寒河家。
 当主榊は、51歳である。妻樒は50歳、一人娘の葵は29歳であった。
 葵の両親は幼馴染であった。彼らの親同士は、二人とも一人っ子であったので、結婚ということを考えてはいなかった。しかし、彼らはやがて互いを伴侶と認め、樒は本埜家から寒河家の榊のもとに嫁いだのだった。葵は次女であった。寒河家の長女は、9歳の時に事故で亡くなっていた。それからしばらくして葵が生まれたのだった。
 葵は物静かな人であった。そして、両親には従順。高い教養を身につけ、榊自慢の子供であった。
 葵は当麻家の跡継ぎの許嫁。葵が生まれた時に、いや、樒が身籠もった時点でそう決まった。13歳年上の諸見から、2歳年下の芳宜にその相手が変わったことは葵には関係なかった。葵は決められた道を辿っていく、そんな生き方をしていた。

「葵さん」
 樒は葵をモデルにスケッチをしていた。葵は薄絹だけをまとっていた。
「はい、お母様」
 樒は手を動かしながら、
「これが葵さん一人では、最後の絵になりますね」
 と言った。
「最後の? と言われると、私の式の日取りが決まりましたの?」
 葵は長い髪を揺らして微笑んだ。
「ええ。来月の12日に決まりました」
 樒が手を止めて微笑んだ。
「それまでには絵を完成させなければなりませんね、葵さん」
「楽しみですわ、お母様の絵」
「今度は、芳宜さんとご一緒の絵にしたいですね」
 樒の言葉に、葵は少し赤らんだ。

 葵は四阿に向かっていた。手には盆を持っている。大きな白い帽子が残暑を遮っていた。
 四阿には先客がいた。芳宜である。葵は盆をテーブルの上に置くと帽子を脱いだ。長い髪がふわっと流れた。葵は芳宜の前に、静かに麦茶の入ったコップを差し出した。氷がカラカラと涼しげな音をたてる。
「ありがとう」
 芳宜が読んでいた本から目を上げると、葵を見つめた。葵は微笑みを浮かべると、芳宜の向かいに座った。芳宜は麦茶を一口飲むと、再び本に目を向けた。その向かいで葵がまだ少し眩しい庭を見つめていた。四阿の側に植えられている木槿が、白と赤紫の花を揺らしていた。
 静かであった。近くの池に流れ込む水の音も気のせいか小さくなったようだ。
 芳宜と葵が初めて会ったのは、芳宜が13歳、葵は15歳であった。当麻家主催の梅の宴で将来の伴侶として二人は出会った。
 葵は親の決めた許嫁であるから断るわけはなかったが、それ以上に芳宜自身を好いていた。そして、芳宜も葵を段々に気に入っていった。その静かな交際が、14年間も続いていたのだった。
 しばらくして、芳宜がふと顔を上げた。
「葵、聞いたのですね」
 葵が芳宜のほうに向き直ると、
「はい」
 と微笑んだ。
「私のせいでずいぶん待たせました」
「いいえ、私は待ってはおりませんでした」
「え?」
 葵の言葉に芳宜が首を傾げる。
「待っていたわけではありません。私は芳宜さんを信じていただけですわ。きっと私の伴侶となる方だと」
 葵はそう言ってまた微笑んだ。その微笑みに芳宜はグッと胸を締めつけられた。
 葵は元々、芳宜の兄、諸見の許嫁であったのだ。しかし、諸見は葵を選ばず、当麻さえ捨てて出ていった。当麻家には、もう二人子供がいたが、男女一人ずつだったので必然的に芳宜が葵の許嫁となった。
 芳宜は出ていった諸見を恨んではいない。だが、葵の優しげな微笑みが自分に向けられるたびに自責し、そして、諸見を責めてしまうのだ。それが芳宜の優しさであり、弱さであった。そして、粃が芳宜を期待していないのは、そういうところでもあったのだ。
「芳宜さん」
 と葵が芳宜の手の上に自分の手を置いた。いつの間にか葵が芳宜の隣に座っていた。
「芳宜さん、もう許してあげてください」
 葵が少し哀しげに芳宜を見上げた。
「あなたのせいでも、諸見さんのせいでもないのですから」
「え、何が……」
 芳宜は見動ぎもせずに言った。葵はそっと芳宜の手を包み込んだ。
「私は芳宜さんと一緒になれることで幸せなのですわ。あなたが当麻家を継ぐことさえ私には関係のないこと。芳宜さんだからこそ私は嬉しいのです。だから、ご自分を責めるのは止めてください」
 芳宜は驚いた表情で葵を見つめた。
「葵……」
 葵が芳宜の手をギュッと握った。
「葵」
 芳宜の目からすうっと涙が零れた。
「駄目ですね、あなたに判ってしまうとは」
 葵が首を振った。
「芳宜さんはすばらしい方ですわ。駄目な人間などこの世にはおりません。そして、私にはこの世であなたが一番大切な方です」
 葵はジッと芳宜を見つめた。芳宜もその瞳を見つめ続けた。
「ありがとう」
 芳宜がそっと葵を抱き寄せて呟いた。
 葵の伏せ目がちの目から涙が零れる。しかし葵の口元には、楽しそうな笑いが浮かんでいた。この矛盾した表情を芳宜は気づくことがなかった。そう、この時だけでなく、生涯ずっと……。
 四阿の外ではまだ暑い日差しが射していた。


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