「祥吾さん、目を開けてもいいですよ」 堂士の声が聞こえてきた。祥吾は目を開けた。何をされたのか、と思ったが、別に変わっているところは何もないと思った。 「あの、何をしたのです」 堂士は微笑んだ。 「あなたの封印を解いたのです」 「えっ」 祥吾が驚いて自分のあちこちを見た。 「外見が変わるわけではありませんよ、祥吾さん」 堂士はクスリと笑った。祥吾は堂士を訝しげに見つめた。 「では、僕の封印とは何だったのです」 「あなたの《力》と、邑楽の記憶を封印していたのです。いや、邑楽の、というより永覚さんの、と言うほうが正しいのですが……」 祥吾が首を傾げた。 「でも、僕は何も変わっていません」 「それは、私がまだキーワードを言っていないからです」 堂士が少し哀しげな表情を浮かべた。 「キーワード?」 「聞きたいですか」 祥吾は堂士のその哀しげな表情を見つめて悩んだ。 「ここまで来れば聞きたいと思います。でもその前に何故、あなたが僕の封印を解くことが出来たのか教えてください。あなたが何者なのかということも……」 堂士が祥吾の上に視線を転じた。 「永覚さんに、頼まれたのです」 「父に?」 堂士は祥吾に目を戻した。 「あなたの側に永覚さんはいつもいらっしゃいます。あなたを守ろうとして。私が今ここにいるのは永覚さんに呼ばれたからです。いえ、正しくは私の父の記憶の中にある、永覚さんとの約束を果たすためです。祥吾さんの封印を解いた上で、あなたの思うままに生きてくれ、と伝えて欲しいと頼まれたのです。祥吾さん、永覚さんはあなたに封印を施しました。それは、あなたに邑楽を背負って欲しくなかったからです。ですが、永覚さんは封印を解かなければならないことになるかもしれないということも考えていました。それも、永覚さん自身の手によってではなく……。普通の封印では、邑楽家の人間にならば、解けるかもしれない。だから、キーワードを作ったのです。それを知っている人間を、たった一人に絞り込んだのです。決して、他に洩れることのないように……。そして、そのキーワードを受け取ったのが、私の父だったのです。私たちの親同士の約束は、父の記憶を継いだ私に受け継がれました。何故ならば、キーワードとは、私の本当の名前だからです。永覚さんと私の両親以外は、誰も知らない、私の妹でさえ、私の本当の名前を知りません。つまり、私しか祥吾さんの封印を解ける者はいないのです」 「…………」 「ここに来たのは、あなたに会うためなのです、祥吾さん」 堂士は祥吾を見つめ続けていた。 「私の中の父、諸見の記憶の中に、邑楽永覚さんとの約束も入っていたのです。それを今、叶えるために私は来ました。祥吾さんの封印は2歳の時だったそうですね。母が、私を身籠もった頃です」 堂士の瞳に微妙な変化が浮かんだ。祥吾は哀しげな瞳だ、と思った。 「祥吾さん、後は封印を解けば、永覚さんの記憶によって自然に判ることでしょう。よろしいですね、本当に。永覚さんはあなたのためを思って封印なされたのです。あなたはこれを拒否することも可能なのです。あなたがそれを望むならば、ということも約束ですから。私も無理には勧めません。何故なら、私の戦いにあなたを巻き込んでしまうかもしれないからです。アメリカに戻れなくなるかもしれませんよ、二度と」 祥吾はいいえ、と首を振った。 「堂士さん、僕はもう決めました。父が僕に伝えるべきことを言わなかったのは、多分、父自身が祖父から受け継いだことによって苦しんだためなのではないでしょうか。邑楽を背負って欲しくない、というのはそういう理由なのでしょう。それに甘えたい気もしますが、僕の知らないところで、僕のために何かが起こっているのなら逃げるべきではないでしょう。父も、だからあなたを僕の元にお呼びになったのでしょう。僕の封印を解くために……」 堂士は微笑んだ。そして、そっと右手を祥吾の額に当てた。 「私の本当の名は、当麻鳶尾と言います」 祥吾の体のどこかで、パリンと何かが弾ける音がした。 「この名は、私と両親と永覚さんしか知りません」 祥吾の目に涙が溢れてきた。堂士には、祥吾の側についていた永覚の霊がスウッと消えたのが見えた。 「祥吾さん、私の父とあなたの父との約束は、これで果たされました。後はご自分でお決めになることですね。ボストン行きは搭乗手続きを始めています。飛行機が爆破されることはありません。あなたは日本を離れることが出来るのですよ」 堂士は立ち上がってそう言った。そして、そのまま立ち去った。急に回りのざわめきが祥吾の耳に入ってきた。そこで始めて堂士と話をしていた間、全く外界の音が聞こえなかったことに気づいた。そして、祥吾はしばらくしてやっと気づいたように涙を拭いた。その目にエスカレーターを下りようとする堂士の姿が映った。祥吾は急いでその姿を追った。 「堂士さん」 エスカレーターを下りたところで、息せき切って追いついた祥吾を、堂士は無言で見つめた。その顔に不可解な色が浮かぶ。強いて言えば、苦しみだろうか。 「あなたは、当麻家に敵するのですね」 堂士は何も言わなかった。祥吾はそのまま一緒に歩いていた。 「堂士さん、本来ならば僕とあなたは敵同士であったのですね。でも、それは僕たちの父の時代に変わってしまった。父永覚の記憶であなたの父諸見さんと僕の父が親友であったことが判りました。そして、どれほどお互いに信頼していたのか。永覚は僕たちに出会う場を作ってくれたのではないでしょうか」 「それは違いますよ、祥吾さん。永覚さんはあなたが足を踏み込まないことを願っているのです。確かに私たちが出会うことを願ってはいたけれど、それは、こんな状態ではありませんでした。当麻も邑楽も、そんな家の繋がりなど全く関係なく、彼らと同じように友情を育んで欲しいと思っていたのです。彼らの代で、両家の確執を終えるはずだった諸見は、それを半ばで逃げ出してしまいました。そして、それを私は受け継いでいません。そう、ついこの前まではね」 やがて、堂士が呟くように言った。 「私は、別に当麻家に敵するために、東京に来たわけではありません。父の約束を守ることが目的だったのです。私は、私たちに危害を加えられない限り自分からは手を出しません。ですから祥吾さん、あなたは日本を離れてください」 祥吾は、そう言いながら歩き続ける堂士の腕を取った。 「堂士さん」 とそのまま、電車から下りてきた人波を避けるように、反対ホームに寄った。 「僕はまだ、封印が解かれたばかりでどうしたらいいのか判りません。でも、あなたとご一緒したい気持ちはあります。父があなたのお父様をどれほど好いていたかが判りましたからね。そう思うのは、あなたにとって迷惑なんでしょうね」 祥吾の目が悪戯っぽく笑った。堂士が軽い溜め息をついた。 「とにかく、私はあなたと行動を共にするつもりはありません。永覚さんは、当麻に殺されたのではありませんよ。これだけははっきりと言えることです。あなたが永覚さんを殺した、ということで、当麻を狙うのであれば、私はそれを止めなければなりません。当麻を助けるためではなく、あなたのその行動が間違っているからです。それにあなたは、当麻には歯が立ちません。私があなたのその行動を止めたいのは、ただ私は、あなたの死ぬところを見たくないからです」 堂士はそう言ってくるりと背を向けた。 「堂士さん、とりあえず僕は邑楽家に戻ります。気持ちの整理をしようと思いますから」 祥吾は堂士の背にその言葉を投げかけた。堂士は振り返りもせず、発車しようとする電車に乗り込んだ。 祥吾は電車を見送って、ハッとバッグを忘れたことに気づいた。急いでベンチに戻るとボストンバッグはまだそこにあった。よかった、という顔で、バッグを抱えた祥吾の肩をポン、と誰かが叩いた。祥吾が振り向くと、 「先輩、お久しぶりですね」 と男の顔があった。祥吾が思わずバッグを肩から下ろした。 「何だ、房史じゃないか。どうしたんだ、こんな所に」 男は祥吾の中学時代の友人で中村房史であった。同じ26歳だが、祥吾が早生まれのため、学年は房史が1年下であった。家は少し離れていたが、気があったのかよく遊びにきていた。祥吾がアメリカに行ってからも、たびたび房史も渡米していた。しかし、ここ2年ほどは会っていなかった。 「何だじゃないですよ、先輩。さっきの凄い美形は知り合いですか。アメリカ生活が長いから、まさか先輩、恋人じゃないですよね」 房史は真黒に日焼けした顔に笑いを浮かべた。 「何言ってんだ、房史。お前こそ、成田に何をしに来てるんだ」 祥吾はベンチに座りながら言った。房史は隣に座った。 「妹の見送りですよ。彼と一緒に旅立ちました」 「そうか。幸代さん、だったかな。結婚したのか」 「まだですけど、もうすぐですね。先輩はアメリカに帰られるんですか」 房史が祥吾の荷物を見ながら言った。 「いいや、ちょっとな」 そう言葉を濁して、祥吾は立ち上がり、バッグを肩に掛けた。 「ところで、これからの予定は」 「今日は家に戻るだけです」 「そうか、じゃあせっかく会ったんだ。一杯やらないか。俺が奢るよ」 祥吾が歩きだすと、房史が、 「では、成田で下りましょう。車を置いてあるんです」 と言った。
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