系図



 森の中。
 女が一人いた。
 江戸を出て12年が経ち、三十路を迎えた澪であった。
 澪はキョロキョロと辺りを見回して、
「主馬様、主馬様、どこにいらっしゃいますか?」
 と呼び掛けた。
 少し離れたところの木の陰から、
「呼んだか、澪」
 と現れたのが18歳になった主馬であった。
 澪は立ち止まると、
「長老がお呼びでございます」
 と頭を下げた。
「判った」
 主馬はそう言って歩き出し、澪のすぐ前に立ち止まると、
「小鉄は今、里にいないようだな。どこに行ったんだ?」
 と言った。
「小鉄は長老の使いで京へ行っております。半月ほど経てば戻ると思います」
 澪はそう言ってクルリと背を向けて先に歩き出した。
「そうか」
 主馬は呟いて澪を追い抜き、そして長老の元へと向かった。

 長老は板張りの座敷の中央に座っていた。
 主馬が入ってきて真向かいに座ると、ゆっくりと目を開く。
 白髪が薄くなり髷は結っていない。
 老人ではあるのだが若く見える。
 この里の長老であり、そしてこの里の忍びの長でもあり、そして、小鉄の祖父であった。
「主馬様、ここに来られて12年が経ちましたな」
「そうだな」
 主馬は素っ気なく答える。
「これから先、どうなさるおつもりでございますか?」
 主馬は長老を冷ややかに見た。
「お前は私に出て行って欲しいみたいだな」
 長老は真剣な表情を浮かべる。
「主馬様、何故12年前に小鉄なり、澪様なりに真実をお聞きにならなかったのじゃ? わしは主馬様がそうされると思っておりました」
 主馬は冷たく笑う。その表情に長老が顔を暗くした。
「そうだな、何故かな。最初は聞かなければならないと思っていた。だが、小鉄に出会ったことによって、その気持ちがどこかに行ってしまった。そのまま時が過ぎてしまっただけだ」
「では、今お聞きになりますか?」
 主馬は長老をジッと見た。
「いや」
 と主馬は首を振る。
「それは、私を12年間育ててくれたことに対する礼のつもりだ」
「主馬様!」
 長老はいきなり顔色を変えた。
「それはいったいどんな意味があるのです。もしや、清様を殺したのはこの里の者と思っておられるのではないでしょうな。それは誤解ですぞ!」
 主馬は口元を歪める。
「あの夜の本当のことを知ったとして、それで母上が戻ってくるとでも? それに、今の私には誰が母上を殺したなどということは、どうでもいいことなんだ。お前がその誰かを知っていたとしても、別に私はそれを聞こうとは思わない」
 主馬が長老から目を逸らす。
 長老はフウッと息を落とすと、スッと立ち上がって近くの柱に近づき、コン、と叩いた。
 ポカリと柱に空洞が空く。そこに手を入れて長老は一振りの刀を取り出した。
「これを主馬様に差し上げましょう」
 そう言って長老は刀を主馬に渡した。
 主馬はスラッと刀を抜く。
「見事だな」
 一言言って主馬は見入った。
「それを持ってこの里から出てお行きなさい。主馬様、わしは主馬様が可愛かった。だが、今はその気持ちはどこかに行ってしまった。わしは主馬様が怖いのじゃ」
 主馬が刀を鞘に戻して、ニッと笑う。
「長老、正直だな。いいさ、私もそろそろ出て行こうと思っていた。だが、私も12年間この里に住んできた。やはりこの里の掟に従わなければならないのだろうな」
「いいえ、主馬様、別にそれに従うことはありません。あなたはこの里で生まれたわけではないのですから」
 主馬がクスリと笑った。
「私が相手を小鉄と言うことが判っているから、そう言うのか? そう言えば小鉄は京に行っているそうだな。なかなか具合が良いように」
「…………」
「小鉄が私に勝てないことが判っているから、小鉄を京に行かせたのか。孫をそんなに殺されたくないのか、長老。忍びの長を名乗るには随分と甘過ぎやしないか」
「忍びとて、人でございますよ、主馬様。その刀、造った者は失敗作と申しておりました。その者は生涯に2本の刀を打ったそうです。その一つが無陰刀と呼ばれ、将軍家に献上されました。そして、もう一つがそれです。それには名前が付いておりませんでした。ですから、わしは無頼剣と名付けました。主馬様にぴったりの刀だと思いますな。失敗作と言っても、そこらの刀匠が造れるような代物ではありませんからな」
 主馬は立ち上がって無頼剣を腰に差した。
「ありがたく使わせてもらうさ。それでもう一つの無陰刀か、それは誰が持っているんだ?」
 長老が主馬を見上げて、
「今の将軍家の弟君、松平長信様に渡されたということじゃ。その長信様は城を出奔されたということを聞いた」
 と言った。
「お家騒動でもあったのか」
 面白そうに笑って主馬は言った。
「いつか、その刀の持ち主に会えるかな。会いたいもんだな。この無頼剣とその無陰刀が、どれほどの違いがあるのか興味ある」
 主馬はそう言って外へ出た。そして振り返ると、長老は主馬のほうを向いていた。
「長老、長生きしろよ」
 長老は無言で主馬が立ち去るのを見つめていた。
 多分、お互いにもう会うことはない、と思いながら。

 季節は初冬。
 山の中の里に冷たい風が吹きすさぶ中、主馬は12年間暮らした場所を去っていったのだった。


←戻る続く→