六本木。
 ちょっと古ぼけたビルの六階にインドカレーの専門店がある。祥吾と房史はそこに入っていった。祥吾は初めてだったが、房史はここが気に入って週に一度は来ていた。店長のマハールとも、すっかり顔見知りになっていた。
「先輩は、辛いのは苦手でしたっけ?」
「あまり得意ではないな。お前よく来るのか」
「ええ」
 房史はちょっと笑って言った。マハールがにこにこ笑いながら、テーブルに近づいた。
「中村さん、いつものでいいですか」
 流暢な日本語でマハールが言った。
「ええ、僕はいつもの。彼にはあまり辛くないものにしてください。そうそう先輩、ライスとナンとどちらにしますか」
「ナン?」
「インドのパンですよ」
「ふーん、じゃあそれ」
「はい、判りました」
 マハールが、厨房のほうへ去った。空席はあまりないのだが、他人の声が煩わしいこともない。日本人客は四割程度であった。
「結構高くないのか。お前の稼ぎは知らないけどな」
「そうですね。でも、六本木とすればそれほど高級でもないですよ」
 ウェイターがまず持ってきたのは、ミルクのようだった。
「インドのヨーグルトです。ラッシーといいます」
「ふうん」
 と言いながら祥吾は少し飲んだ。
「結構、旨いな」
 と祥吾は微笑んだ。
「それで、お前、今何をしているんだ」
「先輩は、野村康裕という写真家を知ってますか。氷の写真家と言われていますけど……」
「悪い。あまり写真に興味なくてな」
 祥吾は、並べられた料理に手を出した。
「実は、僕はその野村康裕についているんです」
 房史も食べ始めた。
「へえ、お前写真に興味あったっけ? アシスタントをしているのか」
 祥吾が房史を見て言った。クスリと房史は笑った。
「この年になって、と父にはよく言われますけど、僕は先生を気に入っているんですよ。崇拝しています。先生の写真を見たら判ると思いますけど、氷の美しさを見事に撮っていますから」
 房史はそこまで言って声を潜めた。
「先輩、でも今先生は写真から少し遠去かっているんです。歴史に興味を持たれたみたいで、今は日本の歴史の、それも裏の歴史を調べているんですよ」
「ふうん、ずいぶんと方向変換したんだな。いきなり何故だ」
 房史はラッシーを一口飲んだ。
「それは判りません。そのことに関しては、僕にはあまり話しませんから。だから、僕が小さい写真の仕事をしているわけです」
「へえ、それは凄いじゃないか。写真家中村房史か」
 祥吾の言葉に、房史は少し照れたが、すぐに顔を引き締めて祥吾に顔を近づけた。
「それで裏の歴史ですけど、先輩の邑楽家も実は関係がありそうですね」
 房史の瞳が好奇心に魅せられたように光った。
「何故?」
「先生のメモを見てしまったんです。それには、邑楽家の名があったんですよ。それから当麻家というのも先輩は当麻家をご存知ですか」
 房史は真剣な表情になった。
「……。房史、お前は懐かしいから僕に声を掛けたんじゃないんだな」
 祥吾が房史を見返した。
「先輩、僕は先生を崇拝しているんですよ」
 二人は少しの間見つめ合っていたが、やがて止めていた手を再び動かしだした。
 やがて、食事が終わると紅茶が出てきた。
「チャイです。魔法の水ですよ、先輩」
 房史の言葉に、眉をひそめて祥吾はカップを手に取った。日本のカレーに較べると、辛さは全く異なっているのだが、あまり辛いのが得意でない祥吾にとっては結構辛かった。その辛さが嘘のように消えていく。
「なるほど、魔法の水だな」
 祥吾はポツリと呟いた。
「房史」
 祥吾はチャイを飲み干すと房史を見つめた。
「お前の先生に言っておけ。当麻家のことを調べると死ぬ、とな。僕は何も知らないが、これ以上踏み込むと、お前も先生も必ず死ぬことだけは判る。お前が先生を崇拝しているのなら止めるんだな。知ってはならないことには足を踏み入れないことだ。裏というのは知られていないから裏なんだ。何故、知られていないか、という理由まで説明して欲しいか。普通の常識では判断出来ないぞ」
 祥吾はレシートを持って立ち上がった。
「先輩、あなたは何を知っているんですか」
「僕は知らない。だが、お前たちが禁断の園に少し足を踏み入れていることだけは判る。房史、先生に死んで欲しくないだろ」
 房史が青ざめて祥吾を見上げた。祥吾は軽く手を挙げて立ち去った。


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