江戸城中。 将軍家は肩を揺すられてハッと目覚めた。 「お静かに」 声の主が行燈を点けながらそう言ったのに、将軍家は声を震わす。 「だ、誰じゃ」 光の輪がボウッと声の主を浮かび上がらせて、将軍家はその顔を見てハッとした。 「長信……」 将軍家はそう言って、驚きと涙を浮かべる。 「お久しぶりでございます。お元気そうで安心いたしました」 四郎がホッとした顔で言ったが、将軍家は反対に青ざめた顔になった。 「長信、お前はここに堂々と入ってこられる身なのに、何故、このような帰り方をしたのだ」 四郎は首を振った。 「私は帰ってきたのではありません。ただ、一目、お顔を見に来ただけです」 「ほ、本当にそれだけなのか?」 将軍家は唇を震わせた。 「そうです」 「な、長信、戻ってくれ。わしの世嗣は今もほとんど床を離れられない。今からも恐らく良くなることはないであろう。わしにはあれしか子がおらぬし、父上のように子を作りたいとは思わぬ」 「しかし、上様、それでは」 「長信、わしはお前が城に戻ってくるのを待っておったのじゃ。わしのためにも城に戻ってきてくれ。父上もお前のことを気にしておられるぞ」 将軍家は四郎の腕を掴んだ。 「私は、城には戻りません。ですから、上様、どうか私には構わず……」 四郎は軽く手を振った。将軍家は四郎に縋り付くような視線を当てる。 「長信、もうわしを兄とは呼ばぬのか……。わしは、お前の兄ではないのか。お前はわしの弟じゃ。わしの跡目を継いでくれ」 「上様」 四郎はそう言って少しの間口を噤んで、やがて開いた。 「上様、長信は6年前に城を出たきり行方知れずなのです。ですから、上様」 二人は静かに見つめ合う。 やがて、一人が躊躇いがちに口を開いた。 「しかし、わしにとっては弟じゃ。いや、皆にとってもわしの弟なのじゃ。お前が捨てようとしても、いつまでもその名はお前のものなのじゃ」 その言葉に何も言わず、四郎は庭に消えていった。 将軍家は青ざめた顔のままその背を見つめていた。
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