伝十郎はパッと無陰刀から手を離した。それに四郎が不思議そうに伝十郎を見た。 「どうかしたのか、伝十郎殿」 伝十郎がクッと笑いを零し、苦い顔をする。 「どうやら、この刀を持てるほど、業が深くないらしい」 伝十郎はそう言ってスッと立ち上がり、 「俺は……」 と続けたが、何を言っていいのか判らなくなり、そのまま去ろうとした。 「伝十郎、まだ帰ってはならぬ」 大御所の制止に、伝十郎は冷ややかに相手を見下げた。 「しばらくお前に従っていたのは、命を助けてくれた礼のつもりだった。だが、その恩返しは充分すぎるほど返したと思うからな」 「だから、もうわしの命令は聞かないと言うのか」 「命令に従っていたわけではない。少し気が向いただけの話だ」 「お前も幕臣であろうが。お前にも徳川の血が流れているだろうが」 大御所の言葉に伝十郎が自嘲を浮かべる。 「そうだな、それは確かに真実だ。どれほどに忘れようとしても、俺の素性は無くならない。そしてそれを認めるならば、大御所、俺はお前を恨む立場にあることを忘れているのか?」 そう言って伝十郎は自分が言った言葉にさらに苦いものを感じた。 それを振り払うように、伝十郎は四郎のほうを向く。 「四郎殿、お前にも俺は落胆したな」 四郎が顔を強張らせた。 「俺は絶対に大御所に会いに行くとは思わなかった」 伝十郎はそう言ってクルリと背を向け、残った二人は声を掛けることなくその背を見送った。 伝十郎の姿が消えると、大御所は四郎に向き直る。 「どうして会いに来た?」 四郎はそれには答えず、無陰刀を大御所に差し出した。 「お返しします」 そう言って四郎は言葉を続ける。 「あなたはすでに私のことを捨てていらっしゃったのでしょう」 淋しげな表情を浮かべて四郎は大御所を見る。大御所は顎に手を当てて首を振った。 「捨てたのは、お前のほうが先だった」 「私が一年前に戻ってきて一番驚いたのは、実はあなたなのではありませんか」 「だが、お前はわしの息子だ」 「そう。ですが、本当に私に会いたいと思ってはいなかったでしょう。会いたいと言っていたのは、斉藤堀部という男がついた嘘だ。そうだな、斉藤殿」 隣部屋の襖が開き、堀部が現れた。 「そうです」 堀部は四郎から少し離れた場所に座る。 「ですが、長信様は私どもの夢なのです。貴方様の成長をどれほどに心待ちしていたか、貴方様は判っていない」 堀部は少し苛立ったように言った。四郎はスッと目を落とす。 「それを私に求めるのは、お前たちの勝手だ。だが、押しつけられるのは、お前たちの傲慢だぞ」 「夢なのです。私たちは貴方様に夢を求めていたのです」 四郎が乾いた笑いを零した。 「斉藤殿、見果てぬ夢を見ていたのだな」 「見果てぬ夢……ですか」 堀部が苦しげに言い、大御所がポツリと呟いた。 「見果てぬ夢、か」 四郎がゆっくりと立ち上がり、そして零した言葉を大御所と堀部は聞き間違いかと思った。 「だが、それを一番見ていたのは、本当は私なのかもしれないな」 ハッと見上げた四郎の顔には、何とも言えない哀しげな色が浮かんでいて、二人は言葉を出せなかった。 四郎が出て行く。それを止めようとして、大御所も堀部も動くことが出来なかった。 二人の前に無陰刀だけが残る。 二人はただそれを見つめていた。
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