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 19年前。
 辺り一面、真白な雪景色であった。その中に子供の声が響いていた。大人の男の声も聞こえる。
「お父さん、早く雪合戦の人数が増えたらいいね」
 そう言っているのは男の子であった。それは、堂士4歳。鳶尾と呼ばれている。
「そうだな、菖蒲はまだ赤ちゃんだし、菖蒲が大きくならないと、お母さんも参加出来ないからな」
 笑いながら軽く雪玉を堂士に向かって投げているのは、23歳の諸見である。短く刈り込んだ黒髪に、僅かに鳶色がかった瞳。当麻13代を継ぐはずの若者は、当麻家を出てから北の国にいた。
 諸見は服についている雪を払いながら、堂士に近づき子供の雪も払った。
「鳶尾」
 と諸見は堂士を抱え上げた。
「重くなったな、鳶尾」
 諸見の腕の中で堂士が微笑む。諸見は堂士をそっと雪の上に下ろすと、その手を引くようにして家路についた。
「お父さん」
 と堂士が父親の手をギュッと握って言った。
「うん」
 諸見が目を向けると、
「楽しかったね。もっと人数が多かったら、もっと楽しかったのにね」
 と堂士が無邪気に笑った。諸見はその笑顔を見て、心の中で痛みを覚えた。
 隠遁、とでもいう生活をしているのだ。同じ年頃の友達も出来ないであろう。だが、街に下りることも出来ないのであった。それは己だけの問題なのだが。石蕗も子供たちも、自分に関係あると知られない限り安全なのだ。
「お父さん、僕は、お父さんとお母さんと菖蒲といることが、とても、幸せだよ。特にお父さんがずっと側にいてくれることがね」
 父親の思っていたことに、気づいたわけではないだろう堂士がそう言った。諸見は再び堂士を抱き上げて頬ずりをした。
「お前たちは、私の宝だ」
「僕も、お父さん。僕もみんなが僕の宝物だ」
 諸見の顔にスッと緊張の色が浮かんだ。堂士が首を傾げて、
「どうしたの、お父さん」
 と言った。諸見が堂士の前髪を掻き上げた。
「鳶尾、お前は男の子だし、お兄ちゃんだ。だから、菖蒲をずっと守るんだぞ」
 父親の真剣な表情に、堂士がにこっと笑って言った。
「もちろんだよ」
 諸見は息子を再び雪の上に下ろした。
「お父さん」
 と、しばらく歩いた後に堂士が諸見を見上げた。息子に優しい目を向ける諸見に、堂士はちょっと考えて口を開いた。
「お父さん、何か心配事があるんでしょ。僕にはお手伝い出来ないの。僕にお父さんの心配事を取り除くお手伝いは出来ないの」
 しばらく諸見は黙って歩いていた。その右手を堂士の頭の上に置くと、ポンと一つ叩いた。
「鳶尾、お前は心配しなくてもいい。何の心配事もないんだから」
 そう言いつつ、諸見は心の中は暗かった。自分の記憶を、当麻の記憶を息子に受け継がすことが必要だろうか。それとも封印を施して、ただの当麻鳶尾として生きて欲しいのだろうか。諸見はそれをずっと考え続けているのだ。
 封印を施すことをまず考えた。だがそれは封印が何かの拍子に解けたことを考えて実行しなかった。封印が何も知らない状態で解けてしまったら、その衝撃は大変なものだろう。おそらく、自分を見失ってしまうのではなかろうか。その時に自分が側にいればいい。だがそれは不可能なのだ。そう考えて、諸見は封印のことは諦めた。
 それ以外の道といえば、当麻の記憶を受け継がすかあるいは、全く受け継がさないか。だが、諸見には堂士に受け継がす道しか選べなかった。約束を破ることが出来ないからである。それを実行する時が来なければいいのに……そう思っている諸見であった。だが、それは意外に早いのかもしれない。いや、意外ではない。諸見が当麻家を出てから、その時はいつでも遅くはなかった。
 二人は我が家に近づいていた。
「お父さん、車があるね」
 堂士が家の前を見て言った。諸見も車を運転するが、諸見の車ではないものが家の前に止まっていた。
「誰か、来たのかな」
 嫌な予感を感じながら、諸見は我が家に近づいた。
「ただいま」
 堂士が先に走って玄関を開ける。慌てて諸見が堂士を止めようとしたが、それは間に合わなかった。
「お帰りなさい」
 諸見の予感は外れた。優しげな石蕗の声が家の中から響いてきた。
「ただいま」
 諸見が玄関に入ると、石蕗が出てきた。
「お客様なの。ごめんなさい」
 最後の言葉は小さめに石蕗は言った。石蕗は諸見が人前に出ることを嫌うのが判っていた。その理由も。だから、謝ったのだ。
「湖の写真を撮りにいらっしゃって、車の調子がおかしくなられたそうよ。あなた、後で見てあげてね」
 諸見は居間に入っていった。そこには、堂士が二人の男女の前に立っていた。
「突然にすみません。私は野村康裕といいます。東京でカメラマンをしています。これは妻の朱美です。この近くの湖を撮りに来たのですが、帰ろうとしたところ、車の調子がおかしくなってしまって。近くに民家があったので本当に助かりました」
 若い男女であった。二人は、諸見が入ってくるとソファから立ち上がった。
「当麻諸見です。これは息子です」
 言葉少なに諸見は言って、二人に座るように勧めた。
「すみません」
 と言いつつ二人は座った。
「車は明日見ましょう。今晩は家に泊まってください」
 諸見の言葉に、二人は恐縮して頭を下げた。
「さあ、夕飯にしましょう」
 石蕗が四人を呼びにきた。


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