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『STUDIO野村』と書かれたプレートがパタパタと風に揺れていた。
「先生」
中で中村房史の声が響いていた。写真機材が雑然と置かれているスタジオを横切って、奥の部屋からその声は聞こえてきた。
「先生、お願いです」
机に向かっている野村康裕の後ろに立って、房史は必死の形相で言った。
「これ以上調べていくと本当に殺されます」
康裕が房史のほうを向いた。
野村康裕、46歳。厳しい氷の世界の写真家としてその名を知られていた。元来痩せ型ではあったが、今はまた特に細くなったような感じであった。だが、目には爛爛とした妖しい輝きが満ちていた。
「殺される?」
「知ってはいけないことなんですよ。誰も書かなかったんじゃないんです、誰も書けなかったんです。それなのに何故、こんなことに首を突っ込んでしまうのですか」
「房史、何で殺されると判るんだ。お前は何を知っているんだ」
「僕は言われたんです。これ以上頭を突っ込むと殺されるだろう、と。だから、僕は先生に生きていて欲しいから、だから、先生に」
康裕は手を振った。
「誰に言われたって?」
「邑楽祥吾です。先生、邑楽家のことを調べていたでしょう。今の当主は僕の友人なんです」
「そう、か。邑楽祥吾と知り合いだったのか」
康裕はフッと笑った。
「お前が私のことを心配してくれるのは嬉しいよ。だが、私は自分の納得出来るまで調べ続ける。房史、お前に迷惑はかけない。今日限り契約を取り消そう。それから、これをお前にあげよう」
と言って、康裕は房史にファイルを手渡した。房史は? となって、ファイルを拡げる。
「せ、先生、これは……」
康裕は立ち上がった。
「ここの譲渡書類だ。このスタジオも、この中にある機材も、すべてお前に譲るようにと書いてある。私から、写真家中村房史へのささやかなプレゼントだよ」
「先生」
「お前には、親父さんや妹さんがいる。それに、美佐子さんも……。私には誰もいないんだ。天涯孤独の身だから、私の好きなようにさせてくれ」
康裕の前に房史は立ちはだかって、
「駄目、駄目です」
と叫んだ。その目に涙が溢れてくる。
「房史、これは、私のけじめなんだ。19年前に殺された朱美に対する……」
「朱美?」
康裕が少し哀しげに笑った。
「私の妻だ」
「そ、それとこれと何か関係があるのですか」
房史の言葉に康裕は何も答えず、房史の頭を二、三度軽く叩くと歩き出した。
「せ、先生」
その背に房史が投げかける。だが、康裕は振り返らずに出ていった。房史は床に座り込んだ。追いかけなかった。あれほど尊敬していた康裕であるが、もはや以前の康裕ではなかった。
「いったい、19年前に何があったんだろう」
房史が呟いた。だが、呟いてもその答は出てきはしない。
房史は外に出た。すでに康裕の姿はなかった。振り返った房史の目には、『STUDIO野村』のプレートが相変わらず風に揺れていた。
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