土師家に戻った堂士を迎えたのは、菖蒲の哀しい微笑みであった。堂士はその菖蒲の態度が気になった。離れに入った二人は、黙って椅子とベッドの端に座った。
「お兄様、すみません」
 菖蒲が頭を下げた。堂士が不審げに菖蒲を見つめる。菖蒲はその目を堂士に向けると、
「私、お兄様と伯母様とのお話を聞いてしまいました。今朝、お二人で話されているのを盗み聞きしたのです」
 堂士の表情が一瞬のうちに変わった。微笑みから驚愕に、いや、苦悩に。
「伯母様には何も言っておりません。お兄様、私は恐くはありませんわ。私の知らないことを教えてください。……夢を見るのです。いつも同じ夢を。私は生まれて間もなくて、お兄様の腕に抱かれているのです。回りは、雪で真白で。その光景がまるで写真のように時が止まっているのです」
 堂士は、菖蒲を見つめたまま呆然としていた。その光景は、まさに両親が殺された時のものであった。
 堂士の脳裏にまた19年前の惨事がよみがえる。
 諸見が、石蕗が殺された瞬間、堂士の中に二人の記憶が流れ込んだのだ。諸見からは、当麻としての記憶がすべて、石蕗からは、ただ『菖蒲をお願いね』の一言だった。そしてその一瞬後に、堂士はすべての記憶を理解し、またその一瞬後には、両親と巻き添えになった朱美の仇を取った。
 菖蒲に封印をしたのはその後であった。
「菖蒲……」
 辛うじて呟く、といった感じで、堂士は次の言葉が出せなかった。
「お兄様、私は自分のことが知りたいですわ。これまではお兄様が話されるまで待とう、と思っていましたが、お兄様お一人が辛い思いをなさっていると思うと……」
 菖蒲は堂士の側に座ると、兄の手を取った。
「お兄様、私はどんな辛いお話でも構いません。私の封印を解いてください」
 菖蒲の目は、まっすぐに堂士を見つめていた。堂士の心は乱れていた。
「菖蒲、私は、お前にそう言われても、どうしても封印を解きたくないのです。お前に辛い思いをさせたくないのです」
「お兄様、私はお兄様お一人が苦しまれているのを見るほうが辛いですわ。その痛みを私にも分けてください。それが出来ないのなら……お兄様、私は、このことを言う前に覚悟をしていました。お兄様がお話しになられないのならば、私はお兄様の前から永遠に姿を消そうと……」
「菖蒲」
 堂士は菖蒲の肩を掴んだ。
「私はそれだけの覚悟をしているのですわ。それなのに、お兄様は私を信用してくださらないのですか」
 菖蒲の真摯な表情に、堂士はやがて溜め息をついた。
「判りました、菖蒲。お前の封印を解きましょう」
 その言葉に、菖蒲は真剣な表情のまま少し微笑んだ。
 堂士の右手が菖蒲の額に触れる。ぼうっと青白い光が指先から流れ出た。
「封印のキーワードは、鳶尾。当麻鳶尾」
 堂士の口から、呟くように言葉が零れた。菖蒲の閉じた目からすうっと涙が流れる。菖蒲はそのまま見動ぎもしなかった。
「お兄様」
 やがて、菖蒲が目を開いた。堂士の指先がその頬の涙を拭った。
「お兄様は、お一人で背負っていらっしゃったのですね。私の分まで……」
 菖蒲が堂士の隣に座って、頭を肩にもたれさせた。堂士が懐から何か取り出して、菖蒲に渡す。
「これは……」
 菖蒲が驚いたように、堂士を見上げた。
「19年前に、野村さんが撮ってくれた写真です。今ではたったこれだけしか、両親の写真はありません。菖蒲には見せたことがなかったですね」
 菖蒲は瞬きもせずに写真を見つめていた。そこに写っているのは、諸見と、菖蒲を抱いた石蕗、そしてその前に堂士。
「これが、私の両親なのですね」
 菖蒲は呟いた。堂士の言った通り菖蒲は両親の写真を見たことはなかった。この世でたった1枚のその写真の中では、幸せそうな家族が写っていた。封印を解かれたことで、菖蒲には石蕗の記憶がよみがえってきていた。だがそれは、記憶のみであって、菖蒲が体験したことではないのだ。
「お母様、お父様、やっとお会い出来ましたわ」
 菖蒲は嬉しかった。これで両親の面立ちを覚えて、思い出すことが出来るのだ。それが嬉しかった。
 菖蒲は堂士に写真を返した。
「これは、お兄様が持っていらしてください」
 堂士は写真を懐に戻した。菖蒲は堂士を見つめたまま、
「当麻家にいらっしゃるのでしょう」
 と言った。菖蒲の言葉に堂士の心は後悔の芽を萌した。
「お兄様、今度は私も参りますわ」
 それを拒絶することは、もはや出来ないことを堂士は知っていた。だが、堂士は首を振る。
「菖蒲、私は当麻家の血そのものを絶やしてしまいたいのです」
「知っています」
「……だから、お前だけは」
 菖蒲の手が、堂士の髪を掻き上げてその口を封じた。
「もうそれは言ってはならないのです。お兄様、あなたがどう言い繕うとも、私にも当麻家の血が流れているのですから。それがどんなに汚いものだとしても、私は、両親から受け継いだこの命を誇りに思いますわ。お父様とお母様が望んで生んでくださったのですから。ねえ、そうでしょう、お兄様」
「菖蒲」
 それが自然なように二人の唇が重なった。
「伯母様に謝らなければなりませんね」
 菖蒲がそう言って堂士にもたれ掛かった。


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