邑楽家の前にタクシーが止まった。後部ドアが開いて、ボストンバッグを抱えた祥吾が下り立つ。チャイムを鳴らすと女の声が応えた。
「門を開けてくれないか。僕だ、祥吾だ」
 門の上に据えつけられているテレビカメラに向かって祥吾は言った。間を置かず、門の横のドアがカチャッと音をたてた。祥吾はそのドアから入っていった。
 玄関には執事の憮養南部が訝しげな表情をして立っていた。
「坊っちゃま、アメリカにお戻りになったのではございませんので……」
 祥吾はジロリと南部を見た。
「祥吾」
 ああ、という顔で南部は、
「祥吾様」
 と言い直した。
「ちょっとな、気が変わったんだ。詳しいことは明日言うよ。とにかく今日はもう疲れているから休むよ」
 祥吾はそう言うとさっさと自分の部屋に歩き始めた。
「旦那様、お風呂はどういたしましょうか」
 インターホンで応えた女が言った。名前を美原真裕美といい、22歳であった。高校を卒業してすぐに邑楽家に勤めていた。
「ああ、美原さん、今日はいいよ」
「はい、判りました」
 真裕美は無愛想にそう言うと一礼して去っていった。ほとんどこの屋敷に居つかない祥吾にとって、真裕美は取っ付き難かった。別にそれで困るわけではないから、祥吾は気にもしていない、と言ったほうがいいかもしれない。立ち去る祥吾を、南部はどうなさったのだろう、という顔で首を傾げて見つめていた。
 祥吾は自分の部屋に入ると、ボストンバッグを投げ出して、ソファに座った。頭の中で今日一日の出来事が思い出される。そして、父永覚の記憶が……。
「お父さん、いつも側にいてくれたのですね。何も知らずに、僕は好きなことをさせてもらってばかりでした。いつも、いつも僕を見守ってくれていたのですね。今になって思い当たることがある。遠く離れたアメリカで、僕が落ち込んでいた時、いつも温かいもので包まれるような気がしていました。きっと、それはあなたが僕の側にいて、僕を励ましてくれていたのですね」
 祥吾はそこに永覚がいるような気がして話しかけていた。永覚は、堂士が消えたのを見た時に、祥吾の側から消えたのだが、それを祥吾は知らない。堂士に見えていたのさえも知らなかっただろう。
 祥吾は一人涙を流していた。
 邑楽を継いだばかりの青年は、今はただ、その記憶の波に身を委ねていた。


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