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邑楽家。
当主祥吾は弱冠26歳である。半年前に父親を亡くしていた。
遠慮がちにノックの音がして、扉が開いた。
「坊っちゃま、お加減はいかがですか」
祥吾は少し頭痛がすると言って部屋で休んでいたのだ。祥吾は深く腰を掛けていたソファから立ち上がると、入ってきた南部に向かって嫌な顔をした。
「せっかく良くなったのに、その《坊っちゃま》でまた悪くなった」
南部がその白髪を振って、ああ、と天を仰いだ。
「申し訳ございません。つい、昔の癖が出て参ります」
祥吾は眼鏡を掛けて、少し乱れた髪を整えた。
「ですが、私は先々代からこの邑楽家に仕えている身。旦那様、若旦那様とお呼びした方々はすでに亡くなり」
「南部」
祥吾が南部の口を閉じさせた。その話をし始めると長いのだ。コホン、と祥吾は咳をした。
「お前がお祖父様の代から仕えていることは言われなくとも判っている。だが、今は僕が邑楽家の当主だ。せめて坊っちゃまは止めてくれないか」
南部が目頭を押さえていた手を止めた。
「判りました。では、祥吾様とお呼びします」
「はいはい」
祥吾は、絨毯の上に取り散らかした紙を集め始めた。南部はそれを手伝いながら、
「祥吾様、御母衣家の方々がお見えでございますが、お会いしますか」
と言った。
「何」
祥吾は紙束を放り出した。
「それを言いに来たのか」
「はい」
南部は祥吾の放り出した紙を拾いながら言った。
「何故、それを先に言わないんだ」
南部は無言のまま責めるような目つきで祥吾を見た。
「いや、いい」
と、祥吾は急いで部屋を出た。祥吾は、生まれる前からこの邑楽家に仕えている老人が、どうも苦手であった。
「すみません、伯父さん。お待たせしました」
祥吾は応接室に入っていくと、少し顔をしかめた。急いで窓を開けると、
「伯父さん、邑楽家は禁煙です」
と言った。
「ふん、そうだったな」
御母衣明彦は灰皿で煙草を揉み消した。その横で彼の子供の未和が笑っていた。
明彦は、祥吾の父の従兄であった。祥吾の祖父と明彦の母が兄妹なのである。
「お祖母様は、お元気ですか。父の葬式以来お会いしておりませんが……」
祥吾が明彦の向かいに座りながら言った。
「相変わらずお元気ですわ。祥吾さんに会うのを楽しみにしておりますから、また、御母衣家へいらしてください」
未和が意味ありげに目配せした。それにいちおう応えておいて、祥吾は明彦に目を戻した。
「それで伯父さん、今日は何の用で来られたのか存じませんが、僕も用があったのです。ちょうど良かった」
続けようとする祥吾を、明彦が手で制した。ノックの音が聞こえてきて、ドアが開いた。
「憮養、そこへ置いておけ」
明彦がワゴンを持ってきた南部を見て言った。南部はワゴンを部屋の中に進めると、ドアを閉めて出ていった。未和が立ち上がってお茶を注ぐ。紅茶の香りが部屋に漂ってきた。
「伯父さんの話は、南部にも聞かれたくない話なのですか」
祥吾は訝しげに言った。
「まあな。お前の話をまず聞こうか、祥吾」
祥吾は紅茶のカップを手に取った。
「僕の話は別に深刻なものではないのですが。僕は明日大学に帰ります。次に日本に帰るのはさて何年後になるか……。僕が留守の間、御母衣家でこの屋敷の面倒を見てくださいませんか」
そう言って、祥吾は紅茶を一口飲んだ。明彦が持ち上げたカップを口に持っていきかけて、受け皿の上に戻した。
「アメリカに戻るのか」
「はい。研究もありますし、僕がこちらですることもないですからね」
祥吾はふと気づいて窓を閉めた。その隙に、明彦は未和に目配せをした。未和は、祥吾の肩にそっと手を触れて、少し笑うと部屋から出ていった。
「祥吾、いや祥吾殿、日本に留まって邑楽家を継いでください」
明彦はガバッと頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、伯父さん、何がどうしたのです。どうして頭を下げるのですか。僕は邑楽家を継いでいますよ」
祥吾は呆気に取られた顔で言った。
「いや、継がれたのは名だけ。名実共に邑楽家の当主と成ってください」
祥吾は明彦をまじまじと見つめた。
「あの、伯父さん……。何のことかさっぱり判らないのですが」
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