒲をかばった堂士は、体のあちこちに傷を作っていた。堂士は、口の中から流れ出た血を吐き出すと、粃のほうを見た。粃は立っていた。その傍らに香散見の倒れた姿がある。綾歌の忠告を忘れていた香散見は堂士の《力》をもろに受けたのだ。
「楯にしたのか」
 堂士は傷を堪えて立ち上がった。粃は無傷といってもよかった。堂士が菖蒲を守るため彼女の前に立ったように、粃は己を守るために香散見を楯にしたのだ。その代償としては香散見は安かったのか、高かったのか。香散見の無残な姿に、僅かながら顔を歪めたのは粃にとって演技だったのかもしれない。
「お兄様」
 立ち上がった堂士は、ふらついて倒れかけた。菖蒲が慌てて堂士を支えた。
「鳶尾」
 粃が初めて堂士の本名を呼んだ。
「やはり、当麻13代を継ぐべき者なのじゃな。その《力》は素晴らしい。さあ、この手を取れ。13代を改めてわしは迎えよう」
 粃は嬉しげに右手を差し出した。堂士がその右手を憎悪の視線で貫いた。
「当麻12代、当麻粃。私は、決してあなたの手を取ることはない。その血塗られた手など、私は決して取りません」
 粃がグフフ、と笑った。
「当麻には勝てぬ。ましてその姿ではな。今の一撃でほとんど《力》は残ってはいまい。お前がわしの慈悲をあえて拒絶するならば、やはり死んでもらおうか。当麻のためには、本当に惜しいが」
 粃の右手に再び白い球体が現れだした。
「私たちを呼び、歴代の当麻の流した血のことを後悔していただきましょうか」
 堂士は倒れかかる体をやっと支えている状態であった。粃の攻撃を避けることさえ出来そうになかった。それでも、堂士はしっかりとした口調で言った。
 堂士の前がすっと暗くなった。ハッと堂士が顔を上げる。
「許しません。お兄様を傷つけたのが誰であろうとも」
 菖蒲であった。粃は戦いの相手としての菖蒲は無視していたが、人間としての菖蒲は無視することは出来なかった。香散見がいなくなった今、菖蒲は粃にとって必要であった。
「菖蒲、さあ、こちらへ来い」
 菖蒲は粃の足元に倒れている香散見に視線を落とした。
「あなたには、慈悲という言葉を使う資格などありません」
 菖蒲は両手を胸の前で合わせた。それに対して顔色を変えたのは、堂士であった。
「菖蒲、いけない。お前は」
 堂士の言葉は、菖蒲には届かなかった。
(何故、封印が解けたのだ)
 不審に思う堂士の回りに透明なドームが出来た。菖蒲が堂士を囲むように結界を張ったのだ。
 菖蒲は自分に《力》があることを知った。その《力》を使えば、自分が消滅することも知った。封印を解いたのは、堂士の傷ついた姿と、香散見の倒れた姿であった。それが網膜に映った瞬間、菖蒲の箍が外れたのだ。
 菖蒲はその一瞬前、堂士のほうを振り向いた。透明なドームの中で、必死に叫んでいる堂士に、菖蒲はにっこりと笑いかけた。
 そして、世界は真白に輝いた。
(19年前と同じだ)
 堂士はそう思った。そして、その視界が元に戻った時に何が見えるか、堂士は我知らず目を閉じていた。
(菖蒲……。お父さん、お母さん、すみません。私は約束を守れませんでした。菖蒲を守れませんでした)
 堂士は長い間目を閉じていた。
 ふと、風が通り過ぎたような気がした。堂士の中に二人の記憶が流れ込んだ。
(19年前と同じだ)
 堂士はまた思った。あの時は両親からの記憶だった。その時は拒むことも出来なかった。拒むつもりもなかったが、19年前、堂士は両親の記憶を受け継いだ。
 今、堂士に記憶を受け継がそうとしているのは、粃と菖蒲であった。堂士は、反射的に粃の記憶を拒否しようとしていた。
「お兄様」
 菖蒲の声が聞こえた。堂士がハッと目を開けた。ドームはすでに消えていた。回りには何もない。何も……。
「菖蒲」
 堂士の声に菖蒲の声だけが応えた。
「お兄様、当麻を受け継いでください。あなたが受け止めないと、悪しき当麻の記憶が浮遊してしまいます。それが誰に使われても、お兄様、これ以上言わないでもお兄様にはお判りでしょう」
「菖蒲、私は、お前を守れなかった。私が一番守りたかったものを守れませんでした。私の一番大切なものを……」
 堂士の目から涙が溢れた。
「お兄様、私は幸せでしたわ。そして、これからもずっとお兄様とともにいられるのですから。お兄様は、いつまでも私とともにいられるのです。これからは、私がお兄様をお守り出来るのですわ」
 もうすでにその姿がない菖蒲が、堂士に笑いかけた。
「菖蒲、判っています」
 そして、堂士は13代当麻を継いだ。


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