「うわあ、見てください、母上、今年も桜が満開になりましたね。本当にこの桜は綺麗ですね」 「ほんに、そうですね」 清はふわっと笑う。それを見つめて主馬は幸せだった。 「母上、どうして桜はこのように綺麗なのでしょう?」 清は主馬の側にしゃがみ込んだ。 「そうですね。桜は私たちのように寿命が長くないのです。桜の花が咲いている時は本当に短い。だからこそ、このように綺麗に咲くのではありませんか」 ふうん、と主馬は桜を見上げた。 「主馬殿は何歳になられました?」 「6歳です、母上」 「主馬殿は野心はおありか?」 「野心? ……あるかもしれない」 清はにっこりと笑い、主馬の頭に手を乗せた。 「母は、主馬殿がゆくゆくは松平家を継いで出世されるのが夢ですよ」 「母上……」 困ったような顔で主馬は清を見た。清はまた笑う。そして桜を眩しげに見上げた。 「桜は今を生きることだけに精一杯なのです。だから、これほどに人々の心を和ませる」 清は主馬に視線を戻した。 「でも、人にはそんな生き方は出来ないのです。生きることさえ下手で、だから欲が出てくるのです。人はいわば、薄い刃の上を裸足で歩いているようなもの。己の死期が判ってしまったらどうします? 人とは弱いものなのですよ」 主馬は哀しそうに清を見つめた。 「母上、そんなに人は弱いものですか? そうなのですか? 私はそうは思えません。ねえ、母上、人はあなたが思うより、ずっと強くて強かだと思います」 清は思わず主馬をギュッと抱き締めた。 「本当に、本当に、主馬殿は私の宝です。元信様が残してくれた、大切な宝物です。私の誇りですよ、主馬殿」 そう言って清は主馬の頬をそっと挟んだ。ハッとしたように主馬が清の袖を掴む。 「どうかしました?」 「あ、今、母上が消えそうに感じて。そんなはずはないですよね。あまりに母上がお美しいから、羽衣で天に上られるような気がしました」 「まあ」 と清が主馬の頭を小突く。そして嬉しそうに微笑んだ。 「主馬殿、生きている限り行き着くところはみな一緒です。それが早いか遅いかは誰にも判らないことですけどね。でも、これだけは言っておきます。決して諦める人生は送らないで。世の理の通りならば、必ず母は主馬殿より先に逝きます。それを哀しんではいけませんよ。母はその時がいつ来ても良いと思えるように、悔いのない生き方をしているのですから。だから、主馬殿もそんな生き方をして欲しい。これが母のたった一つの願いじゃ」 「母上」 清の手をそっと主馬は握り締めた。柔らかいその手の感触を、主馬は生涯忘れることが出来なかった。その温かく柔らかい母の手を。 「失礼いたします」 声を掛けて男が現れた。松平家分家の家老、藤倉左近であった。 「主馬様を殿がお呼びでございます」 主馬は左近を振り向いて、 「判った。すぐに伺いますと伯父上に伝えてくれ」 と言った。左近は一礼すると立ち去った。 「母上、では、伯父上に会ってきます」 主馬がにっこりと笑って言った。清がその頭にもう一度手を乗せる。 「きっといい話ですよ、主馬殿」 「はい」 主馬が清をジッと見つめて、そして駆け出していった。そして、曲がり角で一度振り向いて手を振る。清はそれを微笑んで見つめていた。 桜の花びらがその立ち姿の上にひらひらと舞い降りていた。
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