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台所のドアを開ける一瞬前、諸見は気温がぐっと下がったのに気づいた。 「石蕗、朱美さん」 ドアを蹴破るようにして開けると、笑い顔の二人が立っていた。そう文字通り立っていたのだ。一ミリたりとも動こうとせず。氷の標本であった。諸見は、その術を施した者が近づきつつあるのを感じながら、石蕗に両手を翳した。そして、次いで朱美にも同様のことをした。 「石蕗、やはり来たよ」 諸見は、意識の戻った朱美を椅子に座らせた後、石蕗の側に寄った。 「やはり、巻き込んでしまったな」 諸見の右手を石蕗の両手が包み込んだ。 「あなた、子供たちは……」 諸見は何も言わずに頷いた。諸見の態度に石蕗もゆっくりと頷いた。 「早く朱美さんたちを安全な場所に」 「石蕗。私もそうしたい。でも残念だがもう遅い」 諸見の言葉に応えるように、台所の壁に穴が開いた。それこそ突然に、ぽっかりと。 朱美は呆然と見つめていた。出すべき言葉をなくしていた。 そこに現れたのは、一人の男であった。スーツの良く似合う、甘いマスクの青年。彼はにこっと笑った。 「初めまして、諸見さん。私は、当麻家の傍系、当麻柊と申します。年はあなたより3歳年上の26です」 完璧なまでの礼を持って柊は言った。諸見が不審の目を柊に向ける。その視線を受けながら、柊は一つ頷いた。 「ああ、そうでしたね。あなたは完全には当麻を継がれていないのでした。我ら、当麻傍系は要するに実戦部隊なのですよ。そして私がその当主であり、今現在は唯一の傍系の血を引くものです」 私には子供がまだおりませんからね、と諸見より少し年上の柊は付け加えた。 「それで私を消しに来たか」 柊の優しげな顔を見つめて諸見は言った。 「ええ。1年も探し続けましたよ、諸見さん。ちょっと大変でしたね。12代当麻にはせっつかれましたからね」 全くそう思っていないような口調で、柊は言った。その視線を二人の女性に移した。 「奥様とお友達ですか。奥様はともかく、お友達の方には気の毒ですが」 と柊は口を噤んだ。それが、憐れみではないことはその口の端の笑いで判った。 「柊、私以外は関係ないだろう。二人をここから出ていかせてくれ」 諸見の言葉に柊は冷笑で応えた。 「それは出来ませんね。奥様にはお子様がおられるかもしれませんし、お友達の方は、もうすでに私の存在を知ってしまいました。それ以上に諸見さん、あなたと一緒にいることが罪なのです」 「罪だと」 諸見の唇が震えた。その顔を見て柊は嘆息した。 「諸見さん、当麻家と当麻ですべてを手に入れることが出来るのに、何故、当麻家を出たのです。私には理解出来ませんね」 諸見は無言であった。諸見の右手に白っぽい球体が大きくなっていった。 「やれやれ、死に急がれるのですね。私としては、もっとあなたと話し合いたいと思っているのですよ、諸見さん」 柊の言葉を諸見は無視した。精神集中に専念したかったのだ。 「しかたないですね。あなたの《力》が本来のものならば判りませんが、でも、私には勝てませんよ。特に今のあなたには無理でしょうね。いくらあなたが当麻12代よりも、《力》を持っていると言っても所詮、私には及びません。私は、当麻傍系は、当麻の影になりながらそして、当麻を支えてきたのです。それ以上に、何のためにあなた方を氷漬けにしたと思うのです」 諸見がハッと気づいたがもう遅かった。二人を氷漬けから助け上げたことで、諸見の《力》は半減している。 「諸見さん、あなたは当麻を継がなければならなかったお方です。当麻の期待を裏切った罪は重いですよ」 柊はなおも喋り続ける。諸見にとって時間は貴重であった。緩やかにではあるが、時が《力》を与えてくれる。柊はそれを知っているのだ、ということにも気づいて、諸見は僅かに眉をひそめた。 「あなたには未だ当麻の記憶が完全にはありません。それを知っていれば、私が来ることが判ったでしょうに。しかたありませんね、当麻は先代が死なない限りその記憶を譲らないのですから」 柊が諸見に一瞥をくれて、 「しかし12代は、あなたに甘過ぎたのですね。少しだけではありますが、当麻の記憶を喋ったのですから。まあ、その気持ちも判らなくもありませんけど」 と呟くような低さで言った。 「そのせいであなたは私に消される羽目になるのですね。ということは、これは12代の罪ということにもなる。ふむ、そうか、それは今後考えましょう」 柊は独り言のように言った。 「諸見さん、私はあなたが13代当麻を継ぐはずだったから、当麻傍系を継いだのですよ。もちろんもう一つほど理由はありますが……。なのに、あなたはそれから逃げました。私の夢を壊してしまったのはあなたです。私は、あなたを苦しいほど気に入っていましたのに」 柊はそう言って笑った。諸見はただ無言であった。 「諸見さん、13代候補の芳宜さんは、あなたとの格差があまりにもあり過ぎます。香散見さんならばまだましなのですが……。寒河家にこだわる12代の思いも判りますがね。12代がもう少し若ければ、血を濃くすることも一つの手ではあったでしょう。諸見さん、傍系の私は、決して表に出ることが出来ないのです。だから、当麻13代は、どうしても諸見さんに継いでいただかなくてはならなかったのです。私は、あなたを恨んでいるのです。私は傍系に生まれたばかりに、このような生き方しか出来ないのです。当麻になれたならば、すべてをこの手に入れることが出来たのに。残念ですよ、本当に。当麻が12代でほとんど意味を持たなくなると思うと」 「では、当麻を倒して表に出ればよいではないか」 諸見の言葉に、柊は一瞬、考え込んだ。 「ああ、そうですね。そのような手があったのでしたね」 柊は妙に納得したような表情を浮かべた。 「でも、私には当麻を倒すことは出来ません。何故なら、私は当麻には決してなれないからです。当麻が消えると、当麻傍系も消えてしまうのです。その反対は知りませんが。私は、そういう宿命の許に生きているのです」 柊はにっこりと笑った。哀しみなどない、邪気のない笑顔であった。その顔を見つめて諸見は柊が哀しいと思った。たったこれだけの出会いで諸見は柊の本心を見た気がした。 そして、それが訣別の合図だったのだ。 その時は一瞬でしかなかった。 三人の網膜に最後に映ったのは、閃光のような青白い光の渦であった。 そして、もう一人が最後に見たのは、三人の二瞬後ぐらいに、突然目の前に現れた男の子の姿であった。意識の薄れるその一瞬に柊は、 「会えましたね。そして、あなた受け取ってくれるのですね」 と呟いた。子供のいない柊は、つまりは当麻傍系はこの時に消滅したのだ。
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