邑楽家。
 冬野の車が入っていった頃、祥吾はシャワーを浴びていた。冬野の来訪を聞いた祥吾は髪を手櫛ですくと、急いで応接室に向かった。
「お祖母様、突然のご来訪、いかがされました」
 冬野は祥吾をチラッと見ると、
「祥吾さん、真裕美さんを呼んでいただけます」
 と言った。
「はい? 美原さん……ですか」
 祥吾がきょとんとして言った。
「そうです。その後に祥吾さんにもお話がございますから、またお呼びしますわ」
 祥吾は不審そうな顔をしていたが、真裕美を呼びに出ていった。
 しばらくして応接室に入ってきたのは、美原真裕美であった。ワゴンに茶器が乗っていた。それをテーブルに並べようとする真裕美に、
「真裕美さん、お座りなさい」
 と冬野は向かいのソファを指さした。真裕美はちょっとためらっていたがやがて座った。
「お元気そうですね」
 冬野が顔を綻ばせて言った。邪気のない本当に優しそうな笑顔であった。祥吾がこの場にいたら目を剥くかもしれない。
「はい」
と真裕美は煩わしそうに言った。
「何も困っていませんか。何かあったら遠慮なく言いなさい」
 冬野は優しげな笑顔のままで言った。真裕美はその顔をジッと見つめた。
「では、一言だけ。会いたくありません」
 そう冷淡に言うと真裕美は立ち上がった。冬野の顔が強張った。
「何故、私はあなたの母親だというのに……」
「私は美原家で、父の手で育てられた。あなたがいくら私を生んだと言っても、あなたは私をその手で抱いたことなどない。あなたが私を自分の娘だと言うのは、あなたのエゴです。私にはすでに死んだ父と祖父母だけが家族です」
 真裕美は冬野を睨みつけた。冬野は目を逸らした。
「真裕美さん、そうですね。確かにあなたの言う通りです。それについては弁解はいたしません」
 冬野の言葉に真裕美の瞳が揺らいだ。
「私は美原を愛していましたよ。御母衣と同じぐらいに。較べられないぐらいに。だからあなたを生んだのです」
 冬野は真裕美を見つめた。
「だったら、何故父と結婚しなかったのですか。それこそ詭弁です」
 真裕美の目に涙が溢れていた。冬野は言葉を失った。
「あなたは父を愛していたと言う。だが、御母衣家を捨てることは出来なかった。これを詭弁と言わないのなら、せめて私を生まないで欲しかった。私は母親に生まれてすぐに捨てられた子供なのです。あなたは、御母衣家のほうが大事なのです。いくらあなたが私を自分の娘だと言っても、それを私に信じろ、ということは絶対に無理なことなのです。私の前に現れないでください。今度会ったら、もっと酷いことを言いたくなりますから……」
 真裕美は立ち上がって冬野をもう一度睨みつけるとドアにぶつかるようにして出ていった。
「真裕美さん……」
 冬野は追いかけようとして追いかけなかった。どのような言われ方をされようがすべて自分の責任なのだ。御母衣に嫁いだ身で、美原を愛してしまい、そして、真裕美を身籠もってしまった。冬野は悩んだ末に真裕美を生んだ。だが、彼女を引き取ることはしなかった御母衣の血を継いでいない真裕美を、御母衣家に入れることは出来なかったのである。
 ためらいがちにノックをして祥吾が顔を覗かせた。
「あの、お祖母様、美原さんとのお話は終わられたのですか」
 冬野は祥吾を手招いた。その手をそっと目元に当てたのに祥吾は気づいた。だが、何も言わず冬野の向かいに座った。
「祥吾さん、真裕美さんはね、私の娘なんですよ」
 冬野のその言葉に祥吾は落ち着けた腰を浮かせた。
「え、お祖母様……」
「私と美原との間の子供です」
 祥吾は呆気に取られた顔で冬野を見つめて座り直した。
「それを、美原さんは知っているのですね」
「ええ」
「お祖母様」
「祥吾さん、今日は真裕美さんのことをお頼みするために参りましたの。私が死んだら弁護士に財産のことなどは任せていますが、それ以外のことは主人であるあなたにお頼みしなければなりませんからね。よろしくお願いしますよ」
「それは、しっかりやっているようですから。でもお祖母様、そんなにお元気なのに死ぬなどと言わないでください」
 祥吾は心配そうに言った。冬野は立ち上がって祥吾に微笑みかけた。
「祥吾さん。私は祥吾さんに真裕美さんを任せたかったんですよ。今でもその気持ちは変わりません」
 祥吾が続いて立ち上がりながら、驚いて冬野を見つめた。
「未和さんがそれを願っているのは知っておりますが、私は真裕美さんが不憫でならないのです。私が捨ててしまったのですけどね……。ですからこれからの幸せを願っているのです。祥吾さん、あなたにその気があるのでしたら、考えてくださいね。本当にそう願っていますよ」
「お祖母様……」
 祥吾は言うべき言葉を失って冬野を見つめた。
「それでは祥吾さん、お見送りはいりません。16年間暮らしてきた屋敷ですから。そしてあなたに言われても、この名だけは改められないのです。私は邑楽家の夢見なのです、これからも……」
 冬野はそう言うと応接室を出ていった。祥吾が廊下まで出て冬野を見送った。玄関近くの小部屋で待っていたゆみ子が出てきて冬野に手を差し延べた。その姿を物陰から真裕美の視線が追っていた。

「どちらへ参りましょうか」
 運転席に座りながら、ゆみ子が言った。
「……少し走っておくれ」
 冬野の言葉にゆみ子は頷いて車を進めた。冬野は仕切りを閉めてそっと目元を押さえた。


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