市田家中屋敷を出た四郎は、屋敷の角を曲がったところで声を掛けられた。 「槇原四郎殿ですな」 四郎が顔を上げると、そこにいたのは髭面の男。 「もしや、斉藤堀部殿?」 おすみにその人なりは聞いていた。そして、確かに彼は堀部であった。 「槇原殿、手紙は読んでいただけましたかな」 「燃した」 四郎は短く答え、それに堀部は髭をさすった。 「上様に、父上様に何故お会いにならないのです?」 「私は松平長信ではない」 堀部は面白そうに笑う。 「では、本郷の姫に会われるのは、そして市田家を訪れるのは、一介の浪人として、というわけですかな。老中のお子たちに会うには、ちと身分が違いすぎるのではありませんかな?」 四郎は唇をグッと噛み締めた。 堀部が歩き出しながら、 「長信様、私たちはいつでも貴方様が戻られるのを待っております」 と言った。 「無駄なことはするな。私は戻る気はない」 四郎はきっぱりと言った。 堀部がクルリと首を回すと、 「袖口に血が付いておりますぞ」 と言い残してその場から去っていく。そして角を曲がったところで、ふうっと大きな溜息をついた。 「袈裟懸けに一太刀ってとこか」 堀部は首筋に浮かんだ汗を拭う。 「随分と危ない奴だな」 いきなり後ろから声を掛けられて、堀部はギクリと振り向いた。そして相手を確認しホッと息を落とした。 「ああ、お前か、伝十郎」 そこにいたのは早瀬伝十郎であった。伝十郎は堀部を冷たく見つめながら、 「何故、四郎殿に構う? 未だ将軍家を継がす気でも持っているのか」 と言った。 「当たり前だ。お前には判るまい。あの方の成長をずっと見守ってきたわしらの気持ちなど」 「ああ、判らないさ」 伝十郎は冷ややかに笑う。堀部が伝十郎の腕を掴んだ。 「では、お前はどうしてあの方の側にいる?」 伝十郎は表情を消さないまま、 「理由がなければ側にいたらいけないのか。面倒なことだな。うん、そうだな、そう、惚れたんだよ。槇原四郎という男にな」 と言った。堀部がギロッと睨む。 「馬鹿言うな。お前が惚れたのはあの方の腕にだろう。伝十郎、立ち合いは許さぬからな」 伝十郎は堀部の手を払った。 「お前に命令される筋合いはないぞ」 「では、上様にお伝えしておく」 伝十郎は軽く笑った。 「助かった。城に忍び込むのが面倒だったんだ」 そう言って去り掛けて、 「でもな、堀部、お前は大御所に雇われているかもしれないがな、俺は、別に奴の狗になった覚えはないぞ。それを覚えておくんだな」 と振り向いた。 「伝十郎!」 堀部の叫びを背にして伝十郎はその場を立ち去った。 堀部はチッと舌を鳴らし反対方向へ歩き出す。
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