その日は梅雨の晴れ間であった。 市田家中屋敷では吉信が一人でいた。露姫も父も兄も、滅多に顔を見せることがない。 今日は珍しく床を払って吉信は縁側で障子にもたれていた。 庭で雀がチュンチュンと飛び跳ねるのを、吉信はぼーっと見つめていた。 と、足音が近づいてきたのが聞こえてきて、吉信はそちらを向き、嬉しそうな顔をした。 「長信」 現れたのは四郎である。四郎は縁側に無陰刀を置き、腰掛けた。 「今日は加減がいいのか?」 四郎が心配そうに言うのに、吉信が笑う。 「お前が来てくれたから気分がいい。会いたかった」 四郎は吉信の視線が痛かった。吉信が会いたいと思っていることを知っていたのに会いに来なかった。自分は吉信の幼馴染みの長信ではない、それにこだわって会いに行くのを躊躇っていたのだ。 吉信はこの前会った時より、またさらに痩せ衰えていて、四郎はそんな姿を見るのが辛い。 「梅雨の晴れ間というのは、どうしてこんなに美しいのだろう」 吉信が眩しげに庭を見て言った。 「雨が埃を払ってくれるからかな」 四郎は真面目に答える。それに吉信が笑い、そして笑ったまま、 「長信、露姫殿に会ったんだろ?」 と言った。四郎は頷く。 「私は露姫殿が好きだ。最初に会った時からこの思いは変わらない。だが、彼女にはこの思いを伝えることはない、一生な」 「吉信、それは」 言いかけた四郎を無視するように、吉信は続けた。 「お前はどうして私に会いに来た?」 四郎は視線を落とす。 「お前に会いたかった」 「今になって会いたくなったのか。それとも、露姫殿に言われたからか」 四郎は首を振った。 「会いたいと、ずっと前から思っていた。別に露姫殿に言われたからではない。ただ、私は名を捨てた身だ。だから会ってはいけないのだと思っていた」 吉信が立ち上がって少しふらつきながら四郎の側に座り、無陰刀を手に取る。 「どうしてお前は私の前にいる。どうして江戸に戻ってきたんだ。あのまま忘れられたら、私はこれほどにお前を憎まずにすんだのに」 吉信はスラッと無陰刀を抜いた。四郎は身動ぎもせずに吉信を見つめる。 吉信に殺気はない。だが、殺気もなしに四郎を刺すことは出来るだろう。四郎はその可能性に気付いても動こうとはしなかった。四郎には吉信が自分を憎む気持ちが判る。 「お前は生まれながらにして手に入れたものを、自分には必要ないなどと傲慢な態度で捨てようとする。それで捨てればいい。だが、お前は何も捨ててはいない。お前は名を捨てたなどと言って、本当に捨てているのか? 私には求めようとも手に入れようとも、出来ないものを持っているのに。そして露姫殿も……」 吉信は微笑んだ。 「長信、私にはもう時間がなかった。だから、今日お前が来てくれたことは嬉しい。お前が来るのを待っていたんだ。どうしても、お前に会わなければならなかったから」 四郎は吉信をただ見つめていた。きっと吉信は自分を刺すだろう、そう四郎は思っていたが、その刃を避けることなどしない、とも思っていた。 避けることなど出来ない、と。 「お前に会ってから逝きたかったから。お前を憎んだまま逝きたくはなかったから。心の全てを吐き出せば、お前に私が判ってもらえると思ったから」 吉信がふわっと笑った。四郎はその時その笑いを見つめたまま、体が動かなかったのが不思議だった。 吉信が無陰刀を自分の胸に突き刺す。白い夜着が瞬く間に赤く染まる。 「長信、判ってくれたか」 吉信の体がぐらりと倒れ掛け、四郎がそれを支えた。 もう医者を呼んでも助かる見込みなどない。そして、吉信はもう生きる気などないのだ。 「いつまでも、私はお前を好きだよ」 吉信がすうっと瞼を閉じる。 「吉信、すまない。本当にすまない。私はお前の……」 吉信が最後に幽かに言う。 「いつまでも見ていたかった」 四郎の腕にずしりとかかるはずの吉信の重さは、あまりにも軽かった。四郎はゆっくりと吉信を横たえると、無陰刀を拭って鞘に納めた。 文机の上に市田邦貞に宛てた吉信の手紙が置いてある。それに気付いて四郎は再び吉信の死に顔に目を落とした。 「本当に、私が来るのを待っていたんだな、お前は……」 四郎がポツリと呟く。吉信の気持ちが痛いほどに判る。そして、自分の罪の深さも。
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