冬野はまだ綾歌の前にいた。
「冬野殿、もう遅いかもしれぬが、御母衣家へお帰りなさい」
 ドアがギィッときしんで開いた。冬野は体が勝手にドアのほうへ行こうとしているのに気づいた。
「綾歌さん、私は……」
 冬野の目の前で、ドアが閉まった。閉じるその間に冬野は綾歌の顔に微笑みが浮かんでいるのに気づいた。それが誰のためになのかは、冬野には知ることが出来なかった。
「御母衣家の冬野様、綾歌への用事はお済みですか」
 冬野がハッと後ろを振り向くと、艶然と笑いを浮かべている香散見の姿があった。
「お帰りになりますわね」
 香散見は拒絶出来ない口調でそう言うと、冬野の返事を待たずにさっさと歩き出した。
 冬野の頭の回転は先程から停止していた。何故、当麻家に来たのか、私はいったい何をしていたのか。記憶が消されたわけではなかった。冬野の心の中にぽっかりと穴が空いただけであった。
「御母衣家の冬野様」
 香散見が玄関のドアの前で冬野を振り返った。その右手が冬野の額にそっと触れて、ドアのノブのほうへ移動した。
「では、失礼いたします」
 香散見が冬野を外に送りだすと、優雅に一礼してドアを閉めた。
 冬野は自分の車のほうへ近づいた。運転手のゆみ子が後部座席のドアを開けると、冬野は黙って中に入った。ゆみ子はすぐに車を発進させる。
「ゆみ子さん、まっすぐに御母衣家へ帰ってちょうだい」
 そう言って冬野はシートにもたれかかって目を閉じた。ゆみ子がその寝顔に微笑んで、軽快に車を走らせた。
 冬野の脳裏に祥吾の姿が浮かんだ。祥吾さんに会わなければ、と冬野は思った。だが、それは実現することが出来なかった。
 冬野は車に揺られながら死出の道に旅立ったのである。


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