羽場家。 その四阿に外記と湊屋はいた。 花菖蒲が池の近くに群叢している。 とりとめのない世間話をしていた二人に、どこからともなく声が響いてきた。 「殿、長信君がいらっしゃいました」 声が消えると同時に築山の向こう側から四郎が現れた。玄関から入っていないのは、見ての通りである。 外記が立ち上がって、 「どうぞ、こちらに」 と四郎を招いた。 四郎は躊躇いがちに四阿の椅子に座り、外記も再び腰を落ち着けた。 そして、そのまま誰も口を開かなかった。 やがて、にこにこと笑いながら湊屋が、 「槇原様、羽場様のお屋敷の四季はそれは見事でございますよ。今を盛りと花菖蒲があんなに。この季節だけではございません。どの季節に訪れても、いつも華やかなのでございますよ」 と言った。 四郎は花菖蒲のほうを向いたが、口を開いて出てきた言葉は全く関係のないことだった。 「羽場殿、大御所の寿命が尽きるというのは本当なのか?」 外記が四郎の横顔を見、腕を組む。 「そうでございますね。あのお年でございますから。いちおう、まだお元気のようでございますが」 「そうか」 と四郎はポツリと呟く。 「お会いしたいのでしょう?」 外記の言葉に四郎はビクリと震えた。 「会えるわけはない」 四郎がそう言ってさらに目を逸らす。 「松千代殿には悪いことをした」 外記が首を振った。 「何もされておられないではありませんか。それに松千代はあれで良かったのですよ」 座敷にボウッと明かりが灯って、四阿に通じる小道にも所々明かりが入った。いつの間にか日が沈み夕闇が迫ってきている。 家臣が四阿の四隅に明かりを置き静かに立ち去った。 「座敷に入らぬか」 外記が立ち上がって言うと、湊屋が続いて立ち上がる。だが、四郎は動こうとしなかった。 「槇原様」 湊屋が四郎の前に立ち、外記は一人で座敷のほうへと戻る。 「武士をお捨てなさい」 いきなりの湊屋の言葉に四郎は思わず顔を上げた。 「武士を捨てる? この私が?」 「名前を捨てた貴方様です。武士を捨てることも容易いのではありませんか」 「湊屋、それは皮肉に聞こえるぞ」 四郎が不機嫌な口調になるが、湊屋は真剣な顔であった。 「すべて終わったと思っていらっしゃるのではありませんか」 湊屋の言葉に四郎も真剣な表情になる。 「貴方様が江戸におられるかぎり、何も終わりはしないのです。ですが、貴方様は江戸から出て行くおつもりはないのでございましょう? ならば、その髷を結い直し、刀を捨て、町人としてお生きなさいませ。そこまでしたなら、恐らく大丈夫ではないでしょうか。今の子供たち相手の生活を壊したくないと思われませんか」 「湊屋、それは……」 湊屋は四郎の前からスウッと下がった。 「その刀、無陰刀という名でございましたね。貴方様よりもっと似合う男がいます。貴方様は血を流されてはならないのです。あの男にこそ、その無陰刀はふさわしいでしょう」 「あの男とは、誰だ?」 「松平主馬、定信翁の孫でございます。今は早瀬伝十郎と名乗っておりますね」 湊屋はそう言って座敷のほうへと戻っていった。 「伝十郎殿が……」 四郎は立ち上がることなく呟く。そしてフッと湧いた気配に気付いた。 「確か、出馬といったな」 その出馬の声がどこからともなく響く。 「お聞きしたいことがございます」 四郎が無言で促した。 「貴方様はいったい何をしておられるのです?」 四郎は無言だった。 「私たちは殿の命で貴方様が江戸に入る前から護衛をしておりました。ですが、貴方様にはそんなものは必要ありません。それを殿に具申しても、殿はただ命令を守れ、とだけ。いったい殿は何を考えておられるのか。湊屋の言ったとおり、まだ何も終わってはいないのです。貴方様が江戸を出て行かないかぎり。湊屋が言った武士を捨てるのも一つの方法でしょう。ですが、私はそれは甘いと思います」 「出馬、お前、里はどこだ?」 自分の質問を全く無視した四郎の言葉に、出馬はグッと唇を噛み締めた。だが、答える。 「飛騨でございます」 「飛騨か、懐かしいな」 「行かれたことがあるのですか」 「飛騨から戸隠……」 「古武道も?」 「いや」 そこで、四郎はまた沈黙した。 四阿の四つの明かりの内の一つが風に吹かれて消える。 「飛騨に戻りたいとは思わないのか」 しばらく後に四郎が言った。 「私には殿がいらっしゃいます」 僅かも沈黙することなく出馬は言った。 四郎は軽く笑う。 「お前には私が江戸に留まる理由が判るか?」 今度は出馬が沈黙し、やがてしばらく後に口を開いた。 「私は判りません。私などには判るはずのない理由なのでしょうか。私は貴方様が実はすべてを知っていらっしゃるのではないかと思えます。知っていらっしゃる上で、江戸に留まっていらっしゃる。そんな風に思えます」 出馬の言葉が終わると、残っていた三つの明かりが同時に消える。 出馬がハッと辺りを見回したが、四郎の姿はすでにどこにもなかった。 出馬は立ち上がり座敷のほうへと戻る。 「忍びにあらざる行為だな」 ありありと後悔の色を含めた呟きだった。
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