系図



「里を出られたそうですね」
 主馬はいきなり後ろから声を掛けられてギクリと振り向いた。
 気配など全く感じさせず、その男は主馬の少し後ろに佇んでいる。主馬は相手を確認してニッと笑った。
 里を出てから半月が過ぎていた。
「小鉄、お前がいないお陰で私は掟を守り損ねた。お前から会いに来てくれるとは嬉しいな」
 そこにいたのは、三十歳になった小鉄。
「私を指名するおつもりでしたか?」
 主馬が笑い顔のまま言う。
「他に誰を指名すればいいんだ? お前以外に私を楽しませる者など、あの里にはいない」
 小鉄は主馬をジッと見つめ、その顔には哀しげな色を浮かべていた。
「長老の忍びの長にあるまじき行いで、私の不満をどこにぶつけようかと思っていた。さて、小鉄、やろうか」
「それが主馬様のご希望でありましたら。私もそのためにここに参りました」
 と、小鉄が左足を少し引いた。
 主馬がゆっくりと刀を抜く。
「小鉄、今更聞いても仕方ないが、何故、十二年前に私を殺さなかった?」
 小鉄は表情を変えず、目にかかった前髪を払った。
「何故…でございましょう。主馬様に私を殺させるため、とでも答えておきましょうか」
「十二年前に誰が母上を殺したのか、お前は知っているのか」
 二人の間を木枯らしが吹き抜ける。
「お知りになりたいですか」
 小鉄は静かに言い、その言葉は主馬の心に響いた。だが……。
「知りたいと思った時もある。だが、もういい。それはお前に会ったからだ。母上が誰に殺されたのか、何故殺されたのか、それをもう聞こうとは思わない。聞けたのはあの時しかない」
 主馬がスウッと刀を下段につけた。
「主馬様、真実をお聞きください。母上様のことをお話ししますから」
 小鉄が主馬のほうに歩き掛ける。主馬はグッと唇を噛み締めた。
「無用! 今になってどうしてそういうことを言う。お前が話せたのも、私が聞けたのも、あの時しかなかったんだ!」
 主馬が刀を繰り出すのと、小鉄がふわっと下がるのと、どちらが早いとも見えなかった。
 小鉄の右手にはいつの間にか小太刀が握られている。
 二人が同時に飛び上がって、近くの木の枝に立つ。
「主馬様、清様は」
 主馬は小鉄の口を封じるように先に動いた。その鋭い動きに小鉄は口を噤まざるを得ない。
 刀のかち合う音はしなかった。
 そして、主馬が先に、そして、小鉄が地上に降り立った。
「主馬様、腕を上げられましたね」
 小鉄が先に立ち上がり、その後主馬が左腕を押さえてふらりと立ち上がった。
「師として満足したか?」
 小鉄がにっこりと微笑み、その首筋から血が滲み出てくる。
「主馬様、清様の願いを叶えてあげてください。貴方様が幸せに生きられることだけを、清様は願っておりました。母上様は、主馬様を最後まで守ったのです」
 主馬はハッと小鉄に駆け寄る。その前にドオッと小鉄が前のめりに倒れ、血飛沫が回りの草を濡らした。
 主馬が小鉄の側に行った時、小鉄が微笑んだまま何かを言ったが、主馬には聞き取れなかった。
「小鉄、私は母上の願いを叶えることは出来ない。もう、私には出来ない……。お前をこの手で殺してしまった私には……」
 主馬がふらりと立ち上がる。その左腕からポタポタと血が流れ落ち、主馬は少し歩き出して、ガクリと膝を折った。
 主馬の意識がそのまま遠のこうとしている。
「小鉄、今日から松平主馬の名を捨てる。もう、母上の願いを叶えることが出来ないから。叶えられないから……」
 主馬の閉じた瞼から、スウッと涙が流れた。それに主馬は気付かないまま意識を失った。


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