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土師家。
離れに堂士と菖蒲は部屋を貰っていた。菖蒲はそっと堂士の部屋のドアを開けた。中にするりと入るとカーテンをザァと開ける。
「お兄様、朝ですわ」
朝日に目を瞬いて、堂士はうーんを伸びをした。
「どうも私はここに来てから、怠惰になっているようです。それとも、菖蒲に起こされたいがためにわざと朝寝坊をするのか。菖蒲、どちらだと思います」
堂士は起き上がると真面目な顔をして言った。菖蒲がベッドの端に座って、
「お兄様のことだから、きっと怠け者になられたのですわ」
と笑った。
「外れ。こうして朝一番にお前の顔を見たいためだよ、菖蒲」
堂士がいつものように軽く菖蒲の唇に触れた。そして、
「菖蒲」
と真顔になった。
「伯母様とも話していたのですが、菖蒲はここで暮らす気はありますか」
菖蒲はちょっと首を傾げた。
「私は、お兄様とご一緒ならばどちらでもよろしいですわ」
「ああ、一緒ではないのです。菖蒲だけです」
え、と菖蒲は堂士を不安そうに見た。
「何故、お兄様とご一緒ではないのですか。お兄様はどちらに行かれるのですか」
「私は北海道に帰ります」
菖蒲は堂士に抱きついた。
「では、私も北海道に帰りますわ」
堂士は菖蒲を自分から離した。
「菖蒲、お前ももう19だよ。私から離れてもよい頃です。いや、遅いぐらいですね。私が離さなかったのが悪いのですが……」
「お兄様……何故、そのようなことをおっしゃるのですか。私が邪魔なのですか。そうなのですね。どなたか好きな方がお出来になったのですか。それならば、私はそれを祝福しなければなりませんね」
菖蒲が目に涙を溜めた。それに堂士は胸を痛めた。
「菖蒲、落ち着きなさい。そういうことではないのです」
堂士が菖蒲の涙を拭った。
「私が愛しているのはお前だけです。例えお前が妹であっても。これだけは真実です」
「お兄様……」
二人は唇を合わせた。
「判りました、菖蒲。一緒に帰りましょう。東京へ来た用事が済んだら」
堂士が菖蒲に微笑んだ。
「本当ですね」
菖蒲が真剣な目つきで言った。堂士は頷いた。
「でも、菖蒲、これだけは約束してください。私に万一のことがあったら、伯母様のところで暮らすと」
菖蒲が堂士のその言葉に、堂士の腕を掴んだ。
「お兄様、お兄様が亡くなられたら私も生きてはおりません。お兄様とはいつまでもご一緒いたします」
「菖蒲」
菖蒲はキッと堂士を見た。
「お兄様、私にはお兄様だけしかおられないのですわ。お兄様のおられない世界に生き続けても何の意味もありません」
堂士は困ったように菖蒲を見た。しばらくして、
「大丈夫です。お前を殺さないためにも私は生き続けましょう」
と堂士は言った。
「お兄様」
と菖蒲が堂士にすがった。その髪を優しく堂士が撫でる。
「私には何もお話しになられないのですね」
堂士の手がピクッと止まった。
「私は何もお前に隠していないよ」
菖蒲が堂士の手に触れた。
「いいのですわ。お兄様の気がお変わりになるまで、私はいつまでもお兄様から話されるのを待ちますわ」
そう言って菖蒲は立ち上がった。
「伯母様を手伝ってまいりますわ。居候ですから少しでもお役に立ちませんと」
菖蒲はクスリと笑うと出ていった。
「やはり、何も話さないというのは不自然ですか」
一人になって堂士がポツリと呟いた。
菖蒲に何も話していないのは、自分のエゴだろうか。いや、これは菖蒲のためなのだと堂士は信じていた。わざわざ辛い話を愛する妹に聞かせたくなかった。菖蒲だけは何不自由なく、この世界がどれほどに美しいものなのか、それだけを見せておきたかった。出来れば、東京へも連れてきたくはなかったのに。それは、不可能なことではあったが……。
カーテンが朝の風を孕んで揺れた。
「……しかし、それは」
堂士がまた呟いた。
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