冷たい手が額に当てられて、祥吾はハッと目を覚ました。目の前に男の顔があった。美しい人だ、と祥吾は思わず思った。
「もう少しで、持っていかれるところでしたね。大丈夫ですか」
 誰か、と問う前に、祥吾は反射的にこくこくと頷いた。
「ふうん」
 男は祥吾を見つめて驚いた表情を浮かべた。
「あの、どうもお世話になりました」
 祥吾は、自分より2、3歳若いだろうその男から、目を離せなかった。
「あなたは、ご自分の能力について何もご存知ないのですね」
 男はそう言って、驚いた顔をしている祥吾の額に手を置いた。
「あなたを守っているのは、あなたのお父様でしょうか。とても優しい気を感じます。あなたを封印したのもそのお父様でしょうか」
「あの、あなたはどなたですか」
 祥吾は封印と言われて目を丸くした。
「僕は、私は、邑楽祥吾と言います」
 男はホウッと再び祥吾を見つめた。
「あなたは、邑楽家の方ですか。では、あなたのお父様は、永覚さんとおっしゃるのではありませんか」
「父をご存知なのですか」
 祥吾は驚いた。あまり日本に帰らない祥吾がたまに帰ると、永覚は自分の知人に会わせるのを楽しみにしていた。だが、目の前の男には会ったことがない。会ったら忘れようはずもないその美貌であった。
「すみません。私は、私の父の記憶の中に、邑楽永覚さんの名を見つけただけですので、私自身はあなたのお父様を知りません。ああ、すみません。まだ名乗っていませんでしたね。私は当麻堂士と言います」
 祥吾が訝しげに堂士を見た。
「父の記憶の中?」
 堂士は訝しげな表情のままの祥吾ににっこりと微笑みかけた。
「あなたは日本を離れられるのですか」
「ええ。研究室がボストンにありますので」
 堂士は真剣な表情を浮かべた。
「あなたの夢は真実になりますよ、祥吾さん」
「えっ」
 祥吾が愕然として堂士を見た。
「あなたを日本から離れさせたくないのはどなたか判りませんが、どうやら、本気のようですね」
 祥吾は顔色を失っていた。
「とにかく下りましょうか」
 ふと気づくと、すでに成田空港駅に到着していた。他の乗客は出口へと向かっている。堂士は祥吾の隣の席に置いていたセカンドバッグを手に取った。祥吾も床に置いていたボストンバッグを持ち上げる。
「時間は」
「15時55分です」
「そうですか。あまり時間はありませんね」
 堂士はポケットから切符を出しながら言った。
「私は、あなたが日本から離れることについては止めることは出来ませんが、あなたの夢が真実になる、ということは言っておかなければなりませんね」
 堂士の言葉に祥吾は立ち止まった。
「あなたは、何故、僕の見た夢をご存知なのですか。まさか、あなたが見せた?」
「いいえ、私にはそんな《力》はありません。あなたを引き止めたい誰かでしょう。しかし、その夢をあなたに見せたいがために、電車に送り込んできた夢を私も見てしまったのです。きっと波長が合ったのでしょうね」
 堂士は歩くように促して言った。
「あなたは何者です」
 堂士は笑って何も言わなかった。
「あなたも日本を出られるのですか」
 祥吾はセカンドバッグしか持っていない堂士を訝しんで言った。
「いいえ」
「じゃあ、どなたか迎えに来られたのですか」
 堂士は笑って首を振った。
「では、何故です。何故、僕に近づいたのです? あなたは何を知っているのですか。僕に何を要求しようと言うのですか」
 祥吾はまた立ち止まった。
「急がないと乗り遅れますよ、祥吾さん」
 祥吾は微笑みを浮かべたままの堂士を見つめた。
「堂士さん、とおっしゃいましたね。夢が真実ならば僕が乗ることによって飛行機は爆破されるのでしょう。それなのに僕が乗ってもいいのですか。あなたは、みんなが殺されるところを見ろと言うのですか」
 堂士はクスリと笑った。
「祥吾さん、心配には及びません。私が爆破なぞさせませんよ」
「え」
 祥吾がきょとんと堂士を見る。
「あなたの乗った飛行機を爆破させ、あなただけを助ける、そうしたい誰かを止めればいいだけですからね」
 堂士の薄笑いが、祥吾は気になった。
「止めるとは?」
「大勢の人々を犠牲にしてまでも己の欲を貫き通す、その誰かを始末するだけです」
 堂士は何でもない、というような口調で言った。
 祥吾はギョッとした。
「……それは、殺す、ということ?」
「そうです」
「駄目だ。いくらなんでも、僕はお祖母様を見殺しには出来ない」
 堂士がおや、と祥吾を見つめた。
「あなたのお祖母様でしたか。あれほどの《力》があるのですから、普通ではないと思っていましたが。その方は邑楽家の方でしょうね」
「ええ、祖父の妹です」
「そうでしたか」
 堂士の表情に哀しそうなものが浮かんでいたが、祥吾は気づかなかった。祥吾は疲れたようにベンチに座った。そして、京成のコンコースのほうを見るともなしに見つめた。
「やはり、僕が戻らなければならないのでしょうね」
 フウッと息を落として、祥吾は言った。堂士はその隣に座った。
「祥吾さん、何故、お祖母様はあなたを日本から出したくないのですか」
 祥吾は再びフウッと溜め息をついた。
「僕はよく判りません。でも、僕の封印を解き、僕に邑楽を継がせたい、と言っておられました」
「封印を?」
 堂士は俯いている祥吾をジッと見つめていた。いや、よく見ると祥吾をというより、祥吾の頭の上の空間をであった。やがて、堂士は頷くと、
「祥吾さん、目を閉じていただけますか」
 と言った。え、と祥吾が顔を上げた。堂士が優しく微笑んだ。祥吾は何も考えず堂士の言う通りに目を閉じた。
 堂士の冷たい手が祥吾の額に当たる。いきなりそこがカッと熱く感じて、祥吾は思わず動こうとしたが見動ぎ出来なかった。頭の中がスーッと涼しくなって、やがて、真白になった。

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