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そして、その少し前。
冬野は香散見に従って屋敷の中に入った。
どこをどう歩いたかなどと考える余裕はなかった。香散見は相手が老婆ということを考えていないのか、さっさと歩いていた。
やがて、一つの部屋の前に香散見は立ち止まった。
「お父様に言われましたから、ご案内しました。本来ならすでに死んでいるのですよ、御母衣家の冬野様。それに綾歌に会えるなんて……。私でさえ会わせていただけないのに」
最後の一言はまるで愚痴のように香散見は言った。
「中は暗いですよ」
香散見がそう言って、冬野を扉の前に残してスタスタと歩き去った。
冬野は扉の前で呼吸を整えた。そして、静かにノックをする。
「どうぞ」
中からの声に、冬野は扉を開けた。
「やはり来られたか。御母衣家の冬野殿、扉を閉めてこちらへどうぞ」
中は香散見が言った通り暗い。淡いスタンドだけがこの部屋の明かりのようであった。冬野は扉を閉めると、目を凝らして椅子を見つけた。綾歌は、閉じている目でジッと冬野を見つめていた。
「御母衣家の冬野殿、あれほど警告したのに何故いらした」
綾歌の声には哀しげな色が混じっていた。他人の前で声に感情を入れるなど、綾歌にあるまじきことであった。だが、冬野はそれを知らなかったし、それを考える余裕などなかった。
「それは……」
冬野が薄暗さに馴れてきた目で綾歌を見た。
「わしは、他の誰よりもそなたにだけは会いたくなかったのじゃよ。御母衣家の冬野殿、いや、邑楽家の、と言い直そうかの」
綾歌の言葉に冬野はハッとした。
「やはりあなたは邑楽家に関係あるのですね。何故なのです。何故、あなたは当麻家の夢見なのですか」
綾歌は哀しげに冬野を見つめる。
「それを一言でお話しすることは出来ぬな。冬野殿、そなたは夢見故、邑楽の記憶を受け継がない。では何故、当麻家に敵するのじゃ。いや、それ以上に何故、当麻家のことを知っておるのじゃ」
冬野はキッと顔を上げた。
「私は兄から聞きました。邑楽家と当麻家との確執のことを」
「すべて?」
綾歌がジロリと冬野を見る。
「え」
「すべて聞かれているなら、わしのことも判るはずじゃな」
冬野はハッとした。
「すると、兄の話したことは全部ではなかったのですか」
「本当のことを話したかどうかもな。邑楽ともあろう者が、妹とはいえ邑楽を継げぬ者に話すわけはなかろう。そうではないかな、冬野殿」
冬野は口を噤んだ。
「冬野殿、お座りなさい。少し話をしようか」
綾歌の言葉に、冬野は綾歌の向かいに座った。綾歌が閉じている目を少しの間、冬野から逸らした。
「わしは確かに邑楽家の血を引いている。冬野殿の想像している通りにな」
冬野の目がやはり、という色を浮かべる。綾歌は冬野に目を戻した。
「わしは、冬野殿より1代前の人間じゃよ」
綾歌の言葉に冬野が目を見張った。
「わしはな、生まれてすぐに当麻家にさらわれたのじゃよ。確か、わしの弟がその時に17代邑楽を継いだ、そなたの父にあたるはずじゃ」
冬野は何も言えず、綾歌を見つめていた。
「冬野殿、わしは、生まれた時から当麻家の人間じゃ。しかし、夢見であったお陰でわしはすべてを知った。わしに邑楽家の血が流れていることをな。そして、邑楽家の将来さえもわしには判る。そなたの夢見の《力》はあまり強くはない。せいぜい人の夢に入っていける程度じゃ。本来の夢見とは、未来見のことじゃ。だが、そなたにはその《力》はない。それは己でも判っておろう。だからこそ、わしはそなたにここに来て欲しくなかったのじゃ」
「しかし、私は邑楽家の人間です。御母衣家に嫁いでいったとはいえ、私にとって邑楽家が実家。祥吾さんは何故か永覚さんの仇を討とうとはしない。だから私が兄と甥の仇を取ります」
綾歌が哀しげに首を振った。
「祥吾殿に言われたであろう。永覚殿は殺されたのではないと。それは真実じゃよ。冬野殿、何故そのように祖先の確執を自分のものにしようとする。永覚殿が何故祥吾殿に何も話さなかったのか、それを考えはしなかったのか」
冬野が綾歌から視線を外した。
「……。考えました。考えましたけど、私はそれ以上に、邑楽家に生まれたことの意味をずっと考えてきたのです。祥吾さんが何もしないのならば、私しか兄たちの仇を討つことが出来ないのです。そして、それを私は宿命と受け止めこそすれ、枷とは思っていません」
綾歌はまた哀しげに首を振った。
「冬野殿、哀しいな。そのようにしか考えられぬか。哀しいな。邑楽はそれを望んではおらぬぞ。冬野殿、当麻と邑楽は確執があるとはいえ、実際に出会ったことはない。そのことをそなたは知らぬのじゃ」
そう言って綾歌はまた首を振った。
冬野は綾歌の言葉に耳を貸さなかった。
「綾歌さん、あなたは当麻家の夢見なのですね。邑楽家の夢見ではないのですね」
冬野が真剣な表情で綾歌に視線を戻した。綾歌がフフと笑った。
「冬野殿、わしは生まれた時から、当麻家の夢見なのじゃよ」
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