明彦が顔を上げた。その顔に驚きが浮かんでいる。
「先代に何もお聞きになっておられないのですか、この邑楽家のことを……」
 祥吾はハァ? という顔をした。
「そうか、先代は何も話されていないのですか」
 祥吾は眉をひそめた。
「伯父さん、いったい何のことですか」
 ふーむ、と明彦は祥吾を見つめた。
「封印? そうか、封印かもしれぬ。しかし、誰が解けるのだ? 先代がかけた封印を、あるいは、母なら解けるのだろうか」
 明彦は独り言を呟いた。
「伯父さん……」
 祥吾は考え込んだ明彦を見つめた。
 祥吾は父親から何も聞かされてはいなかった。名実共に邑楽家を継ぐ、の意味は判らなかった。
 祥吾は中学を卒業した後、すぐに渡米し、ずっとアメリカで過ごした。高校では休みになると日本に帰っていたが、大学になるとそれも少なくなり、半年前の父親の死に目にも会えなかった。
「とにかくアメリカに戻るのをもう少し延ばしてください。私が今お話し出来ればよろしいのですが、私は母から詳しいことは聞かされておりません。私は、邑楽家の人間ではありませんからね。祥吾殿、母に会っていただきます」
「何故です」
 明彦は祥吾をジッと見つめた。
「先代は、殺されたのです」
「何」
 祥吾の顔色が変わった。
「何故殺されたのか、誰に殺されたのか、判っています」
「僕は何も聞いていませんが」
「邑楽家当主に、仇を取っていただきたかったからです」
 祥吾は不審そうに、明彦を見る。
「仇を取る? それは、警察の仕事でしょう。犯人が判っているならば、何の問題もないでしょう」
 明彦は首を振った。
「それが、そんなに簡単な問題ではないのですよ、祥吾殿。当麻家を相手にするということは……」
 明彦は当麻家と言う時に、僅かに不安げな色を浮かべて言った。
「当麻家?」
 祥吾の頭の隅にチクッと何かが当たったような気がした。だが、それが何なのかその時の祥吾には判らなかった。
「祥吾殿、あなたの封印を解きましょう。何のために先代が封印をしたのかは判らないが、母ならばその封印を解けると思います。邑楽家の人間である母ならば……」
 祥吾はスッと立ち上がった。
「封印? 僕の中の何かを封印しているのですか。父がそれを行ったのですね。では、お断りするしかないですね。父が僕を封印した、ということは理由があってのことでしょう。父が封印を解くというのならば、僕には何の異存もありませんが、父の許可なしには賛同出来ません。伯父さん、僕は予定通りに明日アメリカに戻ります。この屋敷のこと、よろしくお願いしますね」
 明彦が祥吾の腕を掴んだ。
「お前は先代の仇を取りたくはないのか」
 祥吾がそっと頭を振った。
「伯父さん、父は僕に何も話していませんよ。つまり父は僕に何もしなくていい、と言っているのです。それに何故、邑楽家のことに口を出すのです? 御母衣家の方が……。お祖母様にしても、すでに邑楽家の人間ではありませんよ」
 祥吾の言葉に、ギョッと明彦は手を放した。
「父ならば、きっとそう言うでしょうね、伯父さん」
 明彦はしばらく無言で祥吾を見つめていたが、
「……。祥吾殿、あなたは日本を離れられぬぞ」
 と言って部屋から出ていった。フウッと溜め息をついて、祥吾はソファに座った。
 祥吾は永覚を思い浮かべていた。母親は幼い頃に亡くなったため、父親に育てられたようなものだった。家庭教師はいたが、祥吾にとっては、ただの先生でしかなかった。使用人たちも多かったが、しかし、気が合うほどの人はいなかった。そして永覚にしても、一緒に過ごした時の何と短かったことか……。祥吾は、それを当たり前のように育ってきた。
(お父さん……)
 と祥吾は心の中で呟いた。
(僕の何を封印しているというのですか。《邑楽》とはいったい、何なのですか。僕に何も教えてくれなかったのは、何故なのですか)
 祥吾はかけていた眼鏡を外して、手でもてあそんでいた。
 車の出ていく音が響いて、やがて静かになった。
(いったい、邑楽家にどんな秘密があるというのだろう……)
 祥吾の胸の内の問いに答えてくれる人は、今はいなかった。
 ノックの音が聞こえた。
「祥吾様、御母衣家の方々はお帰りになりました」
 南部がそっと顔を覗かせて言った。
「うん」
 祥吾は目を閉じて言った。
「明日のご出立は昼前でございますね」
「そうだな」
 祥吾は立ち上がってドアのほうへ歩き出した。そして、南部の側で立ち止まった。
「南部、当分は帰れないだろう。伯父さんに頼んでおいたから、この屋敷で番をしていてくれ」
 南部はその白髪を揺らした。
「坊っちゃま、ずっとこの屋敷にいらっしゃればよろしいのに。そして、どこかのご令嬢と結婚して、この爺いめに、また坊っちゃまとお呼び出来る方を抱かせてください。爺いめは淋しゅうございますよ」
 祥吾は南部の肩を叩いた。
「南部、お前はもう充分に邑楽家に対して仕えてきた。ここでゆっくりと老後を楽しんでくれ。僕はそれを願っているんだよ」
 祥吾は南部の何か言いたそうな顔から目を逸らして肩を抱くような感じで、部屋を出てドアを閉めた。


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