当麻家。
 香散見はそっとドアを開けた。そこは芳宜の部屋である。芳宜は机に向かっていた。香散見はその後ろ姿に静かに近づく。
「香散見、何の用だ」
 芳宜が振り向きもせずに言った。香散見はその後ろ姿に笑いかけた。
「芳宜お兄様、葵お義姉様に、今日は会われないのですか」
 香散見は芳宜の側に立ち止まる。芳宜がパタンと本を閉じた。
「私がいつ葵と会おうが、お前には関係なかろう」
 芳宜がかけていた眼鏡を外して本の上に置いた。香散見が芳宜の首に後ろから腕を回した。
「充分関係はありますわ。私は当麻家が大事ですもの。お兄様が13代を継ぐのですから、それなりの《力》を身につけていただかないと困りますわ。寒河家の血筋を引いた14代に将来を任せるのも、一つの手ではありますけど……」
 香散見の頬が芳宜の頬に触れる。
「香散見、止さないか」
「お兄様、怖いのですか、私が?」
 香散見の瞳が妖しげに煌めいた。その瞳を芳宜は逃げた。
「ああ、そうだ。私にはお前のような《力》がない。私が13代になるのは、寒河家の跡継ぎが女だったからだ。そして元々、葵は私と結ばれるわけではなかった。諸見兄さんが出ていかなければ兄さんと結ばれていた。親父殿は未だに兄さんを許してはいない。お陰で私のような不甲斐ない跡継ぎになってしまったからな。寒河家の男子がいれば、お前が13代を継げたというわけだし」
 香散見がクスクスと笑った。
「そう、その通り」
 芳宜の頬を香散見の唇が滑る。芳宜は目を閉じた。
「香散見、止めてくれ」
 弱々しく芳宜は呟く。その首筋を赤い唇が這った。
「芳宜お兄様、何故拒むのです」
 香散見の手が芳宜の背をまさぐる。
「お前は……妹だ」
 芳宜は逃げだしたかったが、逃げることが出来なかった。
「お兄様は、臆病ですわ。血が濃いほどに《力》は強いのに。ああ、諸見お兄様とならば、本当によろしいのに……」
 香散見はうっとりとして言った。
「臆病でも構わない。私は、《力》など欲しくはない」
 香散見がパッと芳宜から離れた。
「芳宜お兄様も諸見お兄様と同じなのですか。当麻家がどうなってもよろしいのですね。芳宜お兄様も当麻家から逃げ出すおつもりですか」
 香散見が侮蔑に満ちた眼差しで芳宜を見つめた。芳宜は何も言わなかった。
「いいですわ。お兄様がそのおつもりなら、もう期待することはありません。当麻家は、私とお父様とで守りますわ」
 香散見は非難の眼差しでしばらく芳宜を見ていたが、やがて出ていった。
「期待……それでも、期待をしていたのか」
 芳宜が醒めた表情で呟いた。
「諸見兄さん、あなたは……一緒だったんですか」
 芳宜の脳裏に、すでにこの世にいない諸見の姿が映っていた。
 芳宜の覚えている諸見は、いつも笑っていた。理知的な目をしている兄が、芳宜は好きだった。芳宜にとって、諸見は憧れであった。
 諸見が当麻家から出ていったのは、芳宜が7歳の時だった。それまでもそれからも、芳宜にとって、諸見はずっと目の前に存在し続けていた。


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